第74話 封殺
丸一日を寝て過ごし、英気を充分に養ったシルティは、その翌日から狩猟に出発した。
現時点で絶対に外せない予定は、約一か月後にある二回目の精霊術の授業だけ。革職人ジョエル・ハインドマンに発注している鬣鱗猪の革鎧については、受け取りが多少遅れても問題はない。
であれば、遠出もできる。
ということで、今回の狩猟の目当ては蒼猩猩ではなく、
シルティたちは朝から猩猩の森に踏み込み、道なき道をズンズンと進む。
いつも通り、レヴィンはシルティの視界に収まるように前を歩く。
太陽が空を巡り、中天を過ぎてしばらく。
シルティの感覚が、何かを捉えた。
「止まって」
シルティの発した小さく短い指示に、レヴィンがピタリと即応する。シルティはレヴィンの尻尾の先端を優しく
前方、樹上に、奇妙な違和感がある。
(数は……多分、三つ、かな)
まだ少し距離はあるが、ぴったりとシルティたちの進路上で待ち構えている。
シルティにとってはもはやお馴染みとなり果てた無音無臭の気配、蒼猩猩だ。
単独ではないということは、ハーレムを持てないオス同士の群れだろうか。
(うーん、我ながら、
相変わらず音はしない。もちろん、
だが、わかる。
シルティ自身、なぜ察知できたのかを説明できないが、魔法『
なんにせよ、襲撃される前に気付けたのは僥倖。
レヴィンに経験を積ませる絶好の機会となるだろう。逃す手は無い。
「レヴィン、前に蒼猩猩が三匹いる。わかる?」
レヴィンがシルティの方を振り返りながら、眼球を動かして視界の端で敵影を探り始めた。すぐに無言で
シルティは尻尾の付け根をぽんぽんと撫でながら、レヴィンの耳元に顔を近づけ、こしょこしょと囁く。
「まず二匹、私が斬る。最後の、レヴィンがやれる?」
レヴィンの鼻面に
「よし。任せるね」
シルティとレヴィンが歩みを再開する。
待ち伏せしている三匹の真下へ、のんびりと、無防備に踏み込む。
そして、予想通りの襲撃。
レヴィンよりもシルティを
全員がそれぞれ、空中で前肢を大きく振りかぶっている。
(一番でっかいのは)
シルティは襲撃者たちを一瞥し、彼らの体格を瞬時に把握した。
(きみかなッ!)
最も体格に秀でた個体を見定め、半歩踏み込みつつ〈紫月〉を抜き放つ。
叩き付けられる蒼猩猩の右前肢を肘関節であっさり斬り飛ばし、返す刃で首を刎ねるべく逆水平に叩き込む。太い頸部を抵抗なく通過した〈紫月〉をくるりと翻し、円運動に乗せて次なる獲物へ。
真下から真上へ登る
まるで
(完璧っ)
高く飛び散る血と脳を克明に認識し、
シルティは刃物で肉を斬るのが好きである。特に、切断面を合わせたらぴたりとくっついてしまうような、無駄な破壊を徹底的に廃した鋭い斬撃が大好きだ。魔物たちの超常的に強靭な皮膚と筋肉を、武具強化の冴えに任せてすぱりと分断したとき、シルティは自らの肉体と技量に陶酔し、この上ない愉悦を噛み締めることができる。
一方で、わざと
とりわけ、頭部の粉砕にはどうしようもなく心が躍る。
ただの一撃で頭蓋を砕き、脳を引き千切って意志というものを根本から消し飛ばす、切断ではなく破砕と呼ぶべき剛の剣。
シルティにとってそれは、父ヤレック・フェリスを象徴する剣だ。尊敬してやまない父が得意とする、憧れの力技なのである。
(んふふ……今のは、お父さんに見てほしいくらい良い手応えだったなぁ……)
ちょっぴり郷愁の念に駆られながら、シルティは〈紫月〉の切っ先を三匹目に向けた。
最後に残った最も小柄な蒼猩猩。その蒼い毛皮は、仲間たちの血と脳の破片により血みどろ、赤や桃色に染まっている。口唇がわなわなと震え、怯えたようにじりじりと後ずさりしていた。もはや気の毒になってくるほどの動転っぷりだ。
奇襲を仕掛けておきながら、一瞬で仲間を全て屠られたとなれば、狼狽するのも無理からぬことか。
