第75話 猪の鎧



 二十日後。

 無事に狩りを終えたシルティとレヴィンが、港湾都市アルベニセに帰還した。

 シルティの背にある〈冬眠胃袋〉には雷銀熊らいぎんグマの頭部が二つ詰め込まれている。革職人ジョエル・ハインドマンに注文していた鎧の製作費用は余裕で賄える計算だ。

 その鎧も、予定では四日前に完成しているはず。

 ようやくだ。ようやく、シルティはまともな装備を一式、手に入れることになるのだ。

 ……木製の太刀〈紫月〉をと呼ぶのは、おそらくシルティぐらいのものだが。


 余談だが、八日前、シルティは十七歳になっている。

 そのため、鬣鱗猪りょうりんイノシシの革鎧は自分の誕生日のお祝いも兼ねることになった。



 アルベニセの西門にて、入門待ちの列に並ぶ。

 行儀よく並ぶ琥珀豹レヴィンの姿に、行列のそこかしこから視線が向けられた。「あれが噂の」「本当に琥珀豹が」などという囁き声が聞こえてくる。

 琥珀豹が朋獣として認定されたというとても喜ばしいニュースは、既にアルベニセ内外ないがいで広く知れ渡っているらしい。西門でも、都市の内部でも、こうした好奇の視線がレヴィンへ向けられることは今や日常茶飯事となっているのだ。


 最初の頃、レヴィンは首輪の朋獣認定証を得意気に周囲へ見せつけていた。

 だが今は、不機嫌そうに鼻をピスピスと動かし、尻尾の先端をくねくねと忙しなく揺らしている。

 琥珀豹のような強襲型の捕食者は、他者から注視されることを本能的に嫌う生物だ。『頬擦亭』の外で絶え間なく向けられる視線に、ほとほと嫌気が差してしまったらしい。


「だいじょうぶだいじょうぶ。レヴィンがかっこいいから見られてるだけだよ」


 シルティがレヴィンの顎の下を揉んで宥めると、レヴィンは満更でもなさそうに目を細めた。





 列が進み、シルティの番となった。

 いつものようにルビアが対応してくれるようだ。


「よっ。おかえりシルティ」

「お疲れさま、ルビちゃん」

「レヴィンも、元気だったか?」


 気安げに声を掛けるルビアにレヴィンが歩み寄り、側頭部を擦り付け、さらに顎を上げて柔らかい喉を見せつけた。


「なんだ? 撫でろってか? しゃーねーなー」


 ルビアが笑いながら、折り曲げた五指でレヴィンの喉を掻き撫でる。

 レヴィンは心地よさそうに目を閉じ、るるる、と小さく喉を鳴らす。

 ルビアとレヴィンの交流も数を重ね、今では喉を許すくらいには親密な関係となっていた。少なくともレヴィンにとって、ルビアの視線は『イライラする他者の視線』ではない。列に並んでいた間は苛立たしげに動いていた尻尾もぴんと伸び、見るからにご機嫌である。


「で、予定通り雷銀熊か?」


 レヴィンの耳の付け根を指先でカリカリと掻いてやりながら、ルビアが尋ねた。


「うん。二匹だよ」


 シルティは〈冬眠胃袋〉の脱着機構を操作し、収納部を地面に降ろして口を開く。

 ルビアが覗き込み、中身を検めた。すぐに金額を告げられ、シルティは税を払う。


「ん。確かに」


 蒼猩猩と違い、雷銀熊ともなれば税金のがくも馬鹿にはならない。ルビアは慎重に金額を検め、徴収した。


「シルティ、大叔父さんから言伝ことづて。鎧、完成してるから、いつでも取りに来いってさ」

「おっ! やった!」

「さっさと鎧を着て、そのおっぱいを隠せ」

「……ルビちゃん、最近、会うたびおっぱいのこと言う……」

「やかましい」


 唇を尖らせるシルティに、ルビアがズビシと手刀を打ち込んだ。

 現在の港湾都市アルベニセでは、琥珀豹を朋獣とした前代未聞の狩猟者として、シルティ・フェリスの名が大いに取り沙汰されている。そして、ルビアがシルティと友人同士だということは、西門を頻繁に利用する商人や狩猟者たちの間では知られた話だ。

