第73話 霊覚器構築



 シルティが仰向けに倒れていた。

 レヴィンは心配そうにシルティの脚や胴に鼻先で触れ、しかしどうしていいのかわからず、挙動不審な様子を見せている。

 マルリルはシルティの頭部を自らの太腿に乗せ、シルティの両耳に手のひらを当ててながら、真剣な表情で引き時を見計らっていた。


(んぐ……ぐ……がぅぅ……んぐぐ……!!)


 シルティは全身から吹き出すように膨大な汗をかき、顔を盛大に歪ませながら、歯をギリギリと食いしばっている。

 確かに、これは、痛い。

 痛いというか、気持ち悪い。

 つらい。


 凄まじいとしか表現のしようがない苦痛が、シルティの全身を絶え間なく襲っていた。本能的に理解できる。これは、己の根底に異物が抉り込んでくることへの拒絶反応だ。今までの人生でもぶっちぎり第一位の痛みと苦しみと不快感。


 現在、マルリルの膝枕で地面に寝かされているはずだが、シルティの背中や後頭部にはなんの感触もなかった。まるで雁字搦めに縛られた状態で空中に吊るされているかのようだ。身体が全く動かせない。

 そのくせ、鼓動の音だけはやたらと大きく感じられる。

 気を抜くと身体の内側から燃え上がりそうな予感がした。

 不思議なことに、痛みに、

 やたらと濃密な森の香り。森人エルフの香りだ。

 そして、こんなに痛くて苦しいのに、何故だか妙な万能感があった。


 見開いた目がもたらす視界は、左右が不均一に歪んでいる。右目の焦点だけが、勝手に遠くに行ったり近くに来たりする。左目の焦点だけが、勝手に近くに来たり遠くに行ったりする。遠くと近くに同時にピントが合った視界が、凄まじく気持ち悪い。チカチカと明滅する光の粒が、無数に飛び回って見えていた。


 耳鳴りが酷い。現在、シルティの耳の穴は凝固した朱璃で埋まっているはずだ。だが、耳の穴に狗尾草エノコログサ花穂かすいを突っ込まれて激しくピストンされるような、ざらついた異音が絶え間なく響いている。

 他の音は何一つ聞こえない。

 いや、マルリルの声だけが、聞こえる。

 鈴の音のような心地のいい女声じょせいが、あらゆる雑音を突き抜けて明瞭に聞こえている。


 喉が痺れている。口の中も痺れている。唾液が口の端からダラダラと垂れる。舌先から鎖骨の辺りまで、口と喉の中がズキズキ痛い。気道はともかく、嚼人グラトンの口腔内はである。どんなものでも傷などつけられない。だから、舌先にこんな感触いたみを覚えるのは、シルティの人生で初めてだった。

 口は開く。だが、


「今、あなたのが開いてるの。視界が変に歪んでいるでしょう? 普通に見えているところは無視していいわ。その変に歪んでいるところだけをしっかりと見て、その光景を目の奥の方へ……頭の中へ、無理矢理押し込めるの」


 わけもわからぬまま、ぐにゃんぐにゃんと歪み続ける視界に、シルティの意識が翻弄される。

 気持ちが悪い。


「変な音も聞こえているはずよ。でも、私の声だけがしっかりと聞こえるわね? 今、私は霊覚器ので声を出しているの。私の声をを意識して」


 聞いてるところは耳なのでは、と声に出せずに口答えしながら、シルティは耳を澄ませる。

 気持ちが悪い。


「声、出せないと思ってるでしょう。でも、それは違うの。今もあなたは大声でうめいてるわ。あなた自身に聞こえていないだけ。あなた自身にしっかり聞こえる声で、ちゃんと呻くのよ」


 やり方がわかりません、と叫んだつもりが、やはりシルティの耳には聞こえない。

 気持ちが悪い。

 気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。もはやそれしか考えられない。


「……そろそろかしら」


 限界が近いと判断したマルリルが、シルティの両耳から手を離す。

 すると、頭痛や目、耳、喉の不調は嘘のようにぴたりと治まった。

 すっきり快調だ。

 だがしかし、シルティの体力と気力は完全に底を突いていた。

 身体を起こすこともできず、マルリルに膝枕されたまま、ゼェヒュゥとかすれ切った呼吸を繰り返す。空気が、かつてなく美味しい。シルティは今、今までの人生で一番、呼吸というものをありがたく味わっている。


