第69話 裸の付き合い



 港湾都市アルベニセの誇る七つの公衆浴場の一つ、『西区・公衆浴場』。

 その設備のひとつ、向けの個別浴室にて。

 全身にお湯をかけられたレヴィンが、浴室の床に寝転がっていた。

 濡れた体毛がぺたりと寝ており、いつもよりやや貧相な見た目である。


「いくよー」


 全裸のシルティが全身を泡塗れにしながら、レヴィンの身体をわしゃわしゃと撫で回し始めた。

 レヴィンは目を閉じ、脱力し切って、されるがままである。


「お痒いところはございませんかー?」


 シルティはくすくすと笑いながら、レヴィンに抱き着くようにして泡を擦り込み、被毛の根本まで浸透させていく。

 まずは上半身だ。頭。顔。耳介。首周り。顎下と胸元。背中と脇腹。前肢を持ち上げてしごくように洗い、さらに肉球と肉球の間まで。耳の穴の中は濡らしたタオルでぬぐう。

 日頃から海水浴びや毛繕いグルーミングを欠かさなかったレヴィンだったが、やはり石鹸を使った洗浄には及ばないところもあるらしく、身に纏う泡は徐々に茶色を帯びてきた。


「一回流すね。目を閉じて」


 大きな桶で浴槽から湯を掬い、じゃばば、じゃばば、とレヴィンの頭頂部から繰り返し掛け流す。

 泡を流し終えたら、再び石鹸をくしゅくしゅとこすって泡を作り、今度は下半身だ。

 腰。股間と臀部。長い長い尻尾。後肢もやはり持ち上げて、最後は肉球と肉球の間をクリクリと洗う。

 出会った当初はやや明るい小豆色を呈していたレヴィンの肉球だが、成長に伴って色が変わり、今ではほとんど真っ黒になっている。ただ、右後肢の足底球そくていきゅう(※後肢の肉球の中で真ん中にある一番大きな肉球)のみ、相変わらず小豆色だった。

 これが、なぜだか妙に可愛らしい。

 思わず、指で押し潰してしまう。

 ぶにぶに。

 表面は硬いのだが、指に返ってくる手応えはどことなく柔らかい。


「んふふ。ミリィちゃんの気持ちもわからなくもないなー?」


 食事処『琥珀の台所』の看板娘、エミリア・ヘーゼルダインは、琥珀豹の全てを愛する変態娘なのだが、特に肉球に狂っている。レヴィンと会えば必ずその肉球を弄り回すし、鼻を突っ込んで匂いを嗅ぎ尽くすのだ。一度嗅ぎ始めると、シルティが無理矢理引き剥がすまで決して終わらない。

 独特の香ばしい匂いがして頭が蕩けそうになるのだとか。


「たしかに、なんかこう……上手く言えないけど……なんとも言えない、良い匂いがするよね、レヴィンの肉球は。後肢より前肢の方が匂いが強い気がするなー……」


 じゃばば、と湯をかけて下半身の泡を流す。

 さらにもう一度、頭のてっぺんから尻尾の先までを改めて洗う。先ほどまでは泡が茶色を帯びていたが、今は全ての泡が真っ白だ。

 シルティは満足気に頷き、レヴィンと自分の身体の泡を湯でしっかりと流し切ってから、レヴィンの首元をぺちぺちと叩いた。


「よし、綺麗になったよ。浸かろっか」


 待ってました、とばかりに、レヴィンが勢いよく立ち上がる。

 シルティたちの利用しているこの個別浴室は、西区・公衆浴場の設備の中でも最も高価な浴室だ。備え付けられた浴槽は成獣の琥珀豹であっても余裕を持って浸かれるほどの巨大さを誇っている。地面に埋め込まれていることもあってか、浴槽というより、もはや池のように見えるほど。

 そこへ、レヴィンは躊躇なく飛び込んだ。

 ザブン。

 大きな波が立ち。


「ゎぶッ」


 先に湯船に浸かっていたマルリルの顔面を直撃した。


「あっ、こらっ! 飛び込んじゃだめだよ! すみません!」

「……気にしないで。琥珀豹にお湯をかけられるなんて、貴重な体験だわ」


 額に貼り付いた前髪をずらしながら、マルリルは苦笑を浮かべた。長い寿命を誇る森人エルフといえど、琥珀豹と共に湯を楽しんだ経験のある個体は相当に少ないだろう。少なくともマルリルは聞いたこともない。

