第83話 囮



 五日後。


「あそこ。見える?」


 レヴィンがシルティの指し示す先を凝視する。

 山肌に生じた窪みに寝転がっている、灰混じりの薄桃色の毛束。これで通算四匹目の削磨狐みがきギツネだ。一日に一匹を狩るというのが目標だったが、残念ながらそう上手くはいかなかった。赤罅山のような赤茶けた環境では削磨狐の特徴的な色彩の毛皮が凄まじい迷彩能力を発揮するのだ。昼間は眠っていて動かないこともあり、こちらから発見するのは難しかった。

 といっても、狩りを始めて七日で四匹は充分な好成績だ。このままの進度で六匹を仕留めることができれば笑いが止まらないほど大幅な黒字を叩き出せる。


 なお、シルティとコンラッドは『削磨狐の間で狐粉キツネこを目潰しとして散布するのが流行しているのではないか』と危惧していたが、二匹目と三匹目はそのような挙動は見られなかった。

 使う前にシルティがぶった斬っただけかもしれないが。


「じゃあ、予定通りね?」


 ビャゥン。

 レヴィンが小さく了解の声を上げ、足を踏み出した。



 足音を殺さず、息もひそめず、頭も低くせず。

 レヴィンは自身の存在を周囲に主張しながら堂々と歩いた。

 削磨狐に右の脇腹を晒す位置関係。目線は意図的に獲物から外し、真正面に固定する。四肢は適度に脱力し、前後左右、どの方向へも動き出せるように準備だ。耳介は忙しなく動き、周囲の音を漏れなく拾い続ける。


 今回のレヴィンの役割は囮。

 無防備な姿を晒して削磨狐を釣り出したのち、しばらく足止めして気を逸らす。その隙を突き、死角からシルティが踏み込んで仕留める予定だ。

 削磨狐は自分よりある程度小型の動物であれば好き嫌いなく襲って食すという。今のレヴィンの体格だと、捕食対象と見るか敵対者と見るかは微妙なところだが、結果としてはどちらにしても大差はない。

 捕食対象と見れば静かに忍び寄って襲ってくるだろうし、敵対対象と見れば縄張りから遠ざけるために襲ってくるだろう。囮の役割は全うできるはず。


 なお、囮と言っても危険はかなり少ないとシルティは判断している。

 確かに、魔法『弥磨尻尾いやすりしっぽ』は深度は浅いが凶悪な破壊力を持つ。どんなに分厚い珀晶であってもひと撫でで表面を粉末化し、消滅させるだろう。

 しかし、なにごとも工夫次第。

 珀晶の消滅する条件から考えて、壁の一枚一枚が完全に分離された多重の障壁ならば、撫でられたとしても消滅するのは外側の一枚だけに留まる。これを削磨狐が突破しようとするならば、コンラッドのように単純な筋力で突き破るか、障壁の枚数分の魔法行使が必要だ。

 コンラッドの正拳突きより貫通力のある攻撃を削磨狐が繰り出せるだろうか。おそらく無理だろう。安心だ。

 もし仮に狐粉キツネこによる目潰しを仕掛けられても、レヴィンの生成する切れ目のない障壁ならば遮断可能である。


 レヴィンはそれらの情報をしっかりと頭に入れており、あらかじめこの多重障壁の生成を練習済み。

 殺し合いに絶対はないとはいえ、準備は万全だと言えるだろう。

 それに加えて、レヴィンは独自にひとつ試したいを考えていた。


 早く気付いて早く襲って来いと渇望しながら、レヴィンは意気揚々と歩む。



 レヴィンの耳が、石と砂を踏みにじる僅かな音を捉えた。

 感覚からしてまだ距離はある。レヴィンは落ち着いてそちらへ顔を向けた。

 山肌から眼下のレヴィンを睥睨へいげいする暗褐色の虹彩。縦の切れ込みを入れたような瞳孔は細く絞られており、なんとも眩しそうだ。全身が露わになったことでやや小柄な体格をしていることがわかる。メスか、あるいは若い個体か。

 睡眠を妨害された苛立ちか、あるいは縄張りを侵されたことに対する怒りか、不機嫌極まりないといった様子。長い鼻筋はなすじには深いしわが寄り、口唇は捲れ上がって牙が露わになっていた。

