第101話 大蜥蜴



 港湾都市アルベニセまであと一日ほど、というところで、シルティは唐突に足を止めた。

 すん、と鼻を鳴らす。

 血の匂い。

 背負っている蒼猩猩のものではない。もっと新鮮で濃厚な血の匂いだ。

 風向きのせいで気づくのが遅れた。

 かなり、近い。


「止まって。後ろに」


 シルティが飛ばした短い指示に従い、レヴィンはすぐさまシルティの背後へ回った。四肢を広げて頭を低く構え、耳介を忙しなく動かし、周囲を探り始める。

 現在地は猩猩の森の浅い領域だ。こんなところにシルティの脅威となるような魔物は生息していない。

 だが、『生息していない』は『存在しない』という意味ではない。

 鷲蜂わしバチが季節外れの営巣を行なっていたように、自然界にはイレギュラーなイベントが目白押しなのだ。どこか別の環境に住んでいた強大な魔物が移動してくる、などということは日常茶飯事である。

 視覚。聴覚。嗅覚。そして、霊覚。

 自身に備わる全ての索敵機能を振り絞り、シルティは周囲を探った。


 姿は見えない。

 だが、なにかが、間違いなく、いる。

 霊覚器構築のおかげか、シルティは以前より生命力に対し敏感になっていた。

 方角は、真正面だ。頬がひりつくような暴力的な生命力を感じる。

 これほどの密度の生命力。間違いなく、極上の強敵だ。

 逃げられる気がしない。


 シルティは地面に〈冬眠胃袋〉を静かに降ろすと〈紫月〉をするりと抜き、右肩に担ぐように構えた。

 視線を前方に固定したまま、背後のレヴィンの頭を撫でる。


「なにかいる。こっちに気付いてる。レヴィン、足場を作ってに逃げて。できるだけ離れてて」


 冷静に判断して、今のレヴィンではまだ足手纏いだろう。

 レヴィンは悔しそうな表情を浮かべたが、それでもごねることなく指示に従った。珀晶で階段状の足場を生成しつつ駆け上がり、周囲の樹冠を大きく越えるまで高さを稼ぐ。そのまま水平方向へしばらく移動し、充分に距離を作ってから、今のレヴィンが生成できる最大体積の珀晶壁で自身を囲った。


「よし」


 あれならば、よほどのことがない限りレヴィンは安全だろう。後顧の憂いが無くなったシルティは、意気揚々と鬣鱗猪の革鎧に生命力を導通させ、魔術『操鱗聞香そうりんもんこう』を発動した。

 両胸に設置されていた飛鱗が剥がれ落ち、へその高さで滞空、しゅるしゅると回転を始める。


「さて。どんなのが出てくるかな」


 シルティはわくわくしながら、敵の方へと歩みを進めた。





(おお。でっかい。……蜥蜴トカゲ、かな)


 待ち構えるシルティの視界に現れたのは、全長がシルティの三倍はあろうかという巨大な蜥蜴トカゲだった。

 頭部は全体からすると小型で、ふんも比較的短い。鼻先は太く、丸みを帯びている。口唇はぴっちりと閉じられており、牙は見えない。先ほどまで食事をしていたのか、顎の周辺や胸元が血で濡れており、てらてらと光っていた。

 胴体は上下に扁平な円筒形で、腹部が柔軟そうに見える。尾の長さは全長の四割ほどで、あまり太くはない。光沢のある滑らかな鱗で全身が覆われており、色は暗褐色。背中と脇腹には明るい黄色の縦縞が一定の幅で走っていた。

 頸部は長いがくびれておらず、体表に突起などがほとんどないため、鼻の先から尻尾の先まで美しい流線形を描いている。唯一、左右の脇腹付近には短い鉤爪のような突起物が一本ずつ生えており、腹側へときつく湾曲していた。鱗が特殊化したものだろうか。巨大なヘビたぐいに見られる後肢の痕跡器官、蹴爪けづめのように見えなくもない。

