第82話 初老男性の正拳突き



 コンラッドは膨らんだ〈冬眠胃袋〉をちらりと一瞥し、青褪めた顔でぶるりと震えた。


「敵を直接削るでもなく狐粉キツネこを撒き散らすたあ、えげつねえことを覚えたもんだな、こいつ。聞くだにぞっとするわ」


 狐粉キツネこは非常に細かい半透明の粉末だ。空中に散布された場合、よほど濃度が高くなければ目視は難しい。そのくせ、目に入れば漏れなく悶絶する。目潰しとしては最高の性能を誇る物質だと言えるだろう。喰らう方からすれば堪ったものではないが。

 元狩猟者のコンラッドは現役の頃、削磨狐に前腕をちょっとばかり撫でられたことがある。ほんのちょっとだ。それでもコンラッドは無様に泣き叫んでしまった。本当に、凄まじい痛みだった。

 あの痛みをもたらした物質が空中を漂って眼球に入るなど、率直に言って想像すらしたくない。恐ろしすぎる。


「ほんと、死ぬほど痛かったです……」


 一方のシルティが浮かべるのは、蕩けるような乙女の微笑みである。

 なんで嬉しそうに笑ってんだこの嬢ちゃん、とコンラッドは思ったが、とりあえず差し置いた。


「なあ、その目潰しってのがこいつだけの知恵ならいいんだけどよ。赤罅山の削磨狐の間で大流行おおはやろ、とかねえよな? おっかねえにもほどがあるぜ」

「うーん……どうでしょう。削磨狐って、群れは作りませんよね? 技術が伝わる環境がないんじゃ?」

「子供はどうだ? 子育て中は家族で過ごすぞ。オスも参加するしな」

「む。周りに仔は見当たりませんでしたが……これまでに独り立ちした仔がいたら、狩りの方法として目潰しを教えてるかもしれませんね」

「毛並みからして、こいつ、結構年齢としいってそうだ。何回か妊娠してるかもしれねえな」

「はい。……あと、多分、縄張り争いに魔法を使いますよね?」


 削磨狐が尻尾を振り回して狐粉キツネこを散布したあの時、中心部に佇む削磨狐に痛がっている様子は見受けられなかった。少なくとも、自身が変換して生み出した狐粉キツネこについては、目に入ろうが吸引しようが苦痛を覚えないのだろう。おそらく、傷口に付着した場合でも同様だ。

 だが、シルティの経験上、別個体の削磨狐が変換した狐粉キツネこならば多分効く。

 なぜなら彼らは肉食寄りの雑食で、縄張りを持つ魔物。であれば、同種に通用しない魔法とは考え難い。狩りだけでなく、同種との争いにも魔法を使うはずだ。


「あー。相手が使ってくりゃ、覚えるぐれえの知恵はあるな」


 子孫への相伝そうでん

 殺害には至らない程度の同種間の争い。

 それらを経由して、ある個体が編み出した有効な戦法が広まる事は充分に有り得そうだ、と二人は判断した。


「アルベニセに帰ったら、あいつら目潰ししてきたよってお役人さんたちに伝えますね」

「そうだな、頼むわ。衛兵に伝えときゃ適当に広めてくれらあ。目潰しっつうのは凶悪だが、やってくることがわかってりゃあ保護眼鏡ゴーグルでも用意しとけば済む話だしよ」

「ですね。レヴィン用の保護眼鏡ゴーグル、買っておかないと」


 港湾都市アルベニセでは様々な朋獣用装備品が取り扱われている。

 と言っても、魔物たちは武具強化が大の苦手なので、身体を覆う馬鎧バーディングのようなものはまず使われない。彼らの毛皮はただの物質でしかない鎧とは比較にならないほど強靭である。素肌より柔らかい鎧などなんの意味もないのだ。

 よく使われるのは、粉塵から目を守る保護眼鏡ゴーグルやマスクのようなもの。これらは少々の視界不良や咬合力の封印と引き換えに、より致命的な失明や中毒を防ぐことができる。

 次に削磨狐を狩るときのために、アルベニセに戻ったらレヴィン用の保護眼鏡ゴーグルを注文しておこうとシルティは決めた。


 一方、コンラッドは少し怪訝な表情を浮かべる。


「なあ、琥珀豹ってのは、目ぇ塞いだらまずいんじゃねえのか?」

「えっ? なんでです……あっ。魔法ですか?」


 コンラッドの懸念を読み取り、シルティは首を横に振った。


「大丈夫です。ガラスみたいに透明なら、魔法に影響ないのがわかってます」


 琥珀豹の魔法『珀晶生成』は、鏡越しに生成することはできないが、透明な障害物の向こう側に生成することはできる。レヴィン自身の珀晶はもちろん純度の高いガラスでも試しており、問題ないことを確認済みだ。