 あれは、強襲型の肉食獣が獲物を狩ろうとする表情ではない。

 どうやらレヴィンは、捕食対象ではなく敵対対象と認識されたらしい。


 距離を保ったまま、削磨狐が大きく吼える。

 犬や狼の類とはまた違う、断続的な甲高い声。礼儀知らずの侵入者へ放つ敵意を込めた威嚇の咆哮だ。さっさとどっか行け、と全力で主張している。


 対するレヴィンは足を止め、真正面から不敵に削磨狐を睨みつけた。

 レヴィンの優れた眼球は彼我の距離を正確に目測している。

 人類種の歩幅で二十一と半歩。

 レヴィンは鼻面に皺を寄せ、牙を剥き出しにし、喉を震わせてざらついた唸り声を響かせる。

 挑発の乗せられた耳障りな響きに、削磨狐の洞毛ヒゲがビンと跳ね、体毛がぶわりと逆立った。


 威嚇に込められた敵意が、殺意に変わる。


 削磨狐が跳び出した。

 素晴らしい瞬発力により即座にトップスピードへと到達。ジグザグに進路を切り替えつつ、凄まじい速度で斜面を駆け下りる。

 キレのある美しい疾走だ。ともすれば見失ってしまいそうなほど。

 レヴィンは身を以て知っている。ああいう動きをする奴を近づけてはならない。ああいう奴シルティに懐まで潜り込まれると、目では追えても、身体と思考あたまが置き去りにされる。同じぐらい速く動き、同じぐらい早く判断できなければ、じゃれ合いにすらならないのだ。

 自分は、動きも判断もまだまだ遅い。

 接近されれば、多重の障壁に引き籠るしかなくなる。それでは、褒めて貰えない。

 だからこそレヴィンは、そうならないように手を考えたのだ。

 これだけの距離があれば、獲物にどれだけジグザグに動かれても、視界外へ逃がすことはない。


 彼我の距離が十歩を切ったその瞬間、レヴィンが魔法を行使した。

 その数、およそ

 疾走する削磨狐の進路上の空気が、瞬時に、仄かに、黄金色を帯びる。

 削磨狐はそのを回避しようとする素振りすら見せず、最高速度のまま、真っ直ぐに突っ込んだ。


 微細なガラス粒を砕くような微かな軋轢音が、無数に、無数に、ひたすら重なって鳴り響く。

 削磨狐はまるで分厚い緩衝剤に衝突したかのように速度をがくんと落とし、たたらを踏んで悲痛な絶叫を上げた。すぐさま後方へ跳躍、黄金の霧から逃げ出し、頭部を振り回す。顔面から赤い液体が滴り、空中に細い線を引いた。出血元は、瞼の閉じられた両目だ。

