第70話 頬擦亭



 十日後の朝に西門で待ち合わせることを約束し、シルティたちはマルリルと別れた。

 空を見る。

 背の高い建物に遮られて太陽は見えないが、空がうっすらと赤みを帯びていた。そろそろ夕暮れ時だろう。

 良い時間なので、シルティは宿に向かうことにした。朋獣宿泊可の宿にはあらかじめ目星をつけてある。レヴィンを伴い、西区公衆浴場から都市中央へ向かって歩く。琥珀豹へ向けられる驚愕と好奇の視線を黙殺しながらしばらく、見えてきたのは一際ひときわ大きな二階建ての宿、『頬摺亭ほおずりてい』だ。


 ここは、人類種と一緒に朋獣も利用できるという宿、ではなく。

 朋獣と一緒なら人類種も利用していいよ、という触れ込みの宿である。


「今日から、ここに住むからね。……レヴィン、なんか緊張してる?」


 シルティがレヴィンの首元を撫でると、なにやら筋肉が強張っていた。

 朋獣認定試験と入浴、当にとって楽しみだった出来事を消化してしまったことで、今更ながら新しい環境への不安が首をもたげたらしい。


「大丈夫だよ。この建物、レヴィンみたいな仔たちが快適に過ごせるようにって、凄く良く考えて作られてるから」


 シルティは事前にこの『頬擦亭』を訪れている。既に宿の主人とも顔見知りで、レヴィンの合格を信じて本日から長期宿泊を予約済み。内部構造もよく知っていた。

 人類種のみを想定した宿は他の魔物にとって不便なことが多い。

 強大な魔物は得てして体格が良く、人類種のサイズでは小さすぎるのだ。まず出入口を通れない、ということもままあるほど。

 だがここは、最初から人類種よりもずっと大型の魔物の宿泊も想定しているため、出入口をはじめとする様々な設備が空間的にかなりの余裕を持たされて作られている。室内の面積も充分に広い。さすがに恐鰐竜デイノスは到底無理だが、成獣の琥珀豹程度の体格であれば全く問題にならないだろう、そんな大きさだ。

 二階部分への昇降も、階段ではなく広いスロープで行なう。トイレについても、四足歩行でも使い易い、地面に埋め込まれたものが備え付けられているのだ。

 もちろん、宿泊費は設備相応に高く設定されており、高給取りである狩猟者であっても財布へのダメージは馬鹿にならないのだが……シルティはレヴィンの快適な生活を第一に考え、ここに決めた。


「それに、なにがあっても私が一緒だからね」


 シルティはレヴィンの側頭部に頬摺りしつつ、顎の下を掻き撫でる。

 ごるるるる、といつもより音量控えめな喉鳴らしを披露しつつ、レヴィンはシルティの頬をざりざりと舐めた。


「さ、おいで」


 まだ少し緊張気味のレヴィンを宥めつつ、シルティは『頬擦亭』の巨大な扉をくぐる。




「おっ! よく来たね、シルティ!」


 シルティの顔を見て満面の笑みを浮かべたのは、『頬擦亭』を取り仕切る女主人、エキナセア・アストレイリス。

 シルティは嚼人グラトンの中ではかなり小柄な方だが、彼女はそのシルティよりもさらにずっと小さかった。直立状態で頭頂部がシルティの胸ほどの高さしかない。一見すると童女に見えるほどだが、彼女は二十九歳。れっきとした大人の女性であり、である。


 つまり彼女は、嚼人グラトンではない。

 人類種の中では最も小柄な身体を誇る魔物種。岑人フロレスの女性だ。


 エキナセアは薄っすらと桃色を帯びた長い髪の毛を後頭部で巻き束ねており、両耳を外気に晒している。露わになった耳介は僅かに細長く、先端が緩く尖っていた。森人エルフのそれよりはずっと短いが、嚼人グラトン鉱人ドワーフと比べれば明らかに長い。

 体格だけで判断すると子供の嚼人グラトンなどに間違われることもある岑人フロレスだが、この耳を見れば一目瞭然である。そのため、他種族と交流のある岑人フロレスは、男女ともに両耳の見える髪型をしているのが一般的なのだ。


「きみが来るのを今か今かと待ってたよ。例の仔、合格したんだね?」

「はい!」


 嬉しそうな笑顔を浮かべ、エキナセアがとした無音の動きでシルティに近寄ってくる。

 エキナセアは生地の薄い太腿丈のワンピースを着用していた。

 ひらひらとしたスカートのすそから伸びる両脚には靴を履いておらず。

 太腿から爪先まで、惜しげもなく素肌を晒しており。

 そして、その両足の爪先は、


 そう、エキナセアの身体は宙に浮いていた。


 と言っても、飛鳥ひちょうや羽虫のように完全に浮いているわけではない。

 エキナセアのスカートの内側から八本の触手が伸び、床を柔らかく掴んで彼女の身体を持ち上げているのだ。触手はそれぞれがシルティの腕ほどの太さで、これが軟体動物じみた挙動で寡黙に仕事をこなし、エキナセアの身体をぬるぬると滑らかに運んでいる。鮮やかな赤橙色せきとうしょくで、滑らかな表面は金属光沢を放っていた。