シルティが一歩、大きな動きで踏み込む。
びくりと、蒼猩猩が身体を硬直させた。
その瞬間。
密かに身を潜めていたレヴィンが跳び出し、疾走する。
出会った当初からレヴィンの歩行姿勢は美しく滑らかで静謐だったが、今や走行中ですら同等に見事だ。地面の起伏を四肢で完全に吸収しており、全力走行時においても頭の高さがぴたりと変わらない。それでいて、目を見張るほどに速かった。
四足走行での速力を根本的に生産するのは、四肢ではなく、腰と背の柔らかく太い強靭な筋肉である。一歩、二歩、地面を踏み締めるたびに波打つ
レヴィンは瞬く間に蒼猩猩の懐に潜り込むと、背中をぐにゃりと強烈に湾曲させ、地面を後肢でしっかりと掴み、即座に蹴った。跳躍力を存分に活かした突き上げるような突撃に乗せ、レヴィンは両前肢を蒼猩猩の両の首筋に叩き付ける。
レヴィンの鉤爪はニョッキリと完全に露出していた。
地面に押し倒すことを目的とした一撃だが、あわよくば首筋を裂くつもりだ。
だがしかし、蒼猩猩という魔物の肉体も然るもの。
レヴィンの鉤爪は密生する被毛に食い止められ、皮膚までは到達しなかった。また、尻から伸びる極太の尾は地面で大きく
筋力と生命力の作用が、全く足りていない。
ほとんど完全に不意を突いておきながら、レヴィンは蒼猩猩に傷を負わせることも、押し倒すことも叶わなかった。
レヴィンの表情が悔しげに歪む。
一撃を貰い、蒼猩猩がようやく我に返った。
いつの間にか眼前にいた小さな琥珀豹へ向け、今更ながらに咆哮を上げる。
無論、魔法『停留領域』のおかげでその絶叫は誰にも届かないが、牙を剥き出しにして唾液の飛沫を撒き散らす
そしてその瞬間、この殺し合いの勝敗は決した。
レヴィンは蒼猩猩の腹をトンと蹴り、後方へ軽やかに跳躍して距離を取る。
蒼猩猩はそれを、追いかけない。否、追いかけられない。
大口を開け、
「おおっ」
シルティが思わず感嘆の声を上げる。
蒼猩猩は目を白黒させて立ち竦んでいたが、頭部だけをぴたりと止めたまま四肢と尻尾を振り回して盛大に暴れ始めた。
まるで
口腔にすっぽりと
蒼猩猩の致命的な失敗、それは、レヴィンとキスができるほどの距離で限界まで大口を開け、呑気に咆哮を上げていたこと。レヴィンの優秀な眼球に対してそれは、口腔内の形状と寸法を把握してくれと言っているようなものだった。
そして、把握さえできれば、今のレヴィンはそれに寸分違わぬ珀晶を生成できる。
口呼吸に必要な最低限の隙間すら許さないほど、ぴったりとだ。
弛まぬ訓練と試行錯誤の末に、レヴィンは己の身に宿す魔法についてひとつの重大な気付きを得ていた。
不透明な壁の向こうや、自分の頭のすぐ後ろなど、その時その時の死角へ直接珀晶を生成することはできない。しかし、見えている座標を起点として、障害物を回り込む形状を思い浮かべれば、間接的に死角へ届く珀晶を生成することができるのだ。
もちろん、生成予定の空間に明確な物体が存在すれば、魔法は不発に終わる。だがこれを利用すれば、僅かに空いた唇の隙間から、口内を埋め尽くす珀晶を生成することも可能であり……物体を
レヴィンは暴れ回る蒼猩猩を油断なく睨み付けながら、ぶうんと大きく振り回される蒼猩猩の右前肢、手首の辺りに輪を
支えもなく空中に固定される、超常の手枷。
全力で振り回した腕の先端を瞬間的かつ強固に掴まれ、勢い余った蒼猩猩の手首が痛ましく捩じれて伸びた。観測者に『ゴキュリ』という幻聴を
その隙を見逃さず、レヴィンは左前肢にも枷を嵌める。続いて、首に。後肢にも。尻尾には位置を変えて三つの枷。
完封だ。
こうなってしまえば、あとは仕留めるだけ。
だが、咬みつく必要はない。先ほどの
そして、敵の皮膚を突き破る武器がない場合であっても、効果的な殺しの手段があるということも知っていた。
