第102話 視経制圧
四肢竜の例に漏れず、
竜共通の魔法『
『視経制圧』。
わかりやすく言えば、
文字に起こしてしまえばシンプルなものだが、琥珀豹の魔法『珀晶生成』や
体重が数十倍や数百倍に膨れ上がれば、どんな動物であってもまともには動けなくなる。骨格が弱い生物ならばそのまま圧死。強度的に肉体が耐えられたとしても、意図的に血圧を上げられない生物ならば血の巡りが著しく悪くなって失神する。
現に今も、身動きできない
シルティは笑いながらギリギリと歯を食いしばった。
いやはや、身体が重い。
体重の操作でもしない限り、この重力圏の中では動けない。
もし
父への対抗心と、竜への敬愛と、動かねば死ぬという興奮。全てを
「ふんぬッ、ぐッ、う、おるぁぁあぁあぁぁ……!!」
乙女らしからぬ野太い気声を上げながら、地面にへばりつきそうな頭と身体を強引に持ち上げ、視界の中央に自分の
普段の数十倍にも及ぶ高負荷に耐えられず、うなじの
本当に、馬鹿みたいに身体が重い。
手に握る〈紫月〉も、馬鹿みたいに重い。
だからこそ、シルティはご機嫌だった。
今も海の底でシルティを待っているであろう家宝に思いを馳せ、一瞬だけ懐かしむような柔らかい微笑みを浮かべる。
直後、その笑みを好戦的なものに変えた。
未完成の霊覚器に映るのは、淡く虹色に揺らぐ曖昧な景色。
この超常の重圧を生み出している、魔法『視経制圧』の影響範囲。
(斬るッ!)
未来の確信と共に左足を前へ滑らせ、普段の数十倍の体重を踏み込みに変換。
増幅された力の流動を、足首、膝、股間、腰と順番に練り上げて、最後には〈
極限に精密かつ
形相切断。
涼やかに放たれた左逆袈裟が、『視経制圧』の領域をさぱりと斬り裂く。
視界を滲ませていた虹色が切開され、同時にシルティは肉体の自由を取り戻した。
間髪入れず地面を蹴り、足場の粉砕と引き換えに得た瞬時の加速で
こんにゃろうという反骨心を胸に、シルティは
手を伸ばせば鱗を撫でられるほどの至近距離。分厚く濃密な生命力を肌で感じる。物理的な圧力を覚えるほどの素敵な生命力だ。血が滾らずにはいられない。
擦れ違いざま、シルティは全身全霊で強化した〈紫月〉を
(
硬い。硬すぎる。
〈紫月〉を弾かれた勢いをも利用して後方へ跳躍、大きく間合いを作って仕切り直す。
ほとんど万全の体勢で振るったというのに、〈紫月〉が
一般的に竜の身体で最も柔らかいと言われるのは腹や喉で、次いで六肢の付け根、さらに脇腹だ。いずれも動きの要となる部位である。だが、比較的柔らかいはずの脇腹にすらまともに刃が通らない。
より大きな鱗を揃える背中や首は、一体、どれほど硬いのか。
叩き付けるような攻撃では駄目だ。
恋慕の表情を浮かべながら、シルティは乾いた唇をちろりと舐めた。
相手が硬ければ硬いほど斬りたくなってしまうのがシルティという娘である。
しかし、さすがに
狙うべきは背後。
可能な限り視界の外に身を置き、少しずつ刻んでいくしかない。
シルティは自らの誇る動きのキレを十全に発揮して弧を描き、
それをわかっていてもなお、シルティは肉薄を選んだ。
シルティは剣士だ。
相手を斬れる場所にいなければ何も始まらない。
一歩踏み込み、二歩目を踏み出す。
その瞬間。
唐突に死を感じたシルティは、全力で仰け反った。
半瞬前までシルティの頭部があった空間をなにかが通過する。興奮と緊張により引き伸ばされた時間感覚のおかげで、シルティの眼球はそれを克明に捉えることができた。
暗褐色で、細くて、鋭い先端を持ったなにか。
直後、目の前の空気が炸裂した。尾の先端が
物質的に尾を回避できても、それが伴う余波からは逃れられない。
至近距離からの衝撃波をまともに受け、シルティの聴覚は死んだ。呆気なく鼓膜が破ける。耳鳴りが酷い。さらに視界は真っ赤に染まり、鼻腔の奥からつんとした血の味が広がる。露出していた粘膜の毛細血管が破裂したようだ。
赤くて鉄臭くてうるさい世界の中、シルティはなおのこと前へ踏み込む。
せっかくの竜殺しの機会だ。目を閉じている暇はない。渇望を帯びた生命力が眼球の負傷を即座に治療する。再生した眼球の性能を早速振り絞り、シルティは暴風のように
精密な運足によって成立する極限の加減速により、襲い来る致死の
尾を躱す。その
シルティは潔く聴覚と嗅覚を捨てた。
有り余る生命力に任せ、眼球だけを再生していく。
「あっははッ!!」
血涙と鼻血を垂れ流しながら、シルティは壮絶な笑みを浮かべた。
楽しい。敵の攻撃を避けきれない。刻一刻と怪我をしていく。死ぬほど楽しい。
遭遇時に地面に圧し付けられて以降、そのままにしていた飛鱗たちに意識を向ける。切断力のために回転させる余裕はない。ただひたすらに全速力で離陸させ、
だが、意識が前に向いたせいなのか、尾の動きがほんの僅かに乱れた。
見逃さない。
低く低く低く、地面を這うように
(いけるッ!)
荒れ狂う尾の付け根、鱗と鱗の境目に、細い細い割れ目を目視した。
少なくともシルティの知る限り、太刀で斬れないほどにお尻の穴が固い陸上生物は存在しない。
あの割れ目に刃をザクリと割り込ませ、尾を根本から輪切りにしてやる。
必殺の意思を刀身に乗せ、殺意を以て踏み出したシルティの足が、
ぎょっとする間もなく、身体が前に傾く。
まずい。シルティは飛べない。動けない。
尾が来る。右頬に来る。喰らえば、死ぬ。
シルティは辛うじて〈紫月〉を掲げた。
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