第36話 夜襲



 シルティがこの地に漂着してから、四十八日目。

 角熊との殺し合いでの負傷は既に癒えている。

 爛れた肌や気道は、翌日の晩には綺麗に治った。

 爆破されて吹き飛んだ左手の小指と薬指は、断面を綺麗に整えておいたところ、さらに翌々日の晩に生えた。

 使い物にならなくなった左眼球は一旦刳り貫かなければならなかったが、今朝方にようやくしっかり見えるようになった。

 耳も聞こえる。万全の体調といってもいいだろう。

 それもこれも、角熊の巨大な死骸を骨や歯牙、体毛に至るまでほとんど全てを腹に収め、全力で生命力を補給した結果だ。申し訳ないが、今回ばかりはレヴィンの取り分は最低限しかなかった。


 ちなみに、生命力の作用による肉体の再生は、普通はその個体が自認する『健康な身体』を目指して再生されるため、髪の毛なども元通りになる。

 どんなものからでも生命力を存分に補給でき、負傷を極めて短期間で癒せるというのは、嚼人グラトンという魔物の非常に大きな強みだ。生存するという競技において嚼人グラトンの右に出るものはない。世界最強の竜種の皆様方でさえ、糧にできないものはあるのだから。

 なお、角熊の肉は強い旨味があり、意外なほど臭みなどもなく、非常に美味であった。毛は不味かったが。


 肉体は問題ない。

 問題となったのは鎧下。つまり、服だ。

 シルティは至近距離から気道が焼けてしまうほどの爆発を受けた。ただでさえ蒼猩猩あおショウジョウとの取っ組み合いでボロボロになった鎧下や肌着を、植物の糸で補修して使っていたのだ。

 強烈な爆発に耐えられるはずもなく、左半身を中心に大きく焼け落ちてしまった。

 残念ながら、いくら生命力を注ごうとも、ただの服は勝手にったりしない。


 比較的無事だったズボンの右裾みぎすそから端切れを作って縫い付けたり、柔らかい樹皮を切り取って縫い付けたり、シルティは大いに試行錯誤をして、お世辞にお世辞を重ねればギリギリで服と呼べるかもしれない程度に補修することに成功した。


「……いや、ひどいな、これ……」


 肌触りが劣悪である。胸の固定能力も低すぎる。

 自他ともに認める鮮烈なファッションに身を包むことになってしまったシルティは、自分の恰好を極力無視することにした。

 今日も今日とてレヴィンを先行させ、海岸線に沿って森の中をゆく。





 夜。

 浅い眠りで身体を休めていたシルティが、パチリと目を開いた。

 かすかだが、獣臭がする。シルティ自身や、レヴィンの臭いではない。


「レヴィン、起きて」


 短く鋭く声をかけ、レヴィンを起こす。ただならぬ雰囲気を察したのか、目を覚ましたレヴィンは寝惚けることもなく速やかにシルティに寄り添った。

 シルティはレヴィンの脇腹を撫でてやりながら、周囲の気配を探る。


 鼻を働かせる。極めて薄いが、やはり確かに獣の臭いがある。陸風の時間帯。風上はシルティたちの進行方向に対し右手の方向。

 耳を澄ます。夜の虫の鳴き声に混ざる葉擦れの音を聞き分ける。幹や枝に力を加えられた木が揺らす葉擦れの音と、風による葉擦れの音は、良く聞けば全く違う。

 目を凝らす。すでに日が沈んで長い。一寸先すら闇だ。膨大な生命力をぶち込んで、眼球を無理矢理活性化させながら、動くものを必死に探る。

 そして、説明も証明も言語化もできない、だがシルティが最も信頼を置く、超常の第六感。

 シルティの全ての感覚に引っかかる気配が、薄くて、広い。方角が絞れない。うなじの辺りがぞわぞわする。


(多分これ、群れかな。しかも、もう私をしっかり見つけてる。そんな気がする)


 まだ相手の姿も位置も確認できないが、シルティは自らに注がれる複数の視線ははっきりと感じていた。

 数は定かではない。だが、一匹二匹ではない。もう囲まれているような気がする。


(んー……)


 対多数の戦いはシルティの大好物だ。

 幼い頃のシルティは、故郷の近くに生息していた渡狼わたりオオカミという魔物の群れにちょっかいを出し、集団で襲ってきたのをひたすらに捌き続けるのがお気に入りの遊びであった。

 普通ならば避けられないようなタイミングの連携を、自らの脳と眼球の性能を振り絞って漏れなく把握し、動きのキレと判断の冴えに任せて無理矢理切り抜けることに、シルティは脳髄がとろけそうになるほどの快感を覚えるのだ。


 だが、その快感を掻き消して有り余るほどに。

 シルティは、暗所での戦いが嫌いであった。

 そりゃあもう、大っ嫌いであった。


 生命力の作用で多少は改善できるとはいえ、嚼人グラトンという魔物の眼球はそもそも闇を見通すようには作られていない。シルティがどれだけ生命力を注ぎ込んで眼球性能を振り絞っても、闇夜の中で得られる明瞭な視程はせいぜい五、六歩ほどしかないだろう。