 四肢は身体の大きさに対してやや短いが、見るからに屈強で、胴体を持ち上げてしっかりと支えている。腹を引き摺っておらず、動きは速そうだ。


(んんん……)


 シルティの知る限り、猩猩の森に生息するとされている魔物にこのような姿のものはいない。どこかから流れてきたのだろう。

 滑らかな鱗を持つ巨大な蜥蜴。いくつか思い浮かぶ名はある。しかし、種を同定するまでには至らない。


(まぁ、いっか)


 基本的に、シルティは狙うと決めた獲物の情報をしっかり集めてから狩りをする。

 が、なんの情報も持っていない状態での不意の戦闘というのも、それはそれで刺激的なので大好きだった。


 仮称、大蜥蜴オオトカゲ

 彼は先の割れた細長い舌をにゅるんにゅるんと出し入れしつつ、小さな黒い眼球でシルティのことをじっと見つめている。

 自分へ向けられる純粋無垢な食欲を感じ取り、シルティはくすりと笑った。


(なんか食べたあとっぽいのに、お腹減ってるのかな)


 食うか食われるかのシンプルな関係は大好きだ。もちろん、食われるつもりはない。

 この大蜥蜴の肉は美味しいだろうか。小さな蜥蜴なら何度も何種類も食べたことがあるが、ここまで大きな蜥蜴はさすがに未経験だ。初めて食べる動物の肉。まずは生で食べたい。実に楽しみである。

 シルティは〈紫月〉を油断なく下段に構え、切っ先を大蜥蜴の喉元へ向けた。


 息を静かに吸い。

 止めて。

 その、直後。


「んぐッ!?」


 真上から圧し掛かるような耐え難いほどの重圧に包まれ、シルティの膝ががくんと折れ曲がった。

 滞空させていた飛鱗が意思に反して地面に墜落し、軽快で硬質な音を響かせる。


「うっ、ん、うぅ……!!」


 身体が、物凄く、重い。

 咄嗟に太腿の筋肉を駆使して潰れることは防いだものの、まるで体重が数十倍にもなったかのような感覚だ。

 いや、体重だけではない。頭が、毛髪が、筋肉が、革鎧が、飛鱗が、全てが凄まじく重い。踏み締める地面に細かな罅割れが生じている。動けない。

 明らかな超常の発露。

 気が付けば、シルティの視界はうっすらと虹色を帯びていた。

 魔法だ。シルティは今、大蜥蜴の魔法を喰らっているのだ。

 面喰らうシルティを余所に、大蜥蜴はのっそりのんびりとシルティへ近寄り始める。強者の余裕に溢れた威風堂々の歩み。獲物シルティが動けないということを確信している動きだ。相手の逃走など全く考えていない。


(こ、れは)


 知っている。

 シルティはこの魔法を知っている。

 体験したのは初めてだが、間違いない。

 

 自らの重みでくずおれれそうになりながらも、シルティは敵の正体を完全に特定し、そして、歓喜に燃えた。


(この大蜥蜴、重竜グラリアだ!!)


 重竜グラリア

 竜の一種として数えられる魔物の名である。

 紛れもなく竜、つまり動物なのだが、この重竜グラリア、外見的にはあししかない。解体すると確かに中肢帯ちゅうしたい中肢ちゅうしの基部となる骨格組織)が存在するのだが、中肢そのものは骨格からして著しく矮小化および簡略化しており、皮膚と筋肉の中にほとんど埋もれているのだ。

 脇腹から僅かに飛び出している小さな鉤爪のようなもの。あれこそが、退化した重竜グラリアの中肢である。

 おかげで、シルティは魔法を受けるまで相手が竜だと言うことに全く気付けなかった。


 この重竜グラリアのように、六肢動物でありながら一対の付属肢がほとんど発達せず、一見すると四肢動物のように見える竜はいくつか知られている。外見的な特徴から、これらの竜は俗に四肢竜ししりゅうなどと呼ばれていた。逆に、四肢竜を除く竜のことを強調して六肢竜ろくしりゅうと呼ぶこともある。

