第80話 形相切断



 息を静かに吸い。

 止めて。

 跳び出す。


 凄まじい加速を得て疾走するシルティに、削磨狐は全く遅れずに反応した。

 こちらもまた爆発的な瞬発力で後方へ。シルティにも優るとも劣らぬ加速を生み出し、間合いを保つ。

 先ほどの展開を繰り返したような状況だが、待機時間が長かったせいで空中に散布された狐粉キツネこの濃度は桁違いだ。このまま突っ込めば痛みに慣れ親しんだシルティでも悶絶し、意識的には動けなくなるだろう。失神するかもしれない。

 そうなれば、削磨狐に首を噛み砕かれて終わりだ。

 無論、シルティは死ぬつもりなど毛頭ない。

 シルティには守らねばならない家族レヴィンがいるのだ。


 死線に踏み込む、その直前。

 最後の一歩は殊更に力強く。地面を強烈に踏み締める。

 足指、足首、膝、股間、腰、腹、あばら、胸、肩。

 全身の筋肉でエネルギーを生み出し、全身の関節を駆使して淀みなくたばね、会心の滑らかさで〈紫月うで〉へと流し込む。

 明確な死線を目の当たりにして湧き上がる興奮、そして不遜な確信を帯びた膨大な生命力。ぐつぐつと沸騰するそれをギチギチと押し込まれた〈紫月〉の斬撃は、この瞬間、武具強化と呼ばれる範疇をはっきりと逸脱し、の領域に到達した。


 寒々しいほどに鋭い逆風下から上の剣閃。

 鉛直に駆け上がる〈紫月〉の軌跡に沿って、桃色の致死圏がだぷりと

 流れるでもなく、渦を巻くでもなく、霧散するでもなく。二分にぶんされた桃色はそれぞれが不自然に纏まり、巨大な塊と化して左右へ離別。流動体であるはずの霧が、まるで軟性固体であるかのような奇妙な振る舞いを見せる。焼く前のパンの生地を精肉包丁ブッチャーナイフで勢いよく叩き斬ったかのような、愉快で豪快な挙動だ。


 素直に道を空けてくれた狐粉キツネこの濃霧を前にして、シルティの思考は歓喜の感情で埋め尽くされた。

 沸騰した感情が無意識に言語化され、唇から飛び出す。


「ほらチョロいッ!!」



 自らの強さを確信し。

 得物を自分の身体であると確信し。

 身体の一部である得物の強さも当然のように確信し。

 順を追って山積さんせきした無数の確信の末に、自分はこんなに強いんだからこんな柔らかいもんを斬れない方がおかしいだろ、などという純真無垢で驕傲きょうごうな悟りに達してしまった異常な自己肯定者は……生命力の作用により物理を大幅に逸脱し、いよいよ超常の領域に踏み込むことになる。

 世界は思い込みの激しい生物にとても寛容だ。

 濁りのない驕傲を喜んで容認する。


 要するに。

 至る所まで至ってしまった狂人バカは、当人がと完全に確信できるものであれば、斬れるようになるのだ。


 それは、人類種たちが『形相切断けいそうせつだん』などと呼称する、自己研鑽の果ての現象わざ

 得物を斬り込ませたの物性を自分勝手にし、主観に則ってとしての振る舞いをする、武具強化の極致のひとつである。

 つまりは、気体、液体、あるいは炎、そして一部の魔法。

 認識できるあらゆる形なきものを不合理につかみ、とらえ、形あるものと同様に切断する、超常の斬撃だ。

 ただからい粉末が混じっただけの生命力が介在しない煙霧など、この傲慢な刃の前では溶けかけのバターに等しい。

 この上ない万能感が感情となって漏れ出す。


「ぁはッ!」


 自らの御業に陶酔し、ご機嫌に嬌笑きょうしょうしながら、シルティは地面を思い切り踏み砕いた。

 形相切断に至った刃で斬り開かれた無形物は、ひと呼吸からふた呼吸ほどの間は本来の流動性を著しく失い、明確に固体として振る舞う。シルティには充分すぎる猶予だ。恋する乙女のようなとろけた表情を浮かべ、ぱっくりと割れた致死圏の間隙に身体をねじ込み、すり抜け、獲物へと肉薄する。


 まさか最短距離を突っ切ってくるとは思わなかったのか、待ち受ける削磨狐の動きに明確な迷いが出た。

 シルティが見るに、腰の位置が悪い。重心が後ろに傾いているのに、四肢は前へ進もうとしている、どっちつかずの体勢だ。あれでは今までのような俊敏性は発揮できないだろう。

 シルティは舌で唇をぺろりと舐めた。実に美味しそうな隙だ。

 躊躇なく踏み込み、削磨狐の右首筋へと左袈裟を放つ。

 削磨狐はそれでもなお驚異的な反応を見せ、咄嗟の跳躍に移る。紙一重で躱した。シルティの左袈裟は切っ先が洞毛ヒゲを数本斬り飛ばしただけに終わる。シルティはますますご機嫌になった。本当に素晴らしい動きのキレだ。