 浴槽に飛び込んだレヴィンはというと、生まれて初めての湯船に興奮しきりで、浴槽内部を楽しそうにぐるぐると歩き回った。うきうきという感情が可視化されたかのような有様だ。


「レヴィン、熱くない?」


 温度は低めなので問題はないと思うが、一応確認しておく。

 レヴィンは無言のまま、ざぶざぶのしのしと浴槽内を歩き回り、それからマルリルから距離を取って浴槽のふちに寄りかかり、そっと目を閉じた。

 ご、ごご、る、るる、る、るるる。

 すぐに喉鳴らしが始まる。浴室の硬い壁で反射され、残響が加わっていた。なんとなく耳がこそばゆくなってくる音色だ。


「気持ちい?」


 レヴィンからの回答がない。

 無視しているというわけではなく、単純に会話どころではなさそうだ。初のお風呂に、レヴィンの精神は完全にとろけ切っていた。顎は半開きになり、喉鳴らしが止まらない。仕舞い忘れているのか、薄っぺらな舌がてろんと零れ落ちている。


「ふふふ。これからも入りにこようね」


 個別浴室の利用料金は、公衆浴場の通常利用料金と比べるとかなり割高だが、今のシルティからすれば問題なく払える金額だ。レヴィンにこれだけ喜んでもらえるならば利用に躊躇はない。


「すみません、マルリル先生。お待たせしました」


 シルティは会釈をしながら、マルリルの隣に身を沈める。

 心地のいいぬるい湯が、シルティの肢体をじんわりとほぐす。


「大丈夫よ。レヴィン、かわいいわね」

「んふふふふ。でしょう」


 可愛いレヴィンを褒められ、シルティは遠慮なく親馬鹿を発揮した。


「さて、じゃあ少し今後の……精霊術の話をしましょう」

「はい!」

「あなた、精霊術の訓練法について、なにか知ってるかしら?」

「全く知りません!」


 とても良い笑顔で、無知を報告するシルティ。

 これまでの人生で、シルティは精霊術というものを数えるほどしか見たことがない。精霊術の実態が精霊種たちとの取引であること、完全な意味での習得が極めて難しいこと、そして霊術士たちが高給取りであることぐらいしか知らなかった。訓練方法については全くの無知だ。

 マルリルは苦笑しながら、精霊術の習得には三つの段階があることを説明した。



「……だから、まずは霊覚器れいかくきの構築から始めることになるわ。最初に言っておくけれど、これね、物凄く痛くて気持ち悪いの。覚悟しておいてね」

「痛いのも気持ち悪いのも慣れてます。大丈夫です」


 斬られながら吐きながら生きてきたシルティは、肉体的苦痛への耐性には自信がある。

 自信満々のシルティを前に、マルリルは意味深で曖昧な表情を浮かべた。


「霊覚器の構築には準備が必要だし、あなたもお金を稼がなくちゃならないでしょうから……そうね。最初の授業は十日後に、三日間。そのあとは、ひと月に一回ぐらいの頻度で三日間ずつ、構築を進めていきましょう。どれくらいで完成するかは人によるから、わからないわ。いいかしら?」

「わかりました。大丈夫です。……ちなみに、精霊言語の学習は並行して進めないんですか?」

「最低でも、精霊の耳を作ってからじゃないと難しいわね。精霊言語は霊覚器を通してでないと発音も聞き取りもできないもの。それに、彼らは文字を持たないから、筆記勉強というのもいまいちなのよね」

「あー、なるほど……」


 とにもかくにもまずは霊覚器が必要、ということだ。


「ちなみに、どんなことをするんでしょうか」

「霊覚器を構築するための方法はいくつかあるわ。かつては、を使ったりだとか、ひたすら窒息を繰り返すだとか、数十日間も眠らずに立ち続けたりだとか、絶え間なく怪我をして生命力を絞り切るだとか……」