 しかしながらシルティは狩猟に赴いている時間が非常に長く、なかなか遭遇することができない。

 ゆえに、最近ではシルティないし琥珀豹レヴィンとの繋ぎを得ようとする者が、ルビアに仲立ちを求めてくることが多くなった。


 曰く、狩猟のチームを組んでほしいだとか。

 曰く、琥珀豹の研究に協力してほしいだとか。


 これがシルティたちの利になるのであれば、ルビアも話を持って行くぐらいはやぶさかではない。

 だがその前に、ルビアはなんとしてもシルティに鎧を装備させたかった。

 現在のシルティが着用しているのは厚手の布で作られた衣服だが、動きやすさを重視したもののため、身体の輪郭が丸わかりである。

 端的に言えば、目の毒だった。


 魔術研究者はともかくとして、暴力を糧とする狩猟者たちは男性が多い。生命力の作用により身体能力を増強できるとはいえ、純粋な筋力ではやはり男性に分があるので、シルティやマルリルのような女性は自然と割合が小さくなるのだ。

 つまるところ、狩猟者の男どもは、大なり小なり女性との出会いに飢えていた。

 もちろん、ルビアは狩猟者たちを性犯罪者扱いしているわけでは決してない。狩猟者たちは言動こそ荒々しいことも多いが、本質はとても理性的である。いざと言うときに理性を保てなければ、賢い魔物たちを狩ることなどできないのだから。そして高給取りということもあり、ちゃちな犯罪に手を染めることなどほとんどなかった。性的欲求についても、娼館で合法的にいくらでも解消できるだけの稼ぎはある。


 だが、だからと言ってをわざわざ見せつけ、狩猟者たちの理性を砕きにかかる必要もないだろう、とルビアは判断した。

 ただでさえシルティは小柄で、一見すると組み伏しやすそうな見た目をしているのだ。万が一が起きてしまったら誰ひとりとして幸せにならない。


「もー。わかったよ。心配してくれてありがと。雷銀熊を売ったら、すぐ受け取りにいくから」

「よろしい」





 かつてシルティが身に纏っていた跳貂熊とびクズリの革鎧は、胸当てと背当てで身体を挟み、脇腹をベルトで接続して固定するというもの。

 胸当てを完全に分離できるおかげで手入れが非常に楽だったし、万が一の場合は海水を天日で煮詰めて魚の干物を作れたりもする、実に素晴らしい構造だった。

 だが、現在のシルティはほぼ常に〈冬眠胃袋〉のハーネスを身体に巻き付けている。同様の構造の鎧では硬質な表面でハーネスのベルトが滑りやすく、少しばかり収まりが悪いだろう。


 そういうわけで今回、ジョエル・ハインドマンに発注したのは、最初から〈冬眠胃袋〉を背負うことを前提とした鎧である。



 『ハインドマン革工房』にて。


「ふふふ……」


 完成した鬣鱗猪りょうりんイノシシの革鎧を身に纏い、シルティはにまにまとご機嫌な笑みを浮かべていた。

 ジョエルの手により製作されたのは、硬い外装部と柔らかい内装部を貼り合わせた二層構造の鎧で、跳貂熊とびクズリの革鎧とは違い一体型のもの。おおまかに言えば上腕部まで袖のある上着のような形状だ。革は艶消しの暗褐色に染められていた。

 ちょうどハーネスの各ベルトが通る線に沿って、二層構造の外装部のみが除かれており、表面に溝を作っている。この柔らかい溝は、ハーネスのベルトがぴたりと収まる空間であると同時に、鎧全体に高い柔軟性を与え、身体の動かし易さを担保する可動部でもあった。


 それ以上に特徴的なのは、鎧の至る所に配置された黄土色で五角形の鱗だろう。

 全ての鱗はそれぞれが重なり合わないように配置されている。もちろん、ハーネスの通り道とも重ならない。最も大きなものは胸部に配置されたもので、シルティが手を広げたほどのサイズ。他はおおよそ林檎リンゴの実ほどの直径で、肩や脇腹を保護している。枚数は合計で十二枚。

 鬣鱗猪の鱗はそれ自体がかなり硬質なため純粋に装甲としての役割も担っているが、本質はもちろんそこではない。シルティが革鎧に充分な生命力を導通させられるようになれば、鬣鱗猪の魔法『操鱗聞香そうりんもんこう』が再現され、この十二枚の鱗を操作できるようになるはずだ。