 自らの眼球と反射神経の素晴らしさも見せつけたいシルティにとって、見えない戦いというのはとてもつまらないのだ。


「よし、逃げよっと。レヴィン、大人しくしててね」


 レヴィンが返事をしたのを確認してから、シルティは背負い籠にレヴィンを収納した。今日は肉の在庫もないので、レヴィンを収めるのは容易い。

 しっかりと籠を背負い、一目散に駆け出す。

 普段は殺している足音も、今は気にする必要はない。包囲網が狭まる前に、進路上の個体密度が高まる前に、さっさと押し通ってしまいたい。闇の中、地面を遠慮なく蹴りつけ、障害物だらけの森を矢のように奔る。

 途端に、周囲の雰囲気が変わった。どういうわけか、敵はシルティが走り出したのをほとんど遅延なく察知したらしい。

 葉擦れと足音が重なった騒音が、背後から猛然と追いかけてくる。

 いや、背後からだけではない。進行方向からも、音が聞こえる。

 シルティの視界に、こちらへ向かってくる三つの黒い影が薄っすらと映った。


(んんっ? なにあれ)


 まだその姿は定かではない。だが、それぞれの頭部らしき位置に、赤い点が二つ並んでいるのが見えた。

 位置からして眼球だろうか。光を反射しているのではなく、完全に発光しているようだ。

 詳細は不明だが……おかげで、おおよその位置がわかる。


(ふふっ)


 シルティはにやりと口元を緩めた。

 おおよそでも相手が見えるのならば、シルティは自分の性能を振り絞ることができる。

 たった三匹の網など、掠らせもせずに擦り抜けてみせると、シルティの中の蛮族が大いにたけった。


 一段減速しつつ、素足で地面を刻む。右、左、直進、右、沈身を挟み、また右へ。慣性を無視しているかのように進行方向がと切り替わる。そのくせ、速度自体はほとんど変わらない。不慣れな者が同様の動きを強いられたら足首を捻転骨折してしまいそうな、観測者に生理的嫌悪感すら与えかねない奇怪な足運びだ。

 背負い籠の中で、振り回されたレヴィンが呻き声を上げる。

 野生界ではまず目にしないであろう不気味な動きに困惑したのか、襲撃者たちの連携が僅かに乱れた。


(んひひっ)


 シルティはにんまりと口元を緩めた。

 想定通りだ。見逃さない。全力で加速する。

 著しい緩急差が襲撃者たちの猶予を根こそぎ奪い取った。

 シルティは包囲網に生じたほころびを瞬時に貫通し、襲撃者たちと拳一つ分の距離で擦れ違う。


(おおっ、オオカミだっ!)


 ここまで接近すれば、シルティは暗闇の中でも相手の姿を観察することができた。

 すらりと長い四肢。スマートながら大きな身体。しゅっとした口吻マズル。暗闇の中ではさすがに毛の色まではわからない。二つの赤い点はやはり眼球のようだ。超常的に、真っ赤に、発光している。

 目が赤く光るなどという特徴を持つ狼は、シルティの知識には存在しない。

 だが、とりあえず。


(超かっこいい!)


 身体がでっかくて、四肢がすらりとしていて、口吻マズルが長い犬が特に好きなシルティである。

 この狼たちは、好みドンピシャの見た目であった。


(しっかし、狼かぁ……)


 包囲網をさらりと突破したシルティは、逃走を継続しつつ、横目で背後を窺う。

 擦れ違った三匹はすぐさま反転し、シルティを追跡し始めたようだ。速い。進行方向の右側にもいくつか気配がある。

 このまま逃げ切れるだろうか。

 あるいは今が昼間であったなら、全力で走って追跡をぶっちぎるのも手だったかもしれない。シルティは障害物走では無類の強さを発揮する。森の中、草木を避けながらの競争ならば、そんじょそこらの相手に負けるつもりはなかった。

 だが、今は夜間だ。日中の視界とは比べ物にならない。どうしても速度は落ちる。

 果たして追跡をちぎれるほどの速度差を得られるかどうか。


(どうしよっかな)


 シルティは知っている。狼や犬のたぐいの持つ持久力は半端なものではない。それが生命力に溢れる魔物ともなれば尚更である。

 瞬発力には大いに自信のあるシルティだが、持久力は人に誇れるほどではなかった。かつて海上を泳ぎながら長期間に亘り漂流できたのは、船の残骸という浮きに身体を預け、好きな時に好きなだけ休息を挟めたからである。

 余裕ぶっこいて全力で走ったのに狼たちを振り切れなかった、という状況になってしまうのが最悪だ。まず助からない。

 シルティは足を止めずに、ちらりと、周囲に立ち並ぶ巨木の数々を見る。

 この辺りの木は背が高く、密度も高い。


(よし、登ろ)


 シルティは即断した。

 勢いをつけ、一本の木に向かって跳躍する。着幹着地の直前、シルティは〈紫月〉を振るった。水平左から右、そして逆水平右から左。絶妙な角度を付けられて瞬時に往復する刃が、幹の表面をくさび状にぎ飛ばす。

