第55話 初めての



 熊の石焼きを楽しんだ翌日。

 空がごく僅かに白み始めた、晴れた黎明れいめいの頃。

 シルティは適当な木の根元に座り込み、背を預けて浅い睡眠を取っていた。

 レヴィンもシルティの傍で寝転がり、交叉させた自らの両前肢を枕に微睡まどろんでいる。


 そんなレヴィンの鼻先に。

 ぽてりと何かが樹上から落ちてきた。


 レヴィンが目を薄っすらと開ける。種族的にシルティよりもずっと夜目が利くレヴィンは、明け方の照度でもはっきりとそれを視認することができた。

 ひょろりと長い尻尾、微細な鱗で覆われた扁平な胴体、ぎょろりとした大きな両目のある頭部。

 どこにでもいるような、小さな守宮ヤモリだ。

 足を踏み外して枝から落ちたのだろう。守宮は登攀とうはん能力に特化した動物のはずだが、中にはドジなやつもいるらしい。


 レヴィンは守宮を見るのは生まれて初めてだったが、特に慌てることなく、地面でうねうねと身をよじる爬虫類を観察した。

 吹き飛ばせそうなほど弱い。

 自分の脅威にはなり得ない。

 矮小。腹の足しもならない。

 そう判断したレヴィンは、ドジなこの守宮を見逃すことにした。


 したのだが。


 体勢を整えた守宮は、あまりに体格差がありすぎて捕食者レヴィンを認識できていないのか、逃げ去ることなく呑気に周囲を見回し、ちょろちょろとレヴィンの鼻先を這い回った。

 うろちょろ。うろちょろ。レヴィンの目がそれを追う。


 ――たしっ。


 レヴィンの右前肢みぎてが無意識のうちに動き、守宮の頭部を真上から押さえ込んでいた。

 視界をうろちょろされればとらえたくなるのが強襲型の肉食獣だ。賢いレヴィンにも、やはり抗えない本能というものはある。


 事ここに至り、ようやく自分が圧倒的捕食者に捕捉されていると理解したのか、守宮は全力で身体をぐにゃぐにゃとよじらせ、レヴィンの肉球から逃れようとじたばた暴れ始めた。

 一方のレヴィンもハッと我に返り、慌てて右前肢みぎてを持ち上げる。

 そして、自らの無意識行動に愕然とした。

 見逃そうと思ったはずなのに、気が付けば前肢が勝手に動いていたのだ。こんなことは初めてだった。

 制圧から解放された守宮はその隙を逃さず速やかに逃走を開始。直線で五歩ほどの距離を瞬く間に進み、生い茂る下生えに辿り着くと、草の影に隠れて立ち止まった。

 本人守宮はしっかり隠れたつもりのようだが、レヴィンからは丸見えだ。

 隙だらけの背中が目の前にある現状に、レヴィンの中の本能が再びむくむくと鎌首をもたげた。


 別に、守宮を食べたいわけではない。

 ただ、どうしようもなく捕まえたい。


 レヴィンはそろりと身体を起こし、狙いを定め、跳び掛かった。

 琥珀豹の強襲を小さな守宮がしのげる道理はない。レヴィンの右前肢は呆気なく守宮を押さえ付けた。仕留めるつもりはないので鉤爪は引っ込めたまま。体重をかけすぎて潰さぬようにも気を遣う。