 まるでタコが陸地に上がって蜘蛛クモの動きを真似ているような、奇怪な歩行様式。

 これもまた、小柄な体格同様、岑人フロレスの特徴の一つである。


 岑人フロレスという魔物は、その身に宿した魔法『峰銅湧出あかがねゆうしゅつ』により、体表から超常金属『天峰銅オリハルコン』を汗のように少量ずつ分泌することができる。

 この天峰銅オリハルコン、温度や圧力の変化に関わらず常に液体の状態をとる金属なのだが、自己の延長と見做して生命力を導通させることができれば、その形状を自由自在に操作できるという素晴らしい特性を有していた。

 言うまでもなく、エキナセアの身体を持ち上げて運んでいる赤橙色の触手、これがまさに天峰銅オリハルコンである。


 古代において、岑人フロレス岑嶺しんれい(険しく高い山)に生きる魔物だった。

 身体に纏った天峰銅オリハルコンから多数の触手を伸ばし、身体を中空に保持するこの独特の歩行様式は、険しい山肌や崖で囲まれた環境ではこの上ない走破性を発揮してくれるのだ。

 岑人フロレスは華奢な骨格で矮躯わいくの魔物だが、この疲れ知らずの外付けを駆使することにより、他の人類種よりもむしろ優れた身体能力を発揮できた。もちろん、純粋に肉体の備える筋力で言えば種族的に筋骨隆々マッチョな身体を誇る鉱人ドワーフが抜きん出ている。しかし、充分な量の天峰銅オリハルコンを身に纏った岑人フロレスは、鉱人ドワーフを遥かに上回るのだ。


 無論、この変形能力は純粋に天峰銅オリハルコン自体が有する性質であり、岑人フロレスの魔法によるものではない。ゆえに、嚼人グラトン森人エルフ鉱人ドワーフといった他の人類種であっても、天峰銅オリハルコンへの生命力導通を成し遂げれば同様に変形させることが可能だ。

 と言っても、それはあくまで可能だというだけの話。

 岑人フロレスたちはそれこそ息をするように操るのだが、岑人フロレス以外の人類種がこれを成すことは非常に難しい。

 一般に、自己延長感覚の獲得は固体・液体・気体の順で段違いに難しくなると言われている。液体への自己延長は、才能ある人物が人生を賭して長い長い年月を費やせばなんとか、というものなのだ。

 なお、気体への自己延長を成し遂げたともなれば、それは間違いなく狂人の領域である。


 上記の理由により、ほぼ岑人フロレスにしか操ることの出来ないこの超常金属は、液体状態での利用法なども今のところ見つかっておらず、輝黒鉄ガルヴォルン宵天鎂ドゥーメネルといった他の超常金属とは異なり工業的な価値が低い。

 しかしながら、嚼人グラトンにはとても超常金属だ。

 現に今も、シルティはエキナセアの触手をじっとりと熱っぽく見つめていた。

 エキナセアはけらけらと笑いながら、腕を伸ばして太腿を……ではなく、スカートから伸びる触手を隠す。


「やん。えっちなだなっ。そんなに物欲しそうに見ないでよ」

「……で、つい……」


 そう。

 天峰銅オリハルコンは、美味なのだ。

 嚼人グラトンにとって天峰銅オリハルコンとは、超常金属というより、美味しい飲み物なのだ。

 飲み込んだ瞬間、なんとも言えない心地のいい風味が舌と鼻を蹂躙し、さらに食道が超常的なまでに壊されて癒されるような、筆舌に尽くしがたい唯一無二の喉越しを味わうことができる。

 なお、嚼人グラトン以外の魔物が飲んだ場合、消化は一切されないので毒性はないのだが、消化器はらわたをブズリと突き破ることもあるのでやめた方がいい。天峰銅オリハルコンは水より遥かに重いのだ。最悪の場合、骨盤あたりに食い込んで沈着してしまい、深々と切開して骨を削らなければ取り除けなくなる。


「さて、シルティ。そろそろ、その後ろの仔を紹介してくれない?」

「はい。ほら、レヴィン」


 シルティが、自らの後ろに隠れていたレヴィンを前へ促す。

 レヴィンは警戒を露わにしながらエキナセアを睨みつける。

 エキナセアは触手を操って空中に寝転がり、目線の高さを合わせてレヴィンに顔を近づけた。


「これが琥珀豹かぁ。洞毛ヒゲが白いんだね。長いなぁ」


 にまにまと笑顔を浮かべるエキナセア。

 彼女もまた女衛兵ルビア・エンゲレンや看板娘エミリア・ヘーゼルダインの同類、動物が大好きでしょうがないという人種なのだ。彼女が朋獣同伴限定の宿屋『頬擦亭』を営んでいるのも、戦闘技能を持たない自らでは触れ合うことの難しい数々の魔物を合法的に慈しみたいという願望からだった。

 エキナセアが握り拳を作り、手の甲側からレヴィンの鼻先へ向けてそっと伸ばす。

 レヴィンは後退りし、再びシルティの影に隠れてしまった。


「にひひ。かーわい。まあ、仲良くなるのはこれからだね」


 にゅるにゅるとした動きで、エキナセアが正面受付フロントへ戻って行く。


「シルティ、それにレヴィン。ようこそ、『頬擦亭』へ」

「ありがとうございます。とりあえずふた月分、お願いします!」


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