第89話 精霊の耳
港湾都市アルベニセの誇る七つの公衆浴場の一つ、『西区・公衆浴場』。
その設備のひとつ、個別浴室にて。
全裸のシルティが全身を泡塗れにしながらレヴィンに抱き着き、わっしゃわっしゃと泡を
同行したマルリルは既に身体を清め終えており、薄い金の髪を頭上に結って湯船に胸元まで浸かりながら、きゃっきゃとじゃれ合う姉妹を眺めている。
(……さて、と)
マルリルは、静かに、ゆっくりと、気配を殺し始めた。
ベテラン狩猟者のマルリルがその気になれば、呼吸に伴う身体の膨張はもちろん、心臓の拍動を意図的に抑え込むこともできる。肢体を沈めた湯船の水面に一切の波紋が立たないほどの完全な静止だ。レヴィンを洗うことに夢中になっているシルティは、徐々にマルリルの存在を忘れ始めた。
そしてマルリルは、シルティの意識の隙を見計らい、
「ねえシルティ、ちょっといいかしら?」
「はい?」
シルティが振り返った。
呼びかけた当のマルリルは、目を見開いて固まった。
小さく溜息を吐き出しながら、今度はきちんと口を開く。
「……やっぱり。まだ、三百回もやってないわよね?」
「霊覚器構築ですか? 二百と八十回ぐらいだと思います」
「そうよね……。やっぱりやる気があると早いのかしら?」
「んん?」
「まさかとは思ったんだけれど。あなたの耳、もうできてるわよ」
「え?」
「精霊の耳ね」
「えっ?」
マルリルは人差し指を伸ばして唇に当て、再び、口を閉じたまま口を開いた。
「この声、聞こえるでしょ?」
「うおわっ」
マルリルの口は開いていない。その唇は柔らかく閉じられていた。だが確かに、シルティにはマルリルの声が聞こえている。
シルティからするとまるでマルリルが腹話術を披露しているような光景だが、もちろんそうではない。これはマルリルが、口を閉じたまま自身の精霊の喉を通して語りかけているのだ。
「……おお……。聞こえます……」
「ね?」
この場で唯一精霊の声を聞くことができないレヴィンは、シルティとマルリルを不思議そうに見つめ、泡塗れのまま首を傾げている。
「……全然、気付いていませんでした。外から見てわかるものなんですか?」
いまいち自覚も実感もないシルティは、自らの耳たぶをくにくにと摘まんでから、こてんと首を傾げた。
傾げる角度がレヴィンと全く一緒だ。種族は違えど良く似た姉妹である。
マルリルは内心で微笑ましく思いながら、軽く状況を説明する。
「さっきね、ちょっと違和感があったのよ」
「違和感、ですか」
「耳の中で朱璃が固まっている状態なのに、私の声にしっかり反応していたでしょう。あの時、あなたは目を閉じていたのに」
「あっ。あー。なるほど……」
言われてみれば確かに、とシルティは納得した。
液状の朱璃を注いで凝固させるという関係上、霊覚器の構築中は聴覚を強く殺された状態である。そのため、最中の意思疎通は至近距離での読唇や身振り手振りに大きく頼らなければならない。だがあの時のシルティは、憔悴のため目を開けていることができなかった。
それでも意志疎通が叶ったのは、マルリルが自分の喉と精霊の喉の両方を使って発声しており、シルティの耳がそれをはっきりと聞き取れたからだ。
マルリルはすぐにそれに気付いたが、霊覚器が構築できているかどうかの確認は精神が凪いだ状態ですべきと教わっていたので、教えに従ってこうして入浴中に確認を行なったのである。
「それから、目がチカチカするとも言っていたわね。……見てて」
マルリルが右手を湯船の上に出し、魔法『光耀焼結』をのんびりと行使した。
ゆっくり七つを数えるほどの時間が経ち、
「精霊の耳が出来上がると、景色が少し違って見えるようになるって言ったでしょう? どう? 見えた?」
「は……いや、うーん、んん……」
ここは気持ち良く、はい、と答えたいところだったのだが。
見えるような見えないような、虹色のような無色のような、よくわからないなにかが、マルリルの右の手のひらから立ち昇り、
「び……微、妙……でした……。なんかこう、見えたような、見えなかったような……?」
シルティの主観ではあまりにも漠然とした光景に、曖昧な回答しかできなかった。
「ふふ。まあ、目で違和感を覚えただけでも充分よ。前のシルティだったら、何にも感じられなかったはずだから」
「……はい!」
「耳に関しては、抜き打ちでもしっかり聞こえてたからもう大丈夫。改めておめでとう、シルティ」
「ありがとうございます!」
マルリルの祝福を受け、満面の笑みを浮かべるシルティ。
姉が喜んでいるのが嬉しいのか、レヴィンも立ち上がってシルティに泡塗れの身体を擦り付け始める。
