第38話 文明
この地に漂着して、五十七日目の、夕暮れ時。
シルティはこの上ない達成感を味わっていた。
最初の入り江から海岸線を辿ること実にひと月以上、常に右手側に見えていた森が、今日になってようやく途切れたのだ。三日前、四匹の
今、シルティの目の前には、鬱蒼と茂る森とはうって変わって、広大無辺な草原が広がっていた。
そして。
「あぁ……」
シルティの目からつうっと一滴の涙が零れ落ち、唇からは万感の籠った吐息が漏れる。
海岸線沿い、視界の果てに、夕日で真っ赤に染まったなにかが見えた。
この距離からでもよく見える。
幅が広くて、背が高くて、表面が滑らかで、頑丈そうで、分厚い、明らかな人工物。
それは、海に面して作られた巨大な都市の外縁部。
城壁だった。
この地に漂着し、ほぼ二か月間の遭難の末に。
シルティは、ようやく、文明に帰ってきたのだ。
「無人島じゃなくて良かったぁあぁ……ッッ!!」
しばらく経ち。
ようやく落ち着いたシルティは、ずびびびと鼻を啜りながら、改めて城壁を観察した。
開けた視界、シルティの視点から見て左方には、もはや見慣れた大海原が広がっている。右方に視線を向けると、これまで見つけてきたいくつもの小川とは比べ物にならない大きな川が悠々と流れていた。
その川の終点、河口を覆い隠すように、周囲を城壁で囲んだ都市が置かれている。城壁は一部、海の中にまで伸びていた。防波堤の役割も担っているのだろうか。
つまりあれは、河口部に作られた
目を凝らせば、城壁には複数の門が設けられており、そこからは舗装された街道が伸びている。見える範囲だけでも二本。この分なら城壁に隠れて見えない向こう側にもあるだろう。
ここからでは胡麻粒の群れのようにしか見えないが、人の往来も確認できた。
かなり経済規模の大きそうな都市である。
シルティは顔を綻ばせた。
海底を
海岸線に沿ってシルティのいる方向へ伸びる道らしきものもあるのだが、他の街道と違って舗装されておらず、さらに途中で途切れている。
シルティが抜け出してきた森を開拓しようとしている最中なのか。
まぁ、途切れていようとも道には変わりない。使わない手はないだろう。
「その前に、レヴィン。ちょっとの間、隠れててもらおっかな」
ようやく辿り着いた街だ。大手を振って訪問したいところなのだが、レヴィンを連れている今はそういうわけにもいかない。
発見した街にどのような人々が住んでいるのか、どのような法律があるのか、わからないことだらけだ。まずはシルティが単独で訪問し、諸々の規則を調べる必要があるだろう。
これだけ近い位置なのだから、あの街ではシルティが抜け出してきた森からの資源を大なり小なり利用しているはず。森と草原の境目には無数の切り株も見えた。少なくとも、森から材木を得ているのは間違いない。
誰がどう見ても、『生きた琥珀豹の仔』という存在は森の資源の一種である。
それも、どれだけ望んでも普通は絶対に得られないような、極めて貴重な資源だ。魔術研究者にとってはまさに垂涎の的だろう。
猟獣の個人所有を保障するような制度があれば問題ない。だが、貴重な魔物の生体を捕獲した者はこれを提出しなければならない、などという法がもしも制定されていたら、合法的にレヴィンを連れ去られてしまう。
そういった生体の末路は、繁殖用に生かされるか、解剖されるかのどちらかである。
シルティは草原のただ
出会った当初は片手で掴み上げられるほど小さかったレヴィンだが、出会ってから約五十日間、毎日、腹いっぱいに食べてきた。それも、魔物の肉と、
そこらの野生動物とは比べ物にならないほど生命力に満ち溢れた食生活の結果、レヴィンは強く大きく健やかに育った。
今ではもう、犬に当て嵌めれば完全に大型犬の範疇である。おかげで、その身を隠せる穴を掘るのも大仕事だ。
満足のいく穴を掘り終わる頃には、満天の星が輝いていた。
◆
翌日。
シルティがこの地に漂着してから、五十八日目。
視界の果てにある城郭都市を見て、シルティは昨日の光景が夢ではなかったと安堵した。昨日は夕暮れのため真っ赤に見えた都市の城壁だが、明るい日の光の下では真っ白に輝いている。
とても美しい都市だ。
シルティはまず、海で水浴びをした。
遭難生活の間、シルティはシルティなりに自分の身体を清潔に保ってきたつもりだが、実状はお察しである。
髪の毛はベットベト、全身の肌は薄汚れており、植物繊維の糸と樹皮で継ぎ接ぎした衣類は、血痕やら土汚れやら植物の汁やらで
まともな人類種と相対すれば、顔を顰められて当然の有様である。
これから文明に帰るのだ。衣類については今更どうにもならないが、せめて身体の汚れだけでも落としておきたい。念入りに念入りに身体を洗う。ついでに、魚を乱獲し、絞めておく。
さっぱりとしたシルティは、精一杯に身なりを整えてから、同じく海水浴びを終えたレヴィンの全身をわしゃわしゃと撫で回した。
体毛の弾力に弾かれ、霧状になって海水が飛び散る。レヴィンは目を閉じ、喉を絶え間なくごるるるると鳴らしながら、されるがまま。
仕舞いには仰向けに寝転がり、腹まで見せてきた。良きに計らえ、とでもいいたげな様子だ。
シルティが五指を曲げた両手で腹をガシガシと掻いてやると、全身がぐてりと脱力。顎は半開きになり、薄っぺらい舌が零れ落ちている。
思わず、シルティも笑ってしまうほどの無防備さ。
本当に、いつの間にやら、随分と信頼してくれたものだ。
「レヴィン、ちょっとここに入ってくれる?」
ひとしきり撫で終えたシルティが昨日掘った穴を示しながら促すと、レヴィンは気怠そうに身を起こし、穴の中へのそのそと入り込んだ。
かなり真面目に掘ったので、レヴィンが悠々と身体を伸ばせる程度の広さはある。
シルティは背負い籠から取り出した食器を置き、乱獲した魚をこんもりと盛った。
「私は少し離れる。レヴィンはここで待ってて。お腹が空いたらこれを食べていい。わかった?」
レヴィンは唸りながら、頭を小さく縦に振った。
「明日までには絶対帰ってくる。わかった?」
レヴィンは再び頭を縦に振った。
レヴィンの人類言語の学習は、既にこの指示を理解できるほどまで進んでいる。
シルティが語学教師に特別向いていた……というわけではない。シンプルに、レヴィンが賢いのだ。
もはやシルティは、レヴィンこそ紛れもない天才なのだと確信していた。
中身を空にし、代わりに土を詰め込んだ背負い籠で巣穴の入口をしっかりと塞いで、シルティは走った。
レヴィンのためにも、自分のためにも、急いで街まで行かなければ。
レヴィンという庇護すべき存在がいないならば、シルティは馬よりも遥かに速く走ることができる。あまり長距離は持たないが、ここから街までなら余裕だ。
生命力を全身に滾らせ、身体能力を増強しながら、久しぶりの全力疾走。
障害物がない。気持ちがいい。
心臓がけたたましく鳴り、肺腑が空気を求める痛みが爽快だ。全身がうっすらと汗ばむ。
ハァハァと空気を貪る口元には、自然と満面の笑みが浮かんでいた。
ようやく文明に帰ってきた。
上昇する血圧と振り切った感慨のせいで……なんだか、シルティは、とても楽しくなってしまった。
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