 ただし、嗅覚増幅用魔道具〈猪鼻いのはな〉とは反対に、鱗の操作性のみを重視して製作されたので、空間的隔たりを無視する超常の嗅覚についてはほぼ再現できていないらしい。


 シルティは直立した状態から上体を左右に大きくよじったり、前屈させたり後方に反らせたり、さらに虚空へ向けて軽くジャブや蹴りを繰り出したりして、身体の動きを入念に確認する。

 そして、にまにま笑いを深くした。


「んふふふふっ……」


 実に動き易い。

 上半身の動きを阻害される感覚は皆無だ。軽く跳躍してみたが、胸が揺れる不快感は全くなく、がっちりと固定してくれている。戦闘用のブラジャーを遥かに上回るおっぱいの保持力。寸法と縫製は完璧だ。

 静穏性についても素晴らしかった。表面に配置された鱗は全面が完全に固定されているわけではなく、五角形の一辺が鎧の表面に接合された状態で、ここだけ見ればスケイルアーマーに近い。だが、鱗自体がそれぞれが重なり合わない位置にあるため、普通に動く分にはスケイルアーマーや鎖帷子のような擦過音さっかおんは鳴らなかった。これならば、獲物へ忍び寄る際にも全く問題にならないだろう。

 シルティは鎧に配置された鱗のうち、左の肩当に配置された一枚を少し持ち上げ、そのふちを指でなぞった。

 つぴり。指先の肉が裂け、鱗がもぐり込んでくる甘美な感触に、シルティは微笑む。

 改めて確認しても、鬣鱗猪の鱗は刃物だった。

 紛れもなく、シルティの愛の対象だった。


「どうだい?」


 鎧の具合を尋ねるジョエルに、シルティは指先の切り傷を再生しながら、満面の笑みで答える。


「ばっちりです!」

「それはよかった」


 柔らかく微笑みながら、ジョエルが頷く。これだけ喜んでもらえるならば、ジョエルも睡眠時間を削った甲斐があったというものだ。


「それから、手慰みにこんなものを作ってみたんだけど、よかったらどうだい?」

「えっ?」


 続いてジョエルが差し出したのは、革で拵えられた小さな鞘だった。

 緩く弧を描く形状と納められる刃渡りの短さから、シルティの持つ宵天鎂ドゥーメネルの鎌型ナイフ、〈玄耀〉のために作られた品だと一目でわかる。


「おおっ。綺麗な鞘ですね!」

「うん。お客さん、少しばかり小柄だからね。仕入れた革が余ったんだ。お客さんのナイフにぴったりだと思う」

「わー。すごい。ちょっと触ってもいいですか?」

「もちろん、どうぞ」


 シルティはぺこぺこと頭を下げながら革鞘を受け取り、検めた。

 切り出した革を折り畳み、ごく薄い刃当てを挟み込んで縫った、簡単で頑丈な構造の鞘だ。ジョエルは手慰みに作ったとうそぶいていたが、作りは非常に丁寧である。木端こばは丹念に塗料で処理され、美しく磨かれていて、指先でなぞるととても気持ちがいい。


「んふふっ」


 思わず笑みが零れる。

 見事な品だ。現行の鞘とはもはや比較すること自体が失礼千万である。

 シルティは一言断ってから〈玄耀〉を引き抜き、革鞘にそっと滑り込ませてみた。

 シルティはジョエルに〈玄耀〉を預けてなどいないので、ジョエルは完全に目測と経験則のみを頼りにして大きさと形状を決め、この鞘を作り上げたはずだ。だというのに、〈玄耀〉の刃はぴたりと過不足なく納まっている。

 恐るべき眼球の精度だ。

 至近距離でのジョエルの目測能力はレヴィンにも匹敵するかもしれない。


「んふっ。良い! 好きっ! もちろん買います!」

「ん? ああ、いや、お金はいいんだよ」

「えっ? いや、いやいや、そんな」

「暇に飽かせて、僕が勝手に作ったものだからね。お金はとれない」


 ジョエルは穏やかに笑った。

 このひと月、睡眠時間をかなり削っていたことなどおくびにも出さずに、格好つけた。


「いやそんな、でも……」

「鎧の料金も、充分すぎるほど貰ってるしね」

「……うう、じゃあ、その、いただきます。……ありがとうございます!」

「うん。まぁ、使い潰してやってよ」


 ジョエル・ハインドマンは若者に格好良く思われたい年頃のおっさんである。


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