 四肢竜と六肢竜には、外見以外の点でも明確な違いがあった。

 『強さ』である。

 文字通り手数で劣り、知覚能力でも身体能力でも劣り、さらに生命力の濃密さでも数段劣る。暴力という観点において、四肢竜は六肢竜に遠く及ばない。

 なによりも決定的なのは、その身に宿す魔法の数だ。


 他の魔物とは異なり、竜はその身にの魔法を宿している。六肢動物の中でも種によって差があり、大多数は三つの魔法を宿すが、既知の中では最少で二つ、最多で四つだった。

 ただし、『咆光ほうこう』と呼ばれる破壊的な魔法――炎とも雷ともつかない正体不明の発光するを口腔から噴射し、浴びた物体をさせる――については、漏れなく全ての竜が共通して宿しているので、種それぞれの固有の魔法は一つから三つとなる。


 一対の肢を喪失したことが関係しているのかどうかは不明だが、四肢竜たちがその身に宿す魔法の数は決まって最少、つまり二つだった。竜共通の『咆光』と種族固有の魔法、合計二つだ。

 物理的な意味でも超常的な意味でも、四肢竜たちが発揮できる暴力は六肢竜に大きく劣ると言えるだろう。

 森人エルフたちが伝承する古いうたによると、四肢竜も遥かな古代においては立派な六肢を備えており、三つ四つの魔法を宿していたらしい。が、現代ではこの通り、四本足である。

 何らかの要因により血が濃くなり過ぎたのか、あるいは薄まってしまったのか。彼らが肢を喪失してしまった理由は定かではない。


 とはいえ。

 劣る、というのは六肢竜に比べればという話であって。

 人類種からすれば、四肢竜は遥か格上の生物である。


(うおお……マジかぁ……!)


 凄まじい重圧に押し潰されそうになりながら、シルティは笑うしかなかった。

 まさかこんな人里近くで竜と遭遇するとは。イレギュラーなイベントにもほどがある。

 竜の身体能力は超常的だ。瞬発力に自信のあるシルティでもまず逃げ切ることはできない。背を見せればすぐに追い付かれ、敢え無く咬み殺されるだろう。身体を縫い止めている超常の重圧がなかったとしてもだ。

 こうなってしまっては、シルティが生き残る道はひとつ。

 正々堂々、重竜グラリアを殺すしかない。


(竜殺し……憧れの、竜殺し……)


 憧れの最強種との殺し合いを強制され、シルティの全身に灼熱の生命力が駆け巡る。

 じりじりと燻るように興奮しつつも、シルティは自分の発揮できる暴力を冷静に客観視した。

 どれだけ自惚れても、六肢竜にはまだ敵わない。

 だが、四肢竜ならば、あるいは。

 殺してみせる。

 いや、殺せる。


「んふっ。くふふふふふ……!」


 重圧のせいで開くのも億劫な口から、燃え上がるような嬌笑が漏れ出した。

 とろけたシルティの脳裏に浮かぶのは、尊敬する実の父、ヤレック・フェリスの姿だ。


(お父さんが初めて四肢竜を殺したの、十九歳の時だって言ってた)


 シルティは父親を心底尊敬している。

 そして同時に、好敵手として強烈に意識している。

 自分と同年代の時、ヤレックはどうだったのか。

 自分とヤレック、もしも同じ年齢だったならば、果たしてどちらが強いのか。

 同い年のお父さんを斬りたい。

 同い年のお父さんに斬られたい。

 絶対に実現できない斬り合いを、幼い頃からずっと渇望し続けているのだ。


(私はお父さんより二歳若いッ!!)


 そして今、父の偉業を超える機会を与えられ、シルティは嬉しくて堪らなかった。


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