 それを文字通りの足掛かりとして、さらに上方へ跳躍。跳躍先でも同様に足掛かりを作る。シルティは立ち並ぶ木々の間を縫うように往復し、またたく間に駆け昇っていった。

 充分に高さを稼いだら、太く安定した枝の上に乗り、即座に地表を眼下に見る。


 足場とする枝の下には、深さも知れない暗闇が湛えられているようにしか見えない。だが、その暗闇の中に浮かぶ、いくつもの赤い光。

 超常的に発光する、狼たちの真っ赤な目だ。

 シルティが見ている間にも、赤い光点は続々と増えていく。包囲網を築いていた個体たちが刻一刻と合流しているのだろう。


(おぁー、すごい数だ……。一、二、三、四……あ、また増えた)


 しばらく観察していると、光点が二十六個を数えてから増えなくなった。群れの構成員が全てここに集合したらしい。二十六個、十三対の赤い光。つまり、この狼たちは十三匹にもなる大規模な群れを作っていたことになる。

 逃走を選んで正解だった。とてもではないが、レヴィン入りの籠を背負ったまま相手取れる数ではない。

 赤い光点の群れは、シルティの眼下をうろうろと動き回っている。もし枝から落ちてしまえば即座に殺到し、骨も残さず貪られるだろう。前肢で幹を掻いているのだろうか、時たまガリガリという音も聞こえてくる。

 だが、彼我の距離は決して縮まらない。


(やっぱり、登れないっぽいな)


 シルティはほっと安堵の息を吐いた。

 狼や犬のたぐいの前肢は、猫の類のそれよりも走行に特化した作りをしている。前肢を前後に動かすことは大得意だが、左右に広げることはほとんどできないし、肘や手首を回すこともできない。物を上から押さえ込むことはできても、なにかを抱え込むような動きはできず、言ってしまえば不器用である。

 また、常に露出している鉤爪は地面と触れ合って摩耗が進むため先端が鈍くなり、対象に深く食い込ませるということも不得意だ。


 要するに、狼や犬の仲間は基本的に木登りが下手なのである。

 低い位置に都合のいい枝がいくつも伸びているならともかく、樹幹を身一つでよじ登るようなことは難しい。それを考慮し、シルティは逃げ場に木を選んだのだ。

 予想通り、眼下の狼たちも例に漏れず木登りは不得意なようである。今のところはシルティを見逃す気は無さそうだが、打つ手も無いようだった。

 警戒しながらしばらく観察していたが、赤い光点は小さく唸りながらうろうろするばかり。

 確定ではないが、遠距離から攻撃が可能な魔法は宿していない可能性が高い。

 場は膠着している。


 ちらりと背を窺うと、背負い籠の中でレヴィンがひっくり返り、失神していた。

 常軌を逸した急制動の連続により、籠の中で激しくシェイクされ、敢え無く轟沈したらしい。


「あー、ちょっとキツかったか……。ごめんね、レヴィン」


 謝罪をしながら、シルティはレヴィンの口元を確認した。

 嘔吐はなく、呼吸も正常だ。すぐに目を覚ますだろう。


(んー。しょうがない。待とう)


 シルティは狼たちが諦めるまで待つという持久戦を選択した。

 シルティが先に飢えることはない。木の葉でも樹皮でも、手の届く範囲から適当に採取すればいい。

 レヴィンが飢えることもない。シルティの肉を削ぎ取って与えればいい。

 だが、狼たちはそうもいかないはずだ。シルティたちを食えないとなれば、いずれは他の獲物を求めて去るだろう。

 どれほどの時間がかかるかわからないというのが難点だが、シルティは眼下の狼たちが自分たちに強く固執するとは思っていなかった。なぜなら、十三匹もの群れの腹を満たすのに、シルティとレヴィンでは肉の量が少なすぎるからだ。

 魔物は総じて賢いが、狼や犬の魔物は特に賢い。獲物の狩り易さや大きさを正しく認識し、労力と得られる肉を天秤にかける判断力を持つ。

 小賢しくも木に登って逃げるような獲物には執着せず、もっと簡単に狩れる獲物やもっと大きな獲物を探しに行くだろう。


(とりあえず、明るくなるまではこのままかな)


 シルティはレヴィン入りの籠を背負ったまま、眼下を警戒しつつ不眠で夜明けを待つことにした。

 夜明けまでに狼たちが去ってくれれば最上の結果だが、去らなかったとしても、明るくなれば移動は再開できるだろう。

 幸い、この森では空中の足場には困らない。シルティの瞬発力ならば、枝から枝へ跳び移り、地面に下りずに移動することも難しいことではなかった。


 と、そこで、レヴィンが弱々しく唸り声を上げる。

 気絶から復帰したようだ。


「あ、起きた? ごめん、急にぴょんぴょん跳んだから、びっくりさせたよね」


 肩越しに、背負い籠の中のレヴィンに声をかける。


「まだ危ないから、もうちょっとそこにいてね。寝てても良いよ」


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