第57話 透明性



 記念すべきレヴィンの初魔法から、七日後の森の中。


「いくよ」


 シルティの宣言を受け、レヴィンが息を静かに吸い、止めた。

 獲物に襲い掛かる直前などに息を静かに吸って止めるのは、シルティが狩猟の師である父ヤレック・フェリスから受け継いだ定型ルーティン的な呼吸である。さらにそれをシルティがレヴィンに教えたのだ。

 呼吸のタイミング、特に息を吸うタイミングを読まれると、動き出しを読まれ易くなる。胸を膨らませず。腹を膨らませず。そして肩を上げず。とにかく静かに、吸っているように見せずに息を十二分に吸うのが、この呼吸の肝だ。

 今のレヴィンの呼吸は、シルティからすれば丸わかりもいいところ。まだまだ完成度は低いと言えるだろう。

 とは言え。


(ふふふ……)


 拙いながらも懸命に教えを守ろうとする弟子の姿は、とても愛しいものだった。

 可愛らしくも未熟な弟子へ向け、シルティが指先ほどの小さな石をひょいと緩く投げる。

 レヴィンは小石を眼球の動きだけで追いかけた。

 このままでは額に当たるであろう小石の軌跡、その放物線が頂点に達した瞬間、レヴィンの山吹色の瞳がまるで薄い油膜の張った水面のように虹色の揺らめきを孕み、グニャリと異彩を放つ。

 カツン。

 直後、軌跡を遮るように生じた黄金色の円板に弾かれ、小石はレヴィンを襲うことなく地面へ落ちる。

 間髪入れず、シルティが次弾をほうった。

 レヴィンの瞳が揺らめき、直後に小石が弾かれる。

 三、四、五。

 異なる軌道で放られた五つの小石は、それぞれ漏れなく弾かれた。


「ばっちりっ!」


 シルティがすぐさま近寄り、レヴィンの頭やら喉やらわしゃわしゃと撫で回す。

 レヴィンはすかさず身体を寝かせ、脇腹を見せた。良きに計らえ、の姿勢である。

 今日は頭や喉より脇腹の気分らしい。


「うりうり~」


 望み通り、シルティは無防備なあばらと脇腹を両手で掻き撫でてやった。

 ごるるるる。喉鳴らしも高らかである。


 ほとんど思い付きで始めたネコジャラシ遊びだったのだが、魔法の訓練としてこれがシルティの想定以上に効果的だったらしい。レヴィンは瞬く間に魔法行使のコツを掴み、今ではこの通りほぼ確実に生成することができるようになっている。

 無論、レヴィンが『珀晶生成』を殺しの手段とするためには、ただ生成できるだけでは不十分だ。瞬時に、狙い通りの位置へ、状況に適した形状の珀晶を生成できなければならない。

 とは言え、直近の目標である朋獣認定試験にそこまでの練度は必要ないだろう。魔法をしっかり制御できていることさえ示せばいい、はず。

 シルティの距離感覚では、港湾都市アルベニセまであと三日ほど。

 三日間みっちり訓練を積めば、都市への帰還後すぐに受験申請を行なえるかもしれない。


 撫で回しの余韻に浸ってとろけているレヴィンはそっとしておき、シルティは宙に浮かんだ珀晶を検めた。

 今回レヴィンが生成した五つの珀晶は、どれも子供の握り拳程度の小さな円板だ。これで放られた小石をしっかりと捉えられるのだから、珀晶を生成する座標の正確性は随分と増してきたと言えるだろう。

 琥珀豹が空気中に生み出す珀晶は、生成された座標へと完全に固定されており、生成した本ですら一切動かすことはできないという。生成後の微調整は不可能だから、生成座標の正確性は極めて重要なのだ。


 また、珀晶を盾として使うなら生成のタイミングも正確でなければならない。生成が早すぎては簡単にかわされてしまうし、遅すぎるのも論外だ。妨害すべき対象の運動を目視で正確に把握し、ぴたりのタイミングで生成する必要がある。


 最初の頃は、シルティの顔よりも大きな珀晶を生成しておきながら小石を捉えられなかったり、衝突までひと呼吸もかかるような先走った生成だったり、逆に小石が通り過ぎてからの生成ばかりだった。

 だが今は、ほぼ百発百中で妨害に成功し、しかも全て衝突までごく僅かの至近距離。

 初めての魔法からまだ十日も経っていないというのにこれである。やはりレヴィンは天才なのだろう、と親馬鹿シルティはご満悦だった。


 しかしながら。


(うーん……)


 魔法の訓練を開始して以降、『透明さ』に関しては一切の進歩が見られない。

 今回、シルティは事前に『丸い板を作ってね』とレヴィンに指定していた。指定通り、五つの珀晶はどれも綺麗な円板だ。落ち着いてさえいれば、今のレヴィンはかなり複雑な形状でも生成できる。〈玄耀〉をかたどった鋭利な珀晶を生み出したり、シルティの手を模刻もこく的に複製したり、葉脈までくっきりと見える木の葉を再現したり。