 だが、体勢がさらに大きく崩れている。もはや完全な死に体。

 必殺を確信しつつ大きく踏み込み、シルティの放つ追撃は擦れ違いざまの右逆袈裟。

 初撃の太刀筋を綺麗に逆走する刃が削磨狐の喉へと潜り込み、頸椎を断ち斬って後頸部うなじから飛び出した。


 勢いのまま、シルティは削磨狐の横を走り抜けて距離を取る。

 胴体と生き別れになった頭部は放物線を描くこともなく、そのまま真下にゴトリと落ちた。突如低くなった視界に驚いたのか、削磨狐の頭部は顎を大きく開いた。おそらく吼えようとしている。しかし肺との繋がりを断たれた今、空気の振動は生み出せない。

 一方の片割れ、首無しの削磨狐の胴体が、駆けるとも跳ねるとも言えない無様な姿勢で走り出す。シルティはそれを冷静に見送った。

 あれは逃げ出したわけではない。斬首のショックに由来する単なる反応であり、そこに意志や思考は介在しない。

 すぐにバランスを崩し、そのままぐしゃりとくずおれた。

 横倒しになった胴体は四肢をバタバタと暴れさせ、力強く無意味に地面と空気を掻き続けている。

 首刎ねは魔物狩りにおける最良の手だ。完全に、間違いなく、仕留めた。こうしてしまえば、たとえ竜種であっても魔法は使えなくなる。


 シルティは油断なく〈紫月〉を構え、切っ先を向けつつ己の全周囲を見回した。

 前後左右上下、至近距離から視界の果てまで、血に濡れた目で新たな敵を警戒し、やがて周囲に敵影はなさそうだと判断すると。


「……。……。んふっ……ふふふ、んン……くふふふ……!」


 ふにゃっと口元を緩め、気持ちの悪い笑みを垂れ流し始めた。

 構えっぱなしの〈紫月〉の切っ先がふるふると震え始める。

 シルティは今、ともすれば踊り出しそうな身体を必死に抑え、喜びを噛み締めているのだ。


「さすが、私……本番に、強い、ぜっ……!」


 嬉しすぎて途切れ途切れになる言葉で、堂々と自画自賛をのたまう。

 シルティが形相切断を成功させたのは、実のところ今日のこれが初めてだったのだ。

 故郷でもこれまでの遍歴の旅でも、シルティは折を見ては焚き火や小川などの無形物へ向けて家宝〈虹石火〉を振り続けていたのだが、これが全く上手くいかなかった。流体を刃が通り抜けるだけ。あれはただの素振りに過ぎない。

 だが今のは、間違いなく、霧を斬った。

 霧を刃で切開し、確保した活路を駆け抜けた。

 本当に嬉しい。誇らしくて堪らない。

 湧き出る感情が大きすぎて視界にチカチカと火花が散っている。落ち着こうと自分に言い聞かせても、身体が全く言うことを聞いてくれない。なんだか吸い込む空気まで目新しく感じる。殺し合いの最中でもないのに意識が加速しており、世界が止まって見えるほどだ。


「んふふふふ……。〈紫月〉、ありがとう、全部きみのおかげ……」


 ぶるぶると歓喜に震えながら、シルティは切っ先を下にした〈紫月〉を胸に抱き締め、愛おしげに頬擦りをし。


「ほんとに、愛してるよぅ……」


 挙句には、つばしのぎにちゅっちゅとキスまでした。



 すぅぅ、はぁぁ、と、シルティは長い深呼吸を繰り返しながら、先ほど感触を鮮明に反芻する。

 あれは、形相切断は、奇跡だ。

 久しくなかった眼球の激痛。鼻腔びくうくすぐる血の匂い。明確に視認できる死線。守るべきレヴィンの存在。

 様々な要因が揃い、噛み合って、シルティが興奮の極みにあったがゆえの、奇跡の一撃。

 もう一度やって見せろと言われても、平時のシルティではまず無理だろう。百回挑んで、九十九回は失敗する。


 だが、百回に一回は、きっとできる。

 なぜなら、シルティは感触を知った。

 斬れないものを斬る感触というものを、認識した。


 だくだくと断続的に血を吐き出している削磨狐の死骸の横で、シルティはにまにまと笑いながら〈紫月〉を脇に構え、逆風さかかぜに振るう。続いて左袈裟、右逆袈裟。構えを変えて逆水平、低空の胴打ち。

 興奮冷めやらぬシルティは、奇跡を骨髄に刻み込むように執拗な素振りを行ない、〈紫月〉で空を斬り続ける。

 やはり、死に向かうときこそ戦士が成長する絶好の機会だ。

 今後も積極的に死に瀕していこうと、シルティは決意を新たにした。


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