「できるだけ大きく呼吸して。身体を起こすわよ、いい?」


 耳が朱璃で埋まっているシルティでも唇を読めるように、マルリルは唇を大きく動かしながら声をかけた。マルリルがシルティの上半身を起き上がらせ、背中を支えながら、冷たい水で満たされたコップを口元へ運ぶ。


「水よ。ゆっくり飲んで」


 シルティは、勢いよく飲み干した。


「ゆっくりだってば」

「ゥ……がッ、も、ぶ……」

「もう一杯、飲む?」

「んえぅうぅ……」


 息も絶え絶えな様子で頷くシルティに、マルリルは苦笑しながらお代わりを注ぐ。

 シルティは立て続けに、合計で三杯の水を飲み干した。マルリルが事前に用意しておいてくれた飲み水は小さな氷がいくつも浮いていて、良く冷えている。製氷用魔道具〈海底の雪〉の産物だ。

 苦痛で火照った身体に冷気が染み込んでいくような気がした。とても美味い。

 飲食物を生命力に変換する魔法『完全摂食』のおかげもあるだろうが、シルティにとっては、誇張抜きで本当に生き返るような心地良さだ。


「最初だから、一度、休憩しましょう」


 マルリルが小さなガラスの瓶を見せる。

 内部には透明でとろみのある液体。朱璃の溶剤だ。

 声はほとんど聞き取れなかったが、太腿をぽんと叩いたマルリルの意図を察し、シルティは再びマルリルの太腿を枕にした。左耳を下に向けて横になる。

 右耳に、ぽたりと液体が垂らされた。

 耳の穴の中で朱璃が発泡しながら液状化していく、なんとも言い難い奇妙な感触に、シルティの首筋がぞわぞわと粟立つ。


「んッ、ひっ……く、くすぐっ、たいな、これ……」


 こそばゆい感触に耐えながらじっくりと待ち、それから、身体を起こして首を傾げる。

 重力に従い、シルティの右耳の穴から液状化した朱璃が流れ落ち、たぱぱと地面に丸を描いた。左耳にも同様の手順を施し、両方の耳から朱璃を取り除く。

 最後に、乾いた布の隅を細く捻じったもので耳の穴をぐりぐりと拭ったら、霊覚器構築の一連の流れは終了だ。


「平気?」

「……はい。もう大丈夫です」


 すぐさまレヴィンが寄ってきた。

 レヴィンとしても、これほど弱ったシルティを見るのは初めてだ。汗と涙で濡れたシルティの頬を鼻先でつっつき、控えめに舐める。

 シルティはレヴィンの鼻面へ頬擦りをして感謝を示した。


「……んふ、ふふふ……レヴィン、これ、すッごく、痛くて、気持ち悪かったよ……今までの人生で、一番、キツかったかも……」


 言葉とは裏腹に、シルティは実に嬉しそうな、うっとりとした表情を浮かべている。


(……凄いだわ……)


 なぜ、を味わった直後に、こんな表情ができるのか。

 同じ構築法を身を以て体験しているからこそ、マルリルは心底ドン引きした。

 精霊術習得に際し、この霊覚器構築の苦しさは凄まじく巨大な壁となっている。ほとんどの志願者は一度目でを上げてしまい、二度目以降に挑めず、構築を完遂できないのだが……この分なら、シルティが挫折することはなさそうだ。


「……今のを繰り返していけば、まず最初に霊覚器のが構築されるわ」

「んふ、楽しみです。こんなの味わっちゃったら、私、ますます強くなっちゃうな。……ちなみにこれ、今更ですけど、どういう理屈で構築されるんでしょうか」

「本当に今更ね。……精霊種の身体は、私たちに満ちるものとは少しだけ生命力の塊、みたいなものだって言われてるわ。私たちは自分以外の生命力というものを、なんとなくでしか感じ取れないでしょう? だから、私たちの目では精霊種の姿を捉えられないし、私たちの耳では声も聞こえないの」


