第88話 三回目の霊覚器構築
思いがけずとても美味しい思いをしたシルティは、羽根のように軽い足取りでマルリルの家を訪れた。
もし恋人ができた際にはすぐにでも同棲できるようにと、マルリルは二人暮らし用の借家に一人で暮らしている。
二度目の霊覚器構築の際に招かれたことがあったので、シルティは住所や道筋をしっかりと覚えていた。
(先生、いるかなー……)
時刻は
マルリルは在宅だろうか。マルリルもまた狩猟者だ。不在にしていることも多い。在宅だったとしても、起きているかどうか。
お寝坊さんでなければ活動を開始している頃合いだが……もし眠っていた場合、わざわざ起こしてしまうのは気が咎める。
コンコン。
ドアを控えめに控えめにノックする。
反応が無ければ大人しく帰ってまた明日来よう、と思ったところで。
(お)
ドアの向こう側から気配がした。
どうやら在宅のようだ。
「はーい? どなた?」
「突然すみません、マルリル先生。シルティです」
「シルティ?」
カチャリ、と開錠の音が響き、すぐさまドアが開かれた。途端に、心地のいい香りがふわりと鼻腔を
「戻ったのね。おかえり。どうしたの?」
普段から垂れ目のマルリルだが、今はより一層の垂れ目だった。というか、細目だった。薄い灰色の瞳の七割近くが瞼で隠れている。薄金色の髪の毛の内巻き具合も一割増しといった様子。着ているものも薄くて柔らかそうな寝間着だし、立ち姿も実に気怠げ。
どう見ても、寝起きだ。
「ご、ごめんなさい。起こしちゃいましたか」
「んー? ちょうどさっき起きたところよ? 目覚ましにお茶を淹れてて……シルティもどうかしら?」
「いえそんな、お構いなく。今日はその、お金を渡しに来ただけなので。すぐ帰ります」
朱璃の費用を計算してみたら居ても立ってもいられなくなってお金を持って来た、ということを説明するシルティ。
「ん……。別に、急がなくてもよかったのよ? 最後に払ってくれれば」
欠伸混じりに微笑みながら答えるマルリル。彼女は港湾都市アルベニセでも上位に位置する狩猟者、つまりかなりの高給取りであり、しかもここしばらくは別の大陸へ渡るために貯蓄に励んでいた。飾らずに言えば、お金には大分余裕があるのだ。
「そういうわけには」
「まぁ、鎧も揃えたみたいだし、もう断る理由もないわね。受け取っておくわ」
「お納めください!」
シルティは頭を深々と下げながら、
「うん。ねえシルティ。このあと、今日は暇かしら?」
手渡された硬貨袋の重さを感じて目が覚めたらしい。マルリルがいくぶん開いた目で予定を尋ねる。
シルティはこのあと、『琥珀の台所』で朝食を摂りつつ掲示板を確認し、次の狩りの予定を立てようかと考えていた。つまり、暇だ。
「物凄く暇です」
「そう? 私も今日は暇なのよね。朱璃の準備はできてるから、三回目の霊覚器構築、今日しちゃいましょうか?」
「ぜひっ!」
今のところ、霊覚器構築はひと月毎に三日間ずつという頻度で進められている。三度目の構築はさらに十日後の予定だったが、お互いの予定が合うならば前倒しにすることになんら問題はなかった。シルティとしても早く霊覚器を構築し終えたいところなので、望むところである。
「それじゃ、準備するわね。お茶でも飲んで少し待ってて?」
◆
身嗜みを整えたマルリルと共に都市の外へ出向く。
いつものようにマルリルの血液を混ぜた朱璃をシルティの耳の穴に注ぎ、しっかり凝固させる。
マルリルの太腿の上にシルティの頭部を乗せ、仰向けの膝枕の体勢に。
マルリルが両の手のひらをシルティの耳に当て、生命力をぶち込む。
シルティが絶叫して悶絶する。
それを継続しつつ、マルリルが自身の霊覚器を通して発声し、語りかけ、シルティが限界を迎えるまでしっかりと精霊の声を聞かせる。
霊覚器構築もこれで累計七日目。
『生命力をぶち込み始めてからシルティが限界を迎えるまで』を一回と数えると、一日につき二十回から五十回ほどを
だが、それほどの回数を経験しておきながら、シルティはこの苦しみに全く慣れることができていなかった。
相変わらず、全身から吹き出すように膨大な汗をかき、顔を盛大に歪ませながら、歯をギリギリと食いしばる。
痛い。
気持ち悪い。
悍ましい。
だからこそ、嬉しい。
(ああ、私、今、強くなってる……!!)
顔を盛大に歪めつつも嬉しそうに唇を緩めるシルティを見て、マルリルは顔を引き攣らせた。
(おわあ。ついに笑い始めちゃったわ……。いよいよ
今までも、シルティは霊覚器構築の
とうとう、霊覚器構築の
(……礼儀正しくて、かわいいし。いい
なぜあの苦しみの中で笑みを浮かべることができるのか。マルリルには到底理解のできない精神性だ。
(
恋人探しの仲間とはいえ、さすがにこれは、ちょっと怖い。
なお、レヴィンは珀晶で
◆
その日は実に六十五回もの霊覚器構築を試みた。
苦しんで。苦しんで。
苦しんで苦しんで苦しみ抜いて。
シルティはもはや目を開けることすらできず、ぐったりと横たわる。
「はぁ……ふぁ……あぁ、キッツ……」
「シルティ、大丈夫?」
「ふ、ふふ、ふふっふ……キツ、かった、で……ふ、っふっふ、ふ、ヴォッフォッ!」
「落ち着いて。息を整えて」
「グっ、ふふ、ふっふ……ゲホッ、ひひ、ひッ……」
「笑ってないで、息を整えなさいってば……」
「ゲッホゲホゲホゲホ……ふ、ふふふ……ん、んンンッ! すみませ……ふふ、口が、勝手に笑っちゃって……」
苦行を終えた蛮族の娘は大変ご満悦である。
しばらく経ち、笑いの波が収まったシルティは、マルリルに膝枕をされたまま思う存分に空気を貪った。呼吸を整える。
これまでは多くとも一日に五十回だったが、今日は調子に乗って多めにやってしまった。全身が鉛でできているかのように重い。すぐにでも生命力を補給したいところ。
マルリルが準備してくれていた水は既に飲み干してしまったので、シルティは手の届く範囲に生えていた草を根ごと引き抜いて食した。青臭くて土臭くて苦くて渋くてとても不味いが、背に腹は代えられない。あまり咀嚼せず、すぐに飲み込む。
どれほど不味くとも、
溶剤を用いて耳の中の朱璃を溶かし、しっかりと取り除く。周囲の音が聞こえるようになり、シルティはようやく人心地がついた。
「あー、今日もキツかった……なんか、目がチカチカする……」
すぐさまレヴィンが立ち上がり、シルティの傍へ。シルティの頬に鼻の頭を優しく擦り付ける。
「ありがと、レヴィン。勉強は
ヴォゥン。レヴィンが肯定の唸り声を上げる。
身体が大きくなったからか、レヴィンの声はかつてに比べると随分低くなった。頬に触れた状態で唸られると耳の奥に響いてくすぐったい。
「はぁ、汗だくだ。今日もお風呂いこっか。先生も行きますよね?」
「……ええ、そうね。ご一緒しようかしら」
霊覚器構築を終えたあとはいつも汗だくなので、マルリルと三人でお湯を楽しむのが恒例である。
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