第37話 ハーレムを持てないオス
シルティがこの地に漂着してから、五十四日目。
相変わらず、シルティたちは海岸線から多少の距離を取りつつ森の中を進んでいる。
時たま川に突き当たり、その流れを遡ってみたりするものの、どれも短い小川だった。すぐに源泉に辿り着いてしまう。
この森は川が形成されにくい代わりにあちこちに湧水があるのだろう、というシルティの予想は正しそうである。
食料が無くなれば森の奥部へ向かい、
ちなみに、先日襲ってきた赤い目の狼たちは夜明けまでシルティたちを狙っていたのだが、日が登るとすぐに退散していった。
日の下で見ると、彼らは鮮やかな赤い毛並を持つ凛々しい顔つきの狼たちだった。
超かっこいい、とシルティは思った。
今日もシルティは蒼猩猩の肉を求め、森の奥へ踏み入る。
正午をいくらか過ぎた頃。いつものように、蒼猩猩に襲われた。
だが、これまでとの相違点が一つ。それは、蒼猩猩が単独のオスではなく、四匹のオスの群れだったということだ。三匹がレヴィンに、一匹がシルティに、樹上から同時に襲いかかってきた。
瞬時にそれらを把握したシルティは、樹上から跳びかかってきた蒼猩猩たちが空中にいるうちに前方へ踏み込み、〈紫月〉を抜き放って、レヴィンを襲ったうちの一匹の首を刎ねた。
さらにもう一匹の脇腹へ回し蹴りを叩き込み、残った一匹に衝突させて弾き飛ばす。蒼猩猩相手に打撃では大したダメージにはならないだろうが、行動は阻害できる。
蹴りを放った反動を利用して反転し、自分を狙って来た一匹の殴打を避けつつ、がら空きになった蒼猩猩の首筋へ右袈裟。
最後に、折り重なって地面で
わずかひと呼吸の間に、四匹の襲撃者はその命を散らした。
「ふぅ、びっくりした」
息を吐き出すシルティを余所に、レヴィンは息絶えた蒼猩猩をじっと観察しつつ、自らの鼻の頭をぺろんぺろんと舐めている。身体こそ動いていないが、目が爛々としていた。
そろそろ次の食事の時間だ。空腹を覚えているのかもしれない。シルティが守らなければ死んでいたかもしれない状況だというのに、呑気なものである。
肝が据わったというより危機感が麻痺したと表現するべきかもしれないが、シルティは『子供は臆病すぎるより蛮勇の方がよっぽど好ましい』と考える蛮族の娘である。是正するつもりはなかった。
蛮勇に見合うだけの力は、追々身に付ければいい。
シルティもそうやって育ってきたのだ。
シルティは周囲を警戒しながら、最初に首を刎ねた
残念ながらのんびりと血抜きをしている暇はない。尾の先端を持ってぐるんぐるんと勢いよく振り回す。強烈な遠心力により、尾の内部に蓄えられていた血液が周囲へ飛び散って、血抜きは完了だ。
輪切りにして小分けにし、背負い籠へ詰め込む。
(群れで出てきたの、初めてだなぁ)
眼前で躯を晒す、四匹の蒼猩猩。
蒼猩猩は一匹のオスが複数のメスを囲い込む
おそらくはそれなのだろう。
(オス同士の群れって、多分、競争に負けたのの群れだよね)
まだ若いのか、あるいは肉体的資質に恵まれなかったのかは定かではないが、この四匹はかなり華奢な見た目だった。目視した瞬間にシルティが『これなら私でも簡単に蹴り飛ばせる』と判断したほど、明確に小柄だったのだ。
これまでシルティが屠って来たような、群れのリーダーたる巨大なオスと喧嘩して、勝てるようには到底思えなかった。
強いオスが率いる群れは、食料が多かったり、危険が少なかったり、居心地が良かったりと、より良い環境の縄張りを勝ち取れるだろう。
逆に、競争に負けた彼らの縄張りは……おそらく、蒼猩猩にとってより劣る環境なのではないか。
蒼猩猩は森の深い場所に住む。
であれば、彼らにとって劣悪な環境とは、森の浅い位置のはずだ。
「……もうすぐ森を抜けられるかも。多分、かなり浅い位置のはず」
実際はどうであれ、シルティは少しでも明るい展望を持つことを心がけた。
食料という問題点を解決できるのであれば、孤立無援のサバイバル環境下において最も重要なのは、自分を褒める事、そして自分の成果に心底酔えることである。
正直に言えば、シルティはその辺りの才能には自信があった。
自らの才能と性能と実績を過不足なく誇るのは戦士の資質だ。
たとえ一人きりだったとしても、どんな環境に取り残されたとしても、自分で自分を褒めながら余裕で生存できると、そう思っていた。
だが、今。
海上漂流期間を含めれば二か月を超える先行きの見えない遭難生活の末、その自信はすっかり消滅してしまっていた。
人里はおろか、人の痕跡すら、いまだ見つからない。
朝、目が覚めた時などに、心がはっきりと萎えているのがわかる。
食事を終えても、気力が湧かなくなってきている。
正直、かなり辛い。
シルティがめげずにいられるのは、
シルティはレヴィンを抱き締めた。
「きっともうすぐだよ。レヴィンもそう思うでしょ?」
ビャウゥンァ、と曖昧に鳴きながら、レヴィンは首を
レヴィンは本当に賢い。肯定では縦に振り、否定では横に振り、意味がわからなければ傾げる。頭部を使うジェスチャーを完璧に覚えてくれたおかげで、二人の意志疎通は随分とスムーズになってきた。
ちなみに、レヴィンが最も良く頷くのは、肉を前にシルティが塩入り小袋を取り出した瞬間である。
しかしながら残念なことに、もう塩の残量が心許ない。
この塩ラブな琥珀豹のために、またどこかで製塩する必要があるかもしれない。
「しっかし、すんごい血だねぇ……ちょっと勿体ない気がしてくるなー……」
一面が真っ赤だ。小柄な四匹だったとはいえ、いつもの数倍は血が流れている。比例して、撒き散らす臭気も強い。
早く離れた方がいいだろう。
「さて、レヴィン。行こっか」
ビャゥン。
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