 間髪入れず、レヴィンが跳び出した。

 より精密に魔法を使える位置を求め、全力で前へ。


 一歩。

 二歩。

 岩石質の硬い山肌を踏み締め、駆け上がる。

 生命力を滾らせ、身体能力を増強させながら、レヴィンの目は強い興奮の色を孕んでいた。事前に考えていたが、事前に考えていた通り、とても上手く決まった。

 最高の気分。ご飯を食べてるときより幸せだ。

 今回のレヴィンの役目は囮である。それは十二分に理解している。

 だが、もしも囮以上の仕事ができそうならば、レヴィンは躊躇せずに挑戦する気だった。

 シルティの期待以上の仕事をこなし、そして、存分に褒めて貰いたい。

 レヴィンの抱える無邪気で幼い欲望は、生命力を燃え上がらせて身体を駆け巡る。


 三歩。

 削磨狐が体勢を整え、レヴィンの方を向く。その両のまぶたは力なく閉じられ、真っ赤な涙を垂れ流している。

 目は潰した。だが、音でレヴィンの位置を知覚しているらしい。削磨狐の四肢に力が戻り、どっしりと低く構える。レヴィンを待ち構えながら、尻尾を大きく振り回し始めた。


 それを確認したレヴィンは悔しそうに目を吊り上げ、すぐさま足を止める。

 ぼわりと膨らみ、空気を効率的に孕むふさふさの尻尾。

 その動きに僅かに遅れ、大量の粉末が舞い流れる。

 半透明で見難いその刺激物を、レヴィンの眼球は克明に捉えていた。

 散布式の目潰し。姉を苦しめた技。もう近接格闘には持ち込めない。


 あれをやられる前に一回ぐらい咬み付いておきたかったが、間に合わなかった。

 姉が耐えられなかったものを自分が耐えられると思うほど、レヴィンは自分を評価していない。

 目を閉じ息を止めながら肉薄して頸を一発で噛み砕く。そんなことができればいいが、無理だ。

 残念ながら、今の自分では削磨狐を殺すことは難しい。

 ならばせめて獲物の動きを止め、姉が仕留めやすいようにするべきだ、とレヴィンは判断した。


 レヴィンは薄い桃色の霧の向こう側、動きを止めた削磨狐みがきギツネを凝視する。

 確かに、空気を粉末化してばら撒き、敵対者のみを害する領域を構築するというのはなかなか厄介な手だ。相性によっては手も足も出ないだろう。レヴィンがこれまで遭遇した四匹のうち、二匹がこれを披露してきた。やはり赤罅山に生息する削磨狐たちの間で流行している戦法なのか。


 だがしかし、獲物を拘束すると決めたレヴィンに、そのトレンドは通用しない。


 既に充分に接近した。

 そして、狐粉キツネこの霧は透明だ。

 一切の支障なし。

 目的のものを脳裏に思い描く。

 つい最近、コンラッドに強請ねだって何度もしっかりと観察した、

 あの筋肉の権化ですら一度着けられれば自力では外せない、

 並行して、削磨狐の動きと体勢を把握。

 削磨狐は尻尾を振り回して霧の生産を続けている。霧を纏っている間は安全だと思っているのか、動きを止めて負傷した目の再生に意識を向けているようだ。既に血涙も止まってる。もう間もなくあの目は完治するだろう。

 実に好都合。

 レヴィンは舌舐めずりするような心境で魔法を行使した。


 音もなく出現する、特殊な形状をした珀晶。

 削磨狐の口吻マズルのなかほど、鼻梁びりょうと顎下を括る輪。

 そこから後方へ伸び、耳介の下を通って後頸部うなじを抑える輪。

 さらにそこから下方へ分岐し、喉元を締める輪。

 三つの輪で構成された、黄金色の

 それは紛れもなく、重種馬ルジェアが散歩の際に装着する無口頭絡むくちとうらくを模したものだった。


 無口頭絡には馬銜はみがないため、手綱を付けて騎手や御者の意思を連絡することはできないが、一般的に柔らかい素材で作られていて、各輪の寸法にも余裕があり、装着感はとても軽い。通常の頭絡とうらくを馬たちの仕事着とすると、無口頭絡はより気楽な普段着ないし部屋着のようなものである。

 しかしレヴィンはこれを、獲物の顎を封じることができる優れただと認識した。


 傷の再生が終わったのか、削磨狐がまぶたを開ける。

 レヴィンと視線が合った。見るからに憎悪に染まった目。視界は良好のようだ。

 だがどうやら、削磨狐は自分が致命的な馬具を装着されたことにまだ気付いていない。

 魔法『珀晶生成』の発動はまさしく無音である。優れた聴力を誇る削磨狐であっても、音情報のみでそれを察知することは不可能だ。


 よりチャンスだと判断したレヴィンは、四肢を曲げて力を溜め、全速力で跳び出した。削磨狐のお株を奪うような素晴らしい加速だ。

 馬鹿な獲物が突っ込んできたと判断したのか、削磨狐は尻尾を振り回しつつ後方へ跳躍しようとして……無口頭絡に後頭部と下顎角かがくかくが引っ掛かり、がくんと動きを止められる。


 一瞬、茫然とする削磨狐。

 僅かな硬直を犠牲に、自分が文字通り首根っこを押さえられていることを理解した。

 即座に四肢を突っ張り、珀晶の無口頭絡から頭部を引っこ抜こうとする。が、駄目だ。

 空中に完全に固定される硬質な無口頭絡は、削磨狐の首の動きを著しく阻害し、頭部の角度を調整することすら許さない。

 ならば、と自慢の尻尾を首元に伸ばそうとしたところ、尻尾の中程なかほどにぶち当たった。接触したことで魔法が発動し、空中に固定されたを削る。

 尻尾が首元に届かない。

 間髪入れず、後頸部うなじに軽い衝撃。


 頭部と胴体が生き別れになり、削磨狐の命はそこで終わった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る