第56話 ネコジャラシ



 ひとしきりレヴィンを撫で回して満足したシルティは、地面に伏せて顔を近づけ、レヴィンが生み出した初めての珀晶をよく観察した。


「ほおわー……これが珀晶かぁ……」


 人差し指を曲げ、指の背でコンコンと軽くノックする。薄いくせに、非常に硬い感触だ。指で押してみてもびくともしない。

 黎明の僅かな光の中でも明瞭な、太陽を思わせる明るい黄金色。シルティが手のひらを広げた程度の板状だが、形はいびつで、幾何学的なものではない。あえて表現するならば六角形や八角形に近いだろうか。厚みも一定ではなく、場所によっては薄くなりすぎて穴が開いていた。

 重力に縛られず空中に浮いているのは聞いていた通り。

 しかし。


(……これ、半透明だな?)


 シルティが首を傾げる。

 琥珀豹が魔法によって生み出す珀晶は、個体によって色合いの差はあるが、どれも黄色かつ透明で、良質な琥珀に酷似した物質だと聞いていた。

 だがシルティの目の前にあるこれは、透光性はあるものの、かなり曇っている。

 例えば透明な宝石やガラスであっても、表面や内部に傷があれば半透明に曇るが……。


(うーん?)


 シルティは珀晶を指先でつーっとなぞってみた。

 良く磨いたガラスのような、非常に滑らかな表面だ。


(つるっつるだ。表面の傷じゃない)


 ということは、内部に傷ないし気泡が含まれているのだろうか。

 魔法『珀晶生成』は視界内に珀晶を生成する魔法だという。おそらく今回は、本能的・反射的・無意識的に生成した珀晶であるから、内部に空気孔を多分に含む、曖昧で空疎な希薄構造になってしまっているのではないだろうか、とシルティは考えた。

 視界を遮らない盾を作り出せるというのは魔法『珀晶生成』の大きな長所の一つ。レヴィンを強く育てたいシルティにとって、透明な珀晶の生成は是が非でも習得させておきたい技法だ。

 最低限、向こう側が透かし見れる程度の透明さは欲しい。


 シルティはレヴィンの後頸部うなじをぽんぽんと優しく撫で、声をかける。


「身体は平気?」


 レヴィンが頷いた。少なくとも当の自己診断では余裕があるらしい。が、念には念を入れておく。

 シルティは鎌型ナイフ〈玄耀〉を引き抜き、自らの手のひらをざっくりと裂いて、レヴィンの口元へ持って行った。


「一応、ちょっと飲んでおこっか」


 魔法は生命力を動力源とするものだ。嚼人グラトンの魔法『完全摂食』のような少数の例外を除けば、基本的に使えば使うほど死に近付いていく。ようやく魔法が使えるようになったばかりの幼いレヴィンでは尚更である。生命力を豊富に含む嚼人グラトンの生き血を飲ませておいて損はない。

 シルティの勧めに従い、レヴィンが手のひらをぺちゃぺちゃと舐めて生き血を摂取した。嚼人グラトンほど瞬間的ではないにせよ、これで生命力は補給できるだろう。


「よし、忘れないうちにもう一回やってみよう」


 シルティが珀晶の板を指し示しながら言う。

 レヴィンが了承の唸り声を上げ、一枚目の板のすぐ隣、地面をじっと見つめる。


 が、何も起きなかった。

 しばらくすると、レヴィンは尻尾をうねうねとくねらせたり、首を忙しなく傾けたり、目を見開いたり、牙を剥き出しにしてみたりと、いろいろと試し始める


 が、何も起きなかった。

 レヴィンの耳介がへにゃりと下がる。


「こればっかりは私には教えられないんだよ……頑張れ、レヴィン。さっきの感覚を思い出して」


 魔法を行使する感覚というのは言語化が難しいものであるし、同種間ならともかく異種族間ではそれも大きく異なっているだろう。

 例えば、仮に蒼猩猩が魔法『停留領域』を使う感覚を正確緻密に紅狼くれないオオカミへ教え込むことに成功したとしても、紅狼が自身の魔法『生命眺望』を使えるようになるわけもない。

 あるいは切っ掛けぐらいにはなるかもしれないが……残念ながら、シルティがレヴィンに自身の魔法の感覚を教えるのは難しかった。人類種の中でも、嚼人グラトンは特に魔法への自覚が薄いのだ。

 彼らがその身に宿す『完全摂食』は恒常魔法である。無意識に使ってしまうし、意識的に使わないということができない。

 少なくともシルティには、自分が食べたものを消化する感覚を具体的に言語化するなど無理である。



「……あっ。そうだ」


 どうにかレヴィンの助けになれないか、と考えていたシルティにひらめきが走った。

 シルティは速やかに周囲を見回し、赤茶色でざらついた幹をした木を見つけると、ひょいと登って適当な太さの枝を採取する。この森での生活も四か月半を越えており、自然とシルティは草木の特徴にも詳しくなっていた。

