第54話 熊の石焼き



 シルティが〈冬眠胃袋〉を手に入れた日から数えて、二十日。

 シルティの振るう〈紫月〉が、雷銀熊らいぎんグマの命を容赦なく刈り取った。



 夜。

 シルティは火をおこして肉を焼いていた。

 立ち昇る煙が樹冠を越え、夜天に消えていく。


 遭難中は未知の魔物を恐れて火を避けていたシルティだが、ここ『猩猩しょうじょうの森』に生息する魔物の情報は既にあらかた仕入れてある。

 この森で特に注意が必要な夜行性の魔物は二種。

 かつて襲われたこともある紅狼くれないオオカミと、まだ出会ったことのない霧吐蛇きりはきヘビだ。


 紅狼はただでさえ夜目と鼻が利く上、魔法『生命眺望せいめいちょうぼう』の効果で暗闇を一切苦としない。獲物および仲間の位置を常に把握する精鋭たちの夜行軍である、まともに戦うのは避けたいところ。

 とはいえ、情報によると紅狼が生息するのは森のもっと浅い位置だ。この辺りにはいない可能性が高い。いざとなれば木に登れば問題ないという実績もある。


 もう一方の霧吐蛇は、嚼人グラトンの成人男性を五人並べても及ばないほどの全長を誇る、馬鹿みたいに巨大な蛇だ。

 かの蛇の得意とする殺しの手段は、絞殺ではなく、圧殺。人類種を鎧ごと締め潰すことが可能な抜群の筋力と、自身の周囲を広範囲に亘り霧で覆う魔法『眩朧発生げんろうはっせい』をその身に宿している。

 彼らが生み出す霧は空気の影響を一切受けず、たとえ暴風に曝されても散らされることなくその領域に濃く留まり、そして光を超常的なまでにさせるとか。どれほど夜目の利く動物であっても、それが光に頼る視覚である以上、これに包まれれば目を潰されたも同然だ。あらゆる像は著しくにじみ、目と鼻の先さえ定かではなくなる。

 しかも当の霧吐蛇はどうやら視界にそれほど頼らないらしく、この中でも全く問題なく活動できるらしい。霧自体が視覚に代わる感覚器としての役割を担っている可能性もある。

 が、何故か霧吐蛇は火には絶対に近寄らないという情報があった。あえて火を近づけると、酔っぱらったように前後不覚に陥るのだとか。


 つまるところ、この辺りでは比較的安全に火を使えるということだ。

 もちろん油断はできないが、シルティが想定していたよりもこの森の夜は平和らしい。


「めちゃくちゃ良い匂い……」


 シルティの呟きに、レヴィンが同意するようにヴヴヴと唸り声を上げた。

 二人が食欲に支配された目で見つめるのは、本日仕留めた雷銀熊の石焼ステーキだ。適当に組んだ竈で火を焚き、火の直上に平たい石を置いて、塩と胡椒を振った分厚い輪切り肉を鎮座させている。融けた脂が表層で弾け、ジウジウと心地のいい声で鳴いていた。

 部位としてはサーロインなどと呼ばれる腰付近の肉、名称で言えば胸最長筋きょうさいちょうきんの腰部である。ノスブラ大陸に生息していた熊もそうだったが、直立することもある動物だけあって、その巨体を支える背筋もまた凄まじく太く、脂身も分厚い。これ一枚でも相当食い応えがありそうだ。

 焼けた肉を〈玄耀〉を使ってひと口大に切り、箸で口へ運ぶ。

 むぐむぐと咀嚼。次のひと口。まぐまぐと咀嚼。次のひと口。

 シルティは瞬く間にステーキを四半分ほど飲み下して、目を閉じ、熱の籠った吐息を漏らした。


「美味しぃ……」


 雷銀熊の肉は元々臭みもなく美味だったが、やはり調味料は偉大だ。シルティが今回の狩猟に持ち込んだのは塩と胡椒のみだが、これがあるだけでも格段に違った。まさに別次元の美味しさだ。

