第72話 授業前
九日後。
早朝、朋獣同伴専門宿屋『頬擦亭』の一室で、シルティは目を覚ました。
今日はマルリルから精霊術を教わる日だ。シルティは直近の八日間のうち、六日間を蒼猩猩狩りに費やし、最後の二日を休息に当てた。
体調は万全だ。
ベッドから上半身を起こし、窓から外を確認。
生憎の曇り空だが、雨は降っていない。
「んふ」
シルティは堪えきれずに、笑った。
とても痛くて
シルティは寝間着のまま、ベッドの上で身体をゆっくりと
右腕を頭上に、左手で右肘を保持し、身体を左へ倒す。同様に右手で左肘を保持し、身体を右に倒す。腕を真っ直ぐ前に伸ばし、逆側の腕で伸ばした腕を首元へ引き寄せる。
脚を左右に広げ、左右の爪先と膝頭が全て一直線に位置する見事な開脚。息を大きく吐き出しながら身体を前に倒し、胸をむにゅりとベッドに押し付ける。そのままの姿勢で十を数え、身体を起こす。今度は前後に開脚し、太腿の裏と鼠蹊部をゆっくりと伸ばす。
「ん……んんぅ………」
気持ちよさそうな声を漏らしながら、シルティは時間を掛けてストレッチに励んだ。
身体の柔軟性は身体のキレに大いに影響するので、関節の可動域を広げるストレッチはシルティの日課のようなものである。
遭難中や野営中は周囲を警戒する必要があり、あまり頻繁にはできなかったが、『頬擦亭』ならば安心だ。野生動物に襲われる心配はない。
広くて清潔で柔らかいベッドの上で、存分に身体を伸ばすことができる。
足の爪先から手指の先まで全身の関節を入念に広げていると、専用の巨大な毛布をベッドにしていたレヴィンが目を覚ました。
「おはよ、レヴィン」
レヴィンは返事の代わりに大口を開け、桃色の薄っぺらい舌をにゅうっと伸ばしながら、牙を剥き出しにした盛大な欠伸を披露する。
それを見ていたシルティも、つい、堪えきれずに欠伸をした。手のひらで口を隠す。
「はふぁ。……レヴィンの欠伸が
目の上の
レヴィンはやや億劫そうに立ち上がると、尻を高く上げながら両前肢を前に伸ばし、胸を床に付けるような姿勢で上半身を
近頃、レヴィンの朝のルーチンと化したストレッチである。
最初はおそらくシルティの真似から始まったのだが、今では単に気持ちがいいからやっているようだ。
そのまま、流れるように全身の
全身を丹念に舐め回すレヴィンを横目に見ながら、シルティは寝間着から外出着へ着替えを済ませた。
その後、髪に
ズン。
シルティの下腹部に、横合いから頭突きを見舞う。
「んぐえッ」
乙女らしからぬ声がシルティの喉から漏れる。
いい加減、レヴィンの頭突きも洒落にならない威力になってきた。
常在戦場を理想とする蛮族とはいえ、さすがに髪を梳かしている最中まで肉体を十全に強化しているわけではない。腕や肩ならともかく、下腹部に不意打ちを喰らえば無様な声も出るというもの。
控えめに
左手でレヴィンの顎の下をわしゃわしゃと撫でながら、右手に持った櫛でレヴィンの首元と背中をジャッジャッと撫で
すぐさま、ごるるるると喉鳴らしが始まる。
「レヴィンもそろそろ冬毛かなー?」
レヴィンの被毛は、長く強靭で
今は秋口。そろそろ、ふわふわの
レヴィンはまだ一歳にもなっていないので、換毛もさほど顕著ではないと思われるが、なにぶん身体が大きく、毛量が半端ではない。全てを
ブラッシングなり入浴なりで多少なりとも手助けしてやるべきだ。
しばらく櫛でブラッシングを施し、櫛を確認する。
櫛の歯に淡い黄金色の毛が少しだけ絡み付いていた。
「うーん、私の櫛じゃ歯が足りないね。レヴィンの櫛も買おっか」
人類種の頭髪用の櫛ではあまりに性能不足だ。
港湾都市アルベニセでは朋獣用の器具なども豊富に売買されている。その中には獣たちの換毛を助ける固い
脳内の購入予定品リストに二品を追加し、シルティはレヴィンの首筋をぽんぽんと撫でた。