 マルリルが指を折りながら羅列していく。


「あとは、森人エルフの伝統的方法だと、自分の頭の中に霧白鉄ニフレジスの小さな粒を創出して消滅させるのを繰り返すとか」

「ひぇ……すごい怖い……」

嚼人グラトンは、耳の穴から長い棒を差し込んで、穴の奥をズタズタに傷付けて、霊覚器が欲しいって強く念じながら再生させてたとか聞いたことがあるわね」

「えぇー……それ、力加減を間違えたら、死ぬのでは……」

「死ぬこともあったわね。でも、独学で修めようとしたらこんな方法しかないのよ。……あ、もちろん、もっと安全な指導方法が考案されてるから、安心して」

「よかった……。それはどういう?」

「それはね」


 マルリルが自らの両耳の先端を摘まんだ。

 森人エルフ特有の細く伸びた耳介をくにくにと引っ張りながら、にっこりと微笑む。


「両方の耳の中に朱璃しゅりを注ぎ込んで血縁を結んで他人の生命力をぶち込むの」

「え……それ……大丈夫なんですか」

「大丈夫じゃないわよ。死にはしないけど、物凄く痛いし、物凄く気持ち悪いわ」

「おおう……」

「……ちなみに私は、声がれるくらい泣き叫んだわね」

「……んふっ、ふふ、ふ……。なんか、そこまで言われると……楽しみになってきました」

「え……」


 蕩けるような笑みを浮かべるシルティに、マルリルは引いた。





 入浴を終えた三名は、公衆浴場に隣接する喫茶店で一息をついた。


 シルティの手元にあるコップには、無数の氷の粒が浮かんだ褐色のお茶が満たされている。かつてシルティが港湾都市アルベニセに辿り着いた日、元気のいい壮年の衛兵ドミニクス・クラッセンにご馳走して貰ったものと同じものだ。あれ以来、シルティはこのほのかに甘く香ばしいお茶が大好物だった。

 ちなみに、この小さな氷は土食鳥つちくいドリから作られる冷蔵用魔道具〈冬眠胃袋〉ではなく、月白甲蠃つきしろガゼと呼ばれる全身棘塗とげまみれの底棲ていせい魔物から作られる製氷用魔道具〈海底の雪〉によって得られるものだとか。

 この月白甲蠃つきしろガゼはローザイス王国周辺の海底に大量に生息しており、専用の長柄鋏トングを使えば素潜りでも比較的安全に捕獲することができる。供給量が多いため、魔道具〈海底の雪〉も大量に製造することができ、一般家庭にも普通に流通するほど安価で売られていた。ノスブラ大陸における着火用魔道具〈蜻蛉トンボの尻尾〉と同じようなベストヒット商品だ。


「はー……美味し……。」


 温い湯とはいえ、長時間浸かったことで身体が火照っている。ぐびりと飲み込んだ液体が、喉を痛烈爽快に冷やしていく。とても心地がいい。

 マルリルはシルティの飲んでいる褐色の茶ではなく、透き通った緑色の茶を飲んでいた。こちらは温茶ぬるちゃで、氷は浮かんでいない。

 全身がぴかぴかのふわふわになったレヴィンは、きめ細かい黄金色の被毛を見せつけるように姿勢よく座り、きりりとした表情を作っていた。実に誇らしげな様子だ。


 港湾都市アルベニセにおいて、琥珀豹の名と姿は非常に有名である。一目見てそれとわかるのだろう、通りすがりにレヴィンを見た人々は漏れなくぎょっとして動きを止めた。その首に白銀の朋獣認定証が輝いていることに気付くとさらに驚愕を露わにし、大半がこそこそと遠巻きに観察を始める。

 おかげでこの喫茶店は、かつてない大盛況。

 店主はホクホク顔である。



「マルリル先生、霊覚器構築の件ですけど……とりあえず、これを」


 霊覚器構築のためには充分な量の朱璃しゅりが必要だ。

 そして、朱璃は素材および製法の問題で、非常に高価である。

 その調達資金として、シルティは現在の財産のほとんど全てをマルリルに預けようとしたが……マルリルは首を横に振った。


「一旦、立て替えておくわ。あなたはまず装備を整えなさい」

「え、でも」

「あなたは私の剣を齧れるぐらい武具強化が得意みたいだから、刀はいいとしても……鎧は要るでしょう?」

「それは、その……はい」


 鎧の必要性についてはシルティも理解している。

 現在着用している布の衣類は野外活動を前提とした丈夫な品物だが、いくら丈夫だと言っても、これで魔物たちの攻撃を受け止めるのは難しい。武具強化を乗せられる頑丈な鎧があれば不意打ちにも強くなれるし、なにより、鎧をわざと当てに行って互いを弾いたり、回避し切れないものを浅い角度で受けて滑らせるなど、殺し合いの最中に選べる選択肢がぐっと増えるのだ。

 もちろん、鎧を手に入れたとしてもすぐに武具強化を乗せられるようになるわけではないが、布の衣類に比べればその防御性能は雲泥の差である。


「いいわね? これは、あなたの師としての指示よ。まず鎧を揃えなさい」

「……はい」


 有無を言わさぬマルリルに、シルティは頷くしかなかった。


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