 マルリルの説明に、シルティが頷く。

 これは精霊術の習得を目指す目指さないに関係なく、世界中で広く知られている情報だ。


「でも、耳の奥まで朱璃で直通路を作って、他者の生命力を無理矢理に強く感じさせながら、さらに精霊の喉を通した声を聞き続けていると、耳という感覚器が音だけではなく生命力に対しても鋭敏な感受性を持つように、なる……んじゃないかなー? って言われているわ」

「……かなり曖昧な話ですね……」

「まぁ、ぶっちゃけ、経験則なのよね」

こっわぁ……」


 マルリルがくすくす笑った。


「朱璃法で死んだり後遺症が残ったって話は聞いたことないから、安心してちょうだい」

「……はい」

「それで、精霊の耳が構築されると、今度は自然とその感受性が他の五感にも影響を与えるようになるらしいの。上手く説明ができないけれど、これは私自身も、なんとなくそんな感じがしたわ。精霊の耳を作った直後から、景色が少し違って見えるというか……」


 マルリルが人差し指を伸ばし、自らの目と指し示す。


「そうなったら、他の魔物が魔法を使うところを良く見て、視覚的な生命力感受性を磨くの。私の魔法でもいいし、レヴィンの魔法でもいいわね。いずれ、明確に見えるようになるわ。ほら、生命力が極端に凝り固まっていると、虹色に揺らめいて見えるでしょう? あれがもっとはっきりわかる感じね」

「ふむふむ。それじゃあ、喉は?」

「耳を物理的に塞いだ状態で声を出して、自分がはっきりと聞こえるような声の出し方を模索することになるわ。物理的な要素では精霊の喉から出る声を遮れないから。これは一人でもできるわね?」

「なるほど!」


 霊覚器を物理的な手段で遮ることはできない。

 物理的なまぶたを閉じていても精霊の姿は見えるし、がっちりと耳栓をしていようとも声は聞こえるし、唇を閉じたままでも精霊には話しかけられるのだ。

 これは状況によっては扱いにくい特性であるため、霊術士たちは霊覚器を意識的に閉じるという感覚も養わなければならない。が、ひとまずそれは置いておく。


「ただ、一般的に精霊の喉が一番難しいみたい。私もここで少し詰まったわ。ほら、目と耳は受け取る器官だけれど、喉は発する器官でしょう? やっぱり勝手が違うみたいなの」

「……なるほど」

「まぁ、しっかりした精霊の耳が構築できてしまえば、目と喉は精霊言語の学習と並行して進められるから。頑張りましょう」

「はい!」


 鼻息も荒く、シルティが気炎を吐いた。


「それじゃ、二回目。十回目が終わるまで、朱璃を入れっぱなしでやるわね?」

「望むところです!」





 三日間の霊覚器構築を終え、翌日。

 抜けるような青空の、爽やかな朝に。

 シルティは、『頬擦亭』のベッドの上でぐんにゃりと潰れていた。


「ぅ……。レヴィン、ごめん……今日は……ちょっと寝てたいかも……」


 シルティの肉体に損傷はない。だが、精神的な損耗は甚大だった。

 人生でも最大限の苦痛を、一日に数十回、三日間も立て続けに味わわされたのだ。いかに苦痛を友とする蛮族とはいえ、さすがに気力が底を突いてしまった。正直、方向感覚だけを頼りにたった一人で大海原を泳いでいた時より、よっぽど精根が尽き果てている。今は美味しいご飯ですら食べたくない気分だ。


 レヴィンは憔悴したシルティの匂いを心配そうに嗅いでいたが、やがて控えめにベッドの上へ飛び乗った。

 シルティの掛布団に頭を突っ込んで、もぞもぞとベッドと掛布団の間を侵攻し始める。

 そうして、シルティの隣に陣取った。

 どうやら、一緒に寝るつもりらしい。

 シルティは笑いながら、レヴィンの洞毛ヒゲの根本を優しく揉みほぐす。


「んふふふ………………寝よっか……」


 シルティが港湾都市アルベニセに到着してから、およそ百二十日。これほど優雅で柔和で怠惰な朝は初めてだ。シルティはやけに甘えたがりな妹を抱き締めつつ、惰眠を貪った。


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