 レヴィンとしても魔法での試行錯誤は楽しいようで、今ではシルティが言わずとも暇になれば珀晶でさまざまな対象を造形し、その出来栄えを見ては満足げに唸るのであった。

 だが。

 なぜか、どれも依然として半透明なのだ。

 まぁ、透明な珀晶を生成できないからと言って、朋獣認定試験で大きな減点対象になるとはシルティも思っていないのだが……。


(うぅーんん……)


 琥珀豹の魔法『珀晶生成』が『黄系色で透明な結晶を空気中に生成する魔法』であると広く知られているのだから、野生の琥珀豹たちは基本的に透明な珀晶を生成しているはず。

 つまり、琥珀豹たちには透明な珀晶を生成することこそが自然であるはずなのだ。

 むしろ、半透明ないし不透明な珀晶を生成可能性すらある。

 幼さゆえに、あるいは未熟さゆえに、レヴィンの珀晶が半透明になってしまっているだけならばいいのだが。

 自分が下手に手を加えたせいで、レヴィンの珀晶から透明性が失われてしまったのではないか、という考えがシルティの頭をよぎる。


(うーん……透明な珀晶を作る練習とか考える? 表面はつるつるなんだから、多分、内部なかに傷があるんだよね。もっとこう、ぎゅっと、押し縮めるような……いやでも、それでもっと変な方に拗れちゃったらやだしなぁ……なんかこう見本が……透明な見本……が……)


 と、そこまで考えて。


「あ」


 シルティは一つの考えに思い至った。

 もしかしてレヴィンは、そもそも『透明な固体』というものを上手く想像できていないのではないだろうか。

 なにごとにも見本は大事だ。野生の琥珀豹ならば親の作る透明な珀晶を見てそれを摸倣できる。しかしシルティの知る限り、レヴィンは明確な『透明な固体』を見たことがない。

 身の回りに存在する透明な物質と言えば水や空気だが、どちらも決まった形を持たず、珀晶の参考とするには不適合に思える。

 であれば。

 シルティは背後を振り返る。

 そこには、つい先ほど襲ってきて返り討ちにした今夜の食料……蒼猩猩あおショウジョウの死骸があった。

 大抵の場合、獣たちの身体には透明な部位がある。眼球の水晶体だ。死後時間が経つと白く濁ってしまう場合が多いのだが、この蒼猩猩はまだまだ新鮮である。

 珀晶の参考にするには水晶体は少し柔らかすぎるように思えるが、それでも切っ掛けぐらいにはなるかもしれない。

 早速、シルティは仕留める際に刎ね飛ばした蒼猩猩の頭部を拾い上げ、その巨大な眼球を速やかに刳り貫くと、すぱりと前後に割り、中に詰まったゼリー状の硝子体しょうしたいを掻き出して、目的の水晶体のみを摘出した。

 指二本分ほどの直径を持つ、僅かに潰れた球形。期待通りに透明なそれを手のひらに乗せ、水筒の水で洗い、シルティの解剖を興味深そうに眺めていたレヴィンの前へ差し出す。


「レヴィン、これと同じの、魔法で作れる?」


 シルティの声を聞き、レヴィンが身体を起こして蒼猩猩の水晶体を凝視した。

 角度や距離を変えながら、めつすがめつ、真剣に入念に執念深く。

 レヴィンは、目がとても良い。とんでもなく良い。

 第一に、琥珀豹は強襲型の肉食獣である。獲物との距離を把握するのは大得意だ。静止視力も動体視力も、そして深視力も、どれもが素晴らしく優れている。

 第二に、琥珀豹のように視界に大きく依存する魔法を宿す種族は、総じて超常的に優れた視覚を備える傾向があった。

 第三に、レヴィンにはシルティが教え込んだ『長さ』という概念の知識がある。

 理屈から考えて、レヴィンという琥珀豹よりも空間を認識・把握する能力に長けた生物など、世界を見てもそうはいないのではないだろうか。

 同じく目の良さに自信のあるシルティは、実は密かに対抗意識を抱いているのだが、それはともかくとして。


「どう? できそう?」


 シルティが尋ねると、レヴィンは自信ありげに唸り声を上げた。

 直後、レヴィンの目に虹の揺らめきが宿る。

 水晶体のすぐ隣に、音もなく、潰れた球形の珀晶が出現した。

 形状としては実物と寸分違わない。

 それでいて、一点の曇りもない、美しく透明な珀晶だ。


「おおーっ! さっすがレヴィン!」


 シルティが感嘆の声を漏らしながらレヴィンの頭を撫で回す。

 間違いなくレヴィンは大天才だ、と親馬鹿シルティは大層ご満悦だった。

 褒め殺されたレヴィンも、ごるるると喉を鳴らしてご機嫌である。


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