 レヴィンの肉球に緩く押し潰され、ぐにゃぐにゃと暴れる脆弱な守宮。

 肉球をくすぐる甘美な愛撫を受け、レヴィンの瞳に強い嗜虐の光が混ざった。


 前肢を持ち上げ、再び守宮を解放する。

 逃げる守宮を、さらに襲う。

 三度、四度、五度。

 捕獲と解放を繰り返すうちに、レヴィンの狩猟本能はますます燃え上がっていく。

 目を爛々と輝かせ、夢中になって守宮を追い詰める。

 守宮はもはや完全に死にもの狂い、息も絶え絶えだ。


 九回目の捕獲。レヴィンの左前肢が守宮の尻尾をたしっと押さえつけた。

 その瞬間、尻尾が根本からプツリと千切れる。

 思いもよらない出来事に、レヴィンがギクリと身体を硬直させた。

 レヴィンの左前肢の下で、千切れた尻尾が蚯蚓ミミズのようにうにょうにょと曲がりくねる。

 ぎょっとしたのか、レヴィンの顔がわかりやすく引き攣った。


「んふっ、ふふふっ……」


 レヴィンがはしゃぐ様子をこっそりと薄目で観察していたシルティが、思わず小さな笑い声を漏らす。レヴィンが身体を起こした辺りで、シルティも目を覚ましていたのだ。

 レヴィンが背筋をビクリと弓なりに持ち上げ、シルティの方へ振り返った。遊びに夢中になりすぎて、シルヴィの視線に全く気付いていなかったのだ。

 その隙に、守宮が決死の逃走を仕掛ける。暴虐極まるレヴィンから少しでも遠ざかるように、一目散、無我夢中で走り出す。

 レヴィンはそれを、視界の端でしっかりと捉えていた。


 予想外の守宮の自切と、肉球と肉球の隙間に纏わり付くようにうねうねと動く尻尾の感触に、レヴィンは確かに戦慄したビビった

 それをシルティに見られていたという事実に、レヴィンはかつてなく強い羞恥心を抱いた。

 戦慄に羞恥が混ざり合い、レヴィンの思考が真っ白に染まる。

 漂白された思考を改めて塗り潰すのは。

 視界の端で逃げていく獲物ヤモリを逃がしてなるものかという、溶岩のようにどろりとした灼熱の狩猟本能。


 純粋無垢な本能の視界を得て、レヴィンの心臓が一際ひときわ強く拍動する。

 山吹色の瞳が鮮烈な生命の光を宿し、虹色に揺らめいた。

 次の瞬間、守宮はに真正面から激突し、自らの突進の反作用で無様にひっくり返る。

 レヴィンが瞬時に跳び出し、白い腹を見せる守宮にバグリと喰らい付いた。

 鋭い牙は守宮の柔らかな鱗を容易く破り、その命をひと口で刈り取る。


 レヴィンはぶるりと身震いした。

 レヴィンが自らの力のみで他者の命を奪ったのはこれが初めてだ。

 口内に溢れかえる血の味に、堪えようもない歓喜が全身を駆け巡る。


「……んぁっ!?」


 シルティがガバリと身を起こし、両目を見開いた。

 単独狩猟の初成功は、もちろん、祝うべきことだ。

 だが今は、それよりももっと大事なことがあった。


「レッ……レヴィン……そ、それはまさか!!」


 シルティの視線の先にあるのはもちろん、守宮の逃走を見事に妨げた黄金色の障害物。

 目にするのは初めてだったが間違いない。琥珀豹がその身に宿す魔法『珀晶生成』の産物だ。

 当のレヴィンはと言うと、自らが生み出したはずの珀晶をぽかんとした表情で見つめていたが、唐突に右前肢をゆっくりと持ち上げ、べしりと叩きつけた。

 珀晶の壁はそれをしっかりと受け止め、なおも健在。指ほどの厚みもない薄っぺらな壁だが、レヴィンの軽い殴打を受け止めるくらいの強度はあるらしい。


 シルティは満面の笑みを浮かながら全力でレヴィンに向かって駆け出し、


「おめでとっ!」


 疾走の勢いのまま愛すべき家族に抱き着いた。

 レヴィンの頭やら喉やらを両手でワシャワシャワシャワシャと執拗に撫で回し、両頬をグニグニムニムニと念入りに揉みほぐす。

 いまだ茫然としていたレヴィンだったが、シルティの愛撫にさらされるともう条件反射的に脱力してしまうらしく、すぐさま地面に寝そべり、腹を見せてとろけ始めた。

 腹部の柔らかな毛を手櫛てぐしで梳いてやりながら、シルティが感慨深げに呟く。


「ふふ。レヴィンもおっきくなったなーとは思ってたけど、とうとう魔法かぁ……」


 ご、る、る、る、る。

 レヴィンの喉が盛大に鳴っている。初めての魔法より、シルティの愛撫の方が、レヴィンにとっては重要だった。


「今日からしっかり練習しようね? 魔法をばっちり使いこなせるようになったら、レヴィンも都市まちの中で暮らせるようになるからさっ」


 〈冬眠胃袋〉を購入したことでほぼ無一文となったシルティだったが、今回の狩りで既に雷銀熊の頭部を三つ確保できている。朋獣ほうじゅう認定試験の費用など余裕で賄えるだろう。

 あとは、合格できるかどうか。

 出会ってからおよそ四か月半、根気よく学習を続けてきたおかげで、レヴィンは人類言語を相当に高度なところまで理解できるようになっている。親切な女衛兵ルビア・エンゲレンや『琥珀の台所』の看板娘エミリア・ヘーゼルダインの協力もあり、シルティ以外の人類種にも充分に馴れたはず。

 今ではエミリアからの狂気的なスキンシップにすら寛大な心で耐えられるようになっているのだ。

 初対面の試験官に身体を触れられたとて全く平気だろう。


 不安要素は一つ。幼いながらも強く根付いたその狩猟本能だ。

 肉食獣が獲物を襲うことに喜びを覚えるのは自然の摂理であり、先祖代々受け継いできた根源的な快楽。見方を変えれば誇るべき武器だ。自分よりも弱いものや、明確な隙を晒したものに対する嗜虐心は、殊更に強い。現に今も、レヴィンは目の前でうろちょろする守宮を襲うのを我慢できなかった。

 しかし、人類社会の中で生活していく以上、そうも言ってはいられない。

 目の前でうろちょろする人類種の子供を我慢できずに襲ってしまったら大問題である。

 そういった事件が起こらないよう、認定試験でも厳しくチェックされるはず。対策せねばなるまい。


 と言っても、獲物に対する嗜虐心を完全に消し去ることはまず不可能だろう。

 弱いもの、隙だらけのものを前にしても、たかぶり過ぎないようにする。嗜虐への陶酔を自覚しつつも、決して溶けない独立した冷静さを残す。

 そんな訓練が必要だ。


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