 レヴィンが恨めしげな声を上げ、長い尻尾で地面をベシベシと叩いた。


「ごめんごめん」


 シルティは謝罪しつつ残りの半分を石皿に乗せ、レヴィンの前に置く。

 レヴィンはフンフンとステーキの匂いを堪能してから、勢いよく喰らい付いた。シルティと共に生活してきたからだろう、レヴィンは焼いた肉も大いに好むようだ。生の状態に比べると少し硬くなった熊肉を、顔を傾けながら奥歯で咀嚼していく。

 正確にはわからないが、おそらくレヴィンは現在生後六から七か月。いよいよ身体も巨大になり、体重ではシルティを越えた。犬に当て嵌めれば大型犬でも相当に巨大な方だ。

 まだ永久歯は生えていないとはいえ、顎の力は随分と強くなり、シルティが肉を細切れにせずとも自分でちょうどいいサイズに噛み切れるようになっている。


「美味しい?」


 ぐぐぐぐぐ、とご機嫌な鳴き声を上げるレヴィン。あっという間に完食した。実にいい食いっぷりである。

 時間無制限での大食い対決するならば嚼人グラトンこそが最強だが、嚼人グラトンの口腔の大きさ自体はさほどでもない。早食い対決をするならば、シルティはもうレヴィンに負けてしまいそうだ。


「んふふ。贅沢を言うなら、胡麻油とか欲しかったなぁ。絶対に合う」


 シルティの言葉を聞き、まだ胡麻油の味と香りを知らぬレヴィンは、目を爛々と輝かせながら首を傾げた。

 なにそれ。知らない。食べたい。

 複数の感情が混ざり合った、なんとも言えない表情を浮かべている。


「レヴィンにもそのうち食べさせたげる。楽しみにしといて。さ、次は内臓食べよっか」


 内臓を食べるのは久しぶりだ。遭難中は心臓などの部位についてはちょくちょく食べていたのだが、港湾都市アルベニセに到着してからはご無沙汰だった。蒼猩猩は胴体も魔術的に必要だというから、傷を付けるわけにはいかないのだ。食べるなど以ての外である。

 一方、雷銀熊の素材で魔術的に必要なのは頭部のみで、胴体部分は丸ごと残滓ざんし、つまりゴミだ。シルティたちが食べてしまっても問題ない。

 運が良い事に、今回は仕留めた近くに湧水があったので、下処理も万全である。


 肝臓は薄くスライスし、塩を振って生で食う。しっかりと水に晒しておいたおかげで、冷却も血抜きもばっちりだ。頭を痺れさせる甘さも、ぷるぷるとした舌触りも、この上なく素晴らしい。

 続いて心臓。脂肪分が少なく味は淡泊で、こちらも塩がよく合う。弾力に富む部位だが、筋線維が細かいため歯切れはとても良く、噛めば噛むほど楽しくなってくる。

 次は肺。多孔質でふわふわとした臓器で、他の臓器や肉にはない独特の食感を持つ。その食感から好き嫌いの分かれる部位で、シルティの母ノイアなどはこれが苦手だったのだが、シルティはかなり好きだ。心臓よりもさらに脂肪分が少なく、口に入れた瞬間はあっさりしているが、歯で押しつぶすと膨大な滋味で溢れる。内部を通る気管が軟骨質の歯応えを返すのもまた良い。


「やばー……熊の内臓、めっちゃ美味しぃ……」


 感動に打ち震えるシルティ。

 その横で、やはり打ち震えるレヴィン。

 可能ならばいくらか持ち帰り、帰路でも食べたいところだ。だが、既にシルティの〈冬眠胃袋〉には雷銀熊の頭部が三つ詰まっている。ひとつひとつが巨大で、もう食用の肉を詰められるようなスペースはない。

 内臓は特に傷むのが早いので、冷蔵できないのであれば持ち帰るのは諦めた方が良さそうだ。

 つまり。


「レヴィン、これ今日しか食べられないからね! いっぱい食べよ!」


 二人は夢中で貪った。


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