 この赤茶色の木の枝は、非常に強靭かつ柔軟で、鞭のようによくしなるのだ。

 枝の樹皮を剥ぎ、太さを整え、適当な長さに切る。

 その端面に十字に切れ込みを入れ、細長い草の葉を数十枚まとめて挟み込み、外れないよう紐できつく縛って固定。


 軽く振って調子を確かめる。

 草の葉が固定された先端が、手の動きにやや遅れつつ、びよんびよんと揺れ動く。

 尖端に房状のものが付いた、よく撓る棒。

 いわゆる、ネコジャラシの完成である。

 ただし、その大きさは狗尾草エノコログサのような穂を持つ天然ネコジャラシとは比較にならない。レヴィンでも余裕でじゃれられる巨大なネコジャラシだ。


「よし」


 道具を完成させたシルティは左腰の〈紫月〉を抜き、切っ先を地面に触れさせ、その場でくるりと身体を一回転させた。下生したばえごと地面が切り取られ、地面には円が描かれる。

 シルティの身長ほどの直径で、まるで円規コンパスで描いたように正確な円だ。


「レヴィン、この丸の中に入ってくれる?」


 シルティの要請に従い、レヴィンは大人しく円の内側へ。


「見て」


 シルティは円の外側に立ち、レヴィンに向けてネコジャラシを軽く左右に振るう。

 動きにつられて、レヴィンの首が左右へ動く。


「レヴィン。私がいいって言うまで、その丸から出ちゃだめだよ。わかった?」


 レヴィンは不思議そうな表情をしつつ、しっかりと頷いた。

 ルールを決めた上でのネコジャラシ遊び。言うまでもなく、これはレヴィンの持つ狩猟本能を理性で抑えるための訓練だ。

 ネコジャラシで狩猟本能をくすぐりつつ、どれだけ白熱していてもルールだけは忘れないという、独立的な冷静さを養う。

 同時に、二度目の魔法行使のきっかけになればという狙いもあった。適当なタイミングでネコジャラシを円から遠ざけてみるのだ。

 一度目の守宮ヤモリのように、魔法を使わなければ獲物を逃がしてしまうという状況を作るのはそう的外れではないはず、とシルティは考えた。


 シルティはネコジャラシを地面に沿わせるように動かし、円の内側へゆっくりと侵入させる。レヴィンの右前肢のすぐ近く、触れるか触れないかの位置でクイクイと小刻みに動かす。

 誘惑。レヴィンに反応はない。

 さらに誘惑。レヴィンが目で追い始めた。

 執拗に誘惑。レヴィンの左前肢が弾けるように動いた。

 幼くともさすがは琥珀豹、素晴らしい俊敏性である。

 だが、現時点ではまだまだシルティの方が速く、そして精確だ。

 シルティが手首を僅かに返す、たったそれだけでネコジャラシの軌道が翻り、レヴィンの殴打をするりとかわした。

 獲物ではなく地面を掴んでしまった左前肢を、おちょくるようにネコジャラシでくすぐる。


「んひひ。遅いぜっ。捕まえられるかな?」


 即座に右前肢が動いた。シルティが手首を返す。空を切る。

 左前肢でのジャブ。左前肢での薙ぎ払い。右前肢での叩き付け。両前肢での挟み込み。

 徐々に、攻撃に躊躇がなくなってきた。白熱してきたらしく、鉤爪もにょっきりと飛び出ている。だが、シルティの操るネコジャラシはその悉くを回避していく。


 十七度目の攻撃は、左前肢での叩き付け。

 体重と筋力が存分に乗せられたこれを、ネコジャラシはまたもや呆気なく回避。その直後、レヴィンから大きく逃げるように、円の外へ一直線に距離を取った。

 目を爛々と輝かせたレヴィンが、追撃のために間髪入れず跳び出す。

 そして。


「いらっしゃい」


 待ち構えていたシルティに、前肢を柔らかく把握される。

 瞬時の脱力と速やかな重心移動、そして充分な全身の筋力。シルティの淀みない体捌きにより、レヴィンの突進の勢いは回転の勢いへと綺麗に変換された。

 為すすべもなく、空中で縦に一回転半。

 体勢を整える間もなく背中から地面に墜落し、レヴィンはゲヴェウと濁った悲鳴を上げた。


「丸から出ちゃだめだってば」


 シルティの言葉を受け、仰向けに倒れたまま「あ」というような表情を浮かべるレヴィン。

 最初に定めたルールが完全に頭から抜け落ちていたらしい。


「楽しかった?」


 ビャゥン。

 レヴィンが肯定の声を上げつつ、すぐさま跳ね起き、体勢を整えた。うきうきとした表情とビィンと伸びた尻尾から、継続を切望していることが窺える。

 いつもとは趣の違うネコジャラシ遊びは、どうやらかなりお気に召したようだ。


「ふふ。もう一回やろっか。また丸の中に入ってね」


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