「よし。マルリル先生のとこに行こっか」
◆
まだ早い時間帯。他の宿泊者たちを起こさぬよう、シルティとレヴィンは部屋をこっそりと出る。
すると、少し薄暗い廊下で、煌々と赤く発光する二つの眼球がこちらを見ていた。
いつものことだ。シルティは気安い様子で手を振る。
「おはよ、
シルティの囁き声に、赤い眼球の持ち主は静かに尻尾を揺らして挨拶を返した。
彼の名はルドルフ、愛称はロロ。『頬擦亭』に長期宿泊している
レヴィンがのしのしとルドルフに近寄り、首を伸ばす。
ルドルフもまた首を伸ばし、互いの
ふすふすと鼻を鳴らし、お互いに匂いを確認。
レヴィンが顎を大きく開き、ルドルフの首元をかぽっと咥えた。顎に力は全く入っていない。甘噛み未満のじゃれ合いだ。
ルドルフは
宿を取ってから十日が経過したが、シルティたちが実際に『頬擦亭』に滞在したのは四日ほど。その僅かな時間で、人見知りしがちなレヴィンがこうも心を許しているのだから、ルドルフの
『琥珀の台所』看板娘エミリア・ヘーゼルダインが知れば、血涙を流して悔しがりそうなことだが、レヴィンは既にエミリアよりもルドルフの方が好きだった。
レヴィンもエミリアを
(ミリィちゃんも……もうちょっと、こう……落ち着いてくれればなぁ……)
もちろん、シルティはエミリアのことが好きだ。琥珀豹が絡まなければ気立てがいい美人なお姉さんである。できればレヴィンとも仲良くなって欲しいのだが……あの狂いっぷりは、今のところ手の施しようがない。
シルティは溜息を吐きながらレヴィンたちに近寄り、しゃがみこんで、
「ありがとね、ロロお兄ちゃん。私たち、今日はちょっと遅くなるかも。帰ってこなくても心配しないでね」
ルドルフの顎下を舐め、やや名残惜しそうにしているレヴィンを宥めつつ、シルティは『頬擦亭』を発った。
◆
港湾都市アルベニセの西門に到着すると、そこには既に
シルティは慌てて駆け寄り、頭を下げる。
「す、すみません。遅れました」
「遅れてないわよ。私もほんの少し前に着いたところ。おはよう」
「おはようございます!」
お互いに笑顔を浮かべるシルティとマルリル。
一方、レヴィンはまだマルリルを警戒しているようで、シルティの後ろに隠れていた。
「さて、じゃあ早速、移動しましょうか」
「はい」
アルベニセから離れつつ、シルティが問いかける。
「話した通り、今日はあなたの両耳に私の血を混ぜた
「はい。……あの、それって、都市の中ではできないんですか?」
「できるわよ。できるけれど」
マルリルは意味深に笑う。
「多分、あなた、大声で叫ぶことになるから。ご近所に迷惑でしょう。衛兵を呼ばれちゃうわ」
「そ、そんなにキツいんですか」
「少なくとも、私はもう二度とやりたくないわね……」
色の抜け落ちた遠い目をして、マルリルが呟く。
マルリルほどの強者がここまで脅しをかけてくるのだから、霊覚器の構築過程は本当にさぞかし
「んふ。ふふふ……なんか、ほんと、楽しみになってきちゃいました……」
「えぇ……」
シルティはにまにまと笑みを浮かべた。
「それを味わったら、私、また強くなっちゃうなー……んふふふふ……」
蛮族にとって、痛みとは経験すれば経験するだけ強くなれる、戦士の
わざわざ痛い思いをするつもりはないが。
必要ならば、痛みを避ける理由などない。
ノスブラ大陸の蛮族は、なんの疑いもなくそう考える動物である。
なお。
(こわー……)
マルリルは、しっかり引いていた。
恋人探しの仲間として、どれほどの親近感を抱いていても。
さすがにこれは、マルリルの許容範囲外だ。
「マルリル先生、もし私が泣き喚かなかったら、また斬り合ってくれますか?」
「……。別にいいわよ? 無理だと思うけど」
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