「……んふっ。んふふ。んふふふふ……レヴィン! やったぜッ!」
シルティは感動を堪えきれず、両手でレヴィンの頬を揉みながらその場でぴょんぴょんと飛び跳ね、幼い子供のように歓声を上げて喜びを現した。
「っうぁ、ぅぇぉ……」
赤子の発する
それは、なにかに
(……。この
マルリルはもう結構な回数、シルティと共に入浴を楽しんでいる。
その体格に似合わぬ大きなモノにも、随分と見慣れてきた。
と、思っていたが。
あそこまで
女同士であっても、目の毒になる光景というものはあるのだ。
(……)
正直に言えば、ちょっとだけ、触ってみたい――
「……んンッ」
内に芽生えた邪念を自覚したマルリルは、わざとらしく咳払いをし、頭を振って気を取り直す。
誓って、マルリルにそちらの
「それにしても、早かったわね。普通、もっともっと時間がかかるのよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。みんなが三か月足らずで精霊の耳を作れるなら、きっと精霊術はもっと広まってるわ。……そうね」
邪念を払うように右手のバゼラードをくるくると弄びながら、マルリルは記憶を遡った。
「私が私の先生に、どれくらいで耳ができるんですかって聞いたときは、千回ぐらい悶絶しないと構築できないと思う、って言っていたわね」
「せっ……千回ですか」
「多いでしょ。ちなみに私は九百回くらい。四年もかかってようやくだったわ。……あの四年間のことはできれば思い出したくないわね……」
かさついた眼差しで、マルリルは重々しい溜息を吐く。
シルティが二か月ほどで二百八十ほどを
当時のマルリルは、狩猟者でもないただの
物心ついた頃から自分の肉体を虐めて遊ぶ蛮族でもあるまいし、苦痛に対する耐性など持ち合わせているはずもない。音を上げなかっただけでも称賛されて然るべきである。
「……千回か。マルリル先生でも、九百。……でも私は、二百と八十」
シルティはボソボソと噛み締めるように呟いた。
「ふふふっ。さすが、私……ふふふふふ……」
自分は霊覚器に対して高い適性があるのかもしれない。
シルティは臆面もなく自画自賛を
「……あ」
そしてその直後、笑顔を消し去って青褪めた。
人類種の社会において広く美徳とされる性格のひとつに、『謙虚』というものがある。
故郷を出て以降、シルティはこの
蛮族たちの道徳では、強者は自らの腕前に関して存分に
遍歴の旅に出て以降、シルティが長らく違和感を覚え続けた、甚大なカルチャーショックである。
ゆえに、今のシルティの自尊行為は蛮族的には褒められて然るべきこと、なのだが。
大恩あるマルリルに見せる態度ではなかった、と理解できる程度には、今のシルティは世界の常識を身に付けていた。
「い、いやもちろん、マルリル先生より私が上って言いたいわけじゃない、というか、マルリル先生の授業が素晴らしいってのが大前提ですけどね? あのその、すみません、なんか……つい、感極まっちゃったっていうか……」
先ほどまでの威風堂々とした様子とはうって変わって、あたふたと、しどろもどろに弁明を始めるシルティ。
「別にいいわよ、そんなの。気にしないで」
マルリルは特に気にした様子もなく、むしろ面白そうにくすくすと笑い出した。
「さて。精霊の耳ができたから、次は目と喉ね」
今後は精霊の耳を足掛かりとし、目と
マルリル曰く、精霊の耳ができてしまえば他の五感へも生命力への感受性が
「はい! 楽しみです!」
「……あなたが楽しみにするような
「眼球を
「ひっ。……なに言ってるの。そんな
「……あは。ですよね?」
実のところ、シルティは至極真面目な提案をしたつもりだった。
が、マルリルの呆れたような戦いたような表情を見てお互いの常識の齟齬を察し、我に返って即座に引き下がった。
危うく先ほどの『謙虚』の二の舞になるところである。
いくら再生できるとはいえ、一般的な人類種はシルティが思っているより自分の眼球を大事に扱うのだ。
「目と喉の構築は地道なの。あなたにはレヴィンもいるし、野営しながらでもできると思うけれど、夢中になりすぎて不覚を取らないようにね?」
「はい、気を付けます」
魔法を行使している他者をよく観察することで視覚的な生命力感受性を磨いていくと、いずれ確固たる精霊の目として構築される。これには『他者』の存在が不可欠だが、マルリルの言う通りシルティにはレヴィンという頼もしい家族がいるので全く問題ない。
精霊の
霊覚器の構築は精霊術習得の第一段階だ。家宝〈
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