出会って以降、レヴィンはシルティの戦いを常に近くで見てきたのだ。羚羊と蒼猩猩。有効な得物を失ったシルティが敵を殺した手段を、レヴィンはしっかりと覚えていた。
ほぼ身動きが取れなくなった蒼猩猩に、レヴィンはそろりそろりと近付いていく。
より近い位置で、対象が動かなければ、レヴィンは更に精密な座標での生成が可能となる。
そう、例えば、
口腔、そして鼻孔。それぞれを珀晶でぴったりと塞がれ、蒼猩猩は僅かな呼吸すらも不可能になった。咬合力だけで口内の珀晶を破壊できなければ、彼は間もなく窒息死することになるだろう。全身の被毛を逆立て、僅かに動く四肢の関節や尻尾の先端を狂おしく動かし、死にもの狂いで
だが、逃れられない。
もはや詰んでいる。
レヴィンは間合いを確保し、万が一を警戒しながら、蒼猩猩の窒息を待った。
「レヴィン、
シルティが驚愕の声を上げる。
正直に言えば、シルティはレヴィンが蒼猩猩を仕留められるとは思っていなかった。
シルティは素手で蒼猩猩と取っ組み合ったことがあるので、彼らの毛皮の分厚さと硬さは身を以て知っている。体格に劣る個体とはいえ、今のレヴィンの鉤爪や牙ではあの毛皮を貫けないだろうとわかっていたのだ。
苦戦ないし善戦を経験してもらい、最後に多少手助けを、と考えていた。
まさか、まだ一歳にもなっていないというのに、単身で仕留めるとは。
窒息で気絶したのだろう、蒼猩猩が完全に脱力した。このままの状態でさらに放置すれば、間もなく完全に息絶えるはず。
万が一すらもなくなったと判断したレヴィンは、蒼猩猩から視線を外し、シルティの元へ戻ってきた。
胸を張った気持ちの良い姿勢で、表情はツンとしたお澄まし顔。最近のレヴィンはちょっと見栄っ張りなところがある。自分にとっては簡単な狩りだった、ということにしたいのかもしれない。
だがしかし。
その尻尾は誇らしげに立てられ、真っ直ぐに伸びていた。
というか、伸ばす力が強すぎて、ぷるぷると震えていた。
「んふっ。ふふふっ……。んンッ」
震える尻尾には気づかなかったことにして、咳払い。
「レヴィン、お見事っ!」
シルティはレヴィンにガバリと抱き着き、喉やら胸やらに頬擦りをしてこの上ない称賛を示した。
ご、る、る、る、る。
頬骨で感じる喉鳴らしもまた格別である。
「ねえ、あの、口の中に珀晶ぶち込むやつってさ、自分で考えたの?」
シルティの問いかけに、レヴィンはブフッと強く短く鼻息を吐いた。
いい手だったという自覚があるのだろう、どことなく得意気な鼻息だ。
港湾都市アルベニセに到着して以降、シルティは時間を見つけては琥珀豹についての記録を調べてきたが、彼らが口腔や鼻孔といった肉体の穴を狙って珀晶を生成するなどという話は聞いたこともない。
野生の琥珀豹はそこまで精密な形状の珀晶を生成する必要がないのだろう。魔法の訓練の中でも、特に造形の訓練を好んだレヴィンだからこその発想か。
なんにせよ、口腔内を狙うという考えは実に
咬みついてきた相手を冷静に見つめ、その口腔内に
ちなみに、シルティはレヴィンに頼んで口に含ませてもらったことがあるが、珀晶は濃い蜂蜜に似た独特の風味を持ち、強い甘みと微かな苦みがあり、とても美味しかった。ただ、口に含んだ途端、噛み砕いたわけでもないのになぜか溶けて消えてしまうので、残念なことに本当に数瞬しか味わえない。
これはおそらく、
シルティとしてはもうちょっと長く味わいたいのだが、仕方がない。
「んふ。今日はレヴィンが狩ってくれた蒼猩猩を食べよっか」
シルティは〈紫月〉を鞘代わりの樹皮筒に納め、代わりに〈玄耀〉を引き抜いた。
レヴィンにとって、魔物相手の初勝利。せっかくなので、いつもより丁寧に
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