 シルティはかつて、琥珀豹の魔法を『視界を遮らない盾を瞬時に生成できるもの』と考えていたが、それどころではなかった。琥珀豹が生成する透明な盾は、相手の攻撃を強固に防ぐ一方で自分の魔法は悠々と通す。周囲を珀晶で包み込んで籠城しながら、その優れた視力で狙撃するように魔法を使うことだってできるのだ。

 率直に言って、かなりずるい。


「レヴィン、ちょっとやって見せてくれる?」


 レヴィンは床に置かれた無口頭絡むくちとうらくの匂いをふすふすと嗅いでいたが、シルティの呼びかけに振り返り、無言のまま魔法『珀晶生成』を行使した。

 指一本分ほどの間隔を空けて次々に生成されるなめらかな板状の珀晶。完全な直線上に平行に並んでおり、珀晶を通した視界でも珀晶を生成できることをわかりやすく証明してみせる。

 その数、十枚。


「おおっすげえっ! これが珀晶ってやつか!」


 コンラッドが少年のような浮ついた声を漏らす。

 コンラッドは十五歳の頃から狩猟者として本格的に活動を始め、二十歳で結婚した。そして二十一歳の頃に子供が生まれ、絶対に死ぬわけにはいかなくなった。以来、コンラッドは危険な魔物を可能な限り避けるようになり、五十歳で引退するまでずっと堅実に過ごしてきた。

 となれば当然、強大極まる琥珀豹など狙うはずもない。レヴィンが人生で初めて出会う琥珀豹であり、魔法『珀晶生成』を見るのもこれが初めてだった。


「なあ、ちょっと殴ってみてもいいかい?」


 コンラッドがうきうきとした表情でレヴィンに打診する。

 レヴィンはどうでもよさそうに頷いた。

 コンラッドは右手の人差し指を曲げ、関節部で珀晶の板をノックする。

 コン、コン

 ゴン、ゴン。

 次第にその力が強くなっていく。

 ガン、ガン。

 ドゴン、ドゴン。

 挙句には、右の拳を握り締めて溜めを作り、生命力で身体能力を十全に増強させながら、ドバン。

 初老男性の全力の正拳突きは、層状に並んだ珀晶を貫き、貫き、貫き、貫き、貫いて、止まった。

 五枚ものを素手で一挙に砕かれ、レヴィンは面白くなさそうな表情を浮かべる。


「だガァ! くっそがよぉ!」


 一方、コンラッドはコンラッドで地団駄を踏んだ。若い娘っ子の前で十枚全てを格好良くぶち破るつもりだったのだが、思っていたよりもずっと堅固けんごで、半分しか抜けなかったのだ。

 俺もつくづく老いたもんだな、と内心で呟き、コンラッドは長々と溜息を吐く。


「俺の拳を受け止めるたあ、やるじゃねえか」

「ふふ。でしょ。レヴィンは頼りになるんですよ」


 誇らしげに胸を張るシルティを余所に、レヴィンはぷいっとそっぽを向いて床に寝転がった。

 態度とは裏腹にどうやらかなり照れているようで、その尻尾は高く真っ直ぐ伸び、ぷるぷると小刻みに震えている。


「さあて、んじゃあ、次の狩りはまた明日だな? 俺ぁルジェアと散歩に行ってくるがよ。一緒に来るか?」

「あー、私は装備の手入れがあるので、すみません。レヴィンはどうする? 行く?」


 途端、レヴィンは跳び上がるような勢いで立ち上がり、コンラッドに擦り寄った。

 どうやら同行するつもりのようだ。いつの間にやら、その顎には床に置かれていた無口頭絡むくちとうらくが咥えられており、首を伸ばして上目遣いにコンラッドへと差し出している。

 レヴィンの目当ては間違いなく、重種馬ルジェアだろう。

 尻尾がくねくねと波打っており、随分と乗り気である。


(……ルジェアちゃんに懐いてるなぁ……なんでなんだろう。ほんとに、食欲じゃないよね……?)


 シルティはレヴィンの知性を信用している。

 レヴィンがルジェアを食料と見ているとは思っていない。

 全く、思っていないが。

 とりあえず今日のレヴィンの食事は多めにしておこう。

 シルティはこっそり決意した。


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