第34話 欠損



 シルティがこの地に漂着してから、四十四日目。

 蒼猩猩お肉を求めて森の中へ踏み込んだシルティとレヴィンの前に、見慣れぬ動物が姿を現した。

 レヴィンを地面に低く伏せさせ、シルティ自身は木の陰に身を隠しながら、遭遇した動物の姿を確認する。


 全身が黒い体毛で覆われた四肢動物だ。どうやら食事中のようで、地面に顔を近づけて一心不乱にモグモグとやっている。何を食べているのかはよく見えない。

 かなりの巨体で、肩甲骨がこぶのように盛り上がっていた。

 続いて目を引くのは、空恐ろしさを感じるほど巨大な丸い頭部。そして、その頭頂部と後頭部からそれぞれ一対、湾曲しながら前方へ伸びる、四本の角だ。羊や山羊のような渦巻き状、色は銀色で金属光沢がある。木漏れ日の中で光り輝いていて、とても綺麗だった。


 四肢は少し短めだが素晴らしく逞しい。筋骨隆々という表現がとてもよく似合う肉体だ。特徴的なのは、後肢のかかとがしっかりと地面についていること。

 人類種や猿のような蹠行せきこう動物のようだ。

 おそらく、後肢だけで立ち上がったり、前肢を器用に動かすのが得意なはず。


 姿形を表現するならば、それは四本の巻き角が生えた巨大な熊のように見えた。

 これもまた、シルティの知識にはない動物である。


(……多分、真っ直ぐ立ったら、蒼猩猩よりでっかいな、あれ……)


 立ち上がれば、上背はシルティの倍を超えそうだ。とてもではないが、筋力では敵わない。


(……行くか。いや。さすがに危ないか。……いや。強そうだ。行こう!)


 シルティは前のめりになりつつ、これを狩ることに決めた。

 先日、鱗猪と殺し合ったのがとても楽しかったので、ついつい好戦的な判断を下してしまう。

 あまり正しいとは言えない判断だという自覚はあったが、本当にもう、全く、抗いがたい。

 普段は冷静に思慮深くあろうと(本人なりに精いっぱい)心がけているシルティであるが、やはりひと皮剥ければ蛮族の道徳が顔を出してしまうのだ。


(あの見るからに堅そうな角、ぶった斬ったら、気持ちよさそう……)


 それから、先日の鱗猪ではあまり〈紫月〉の切れ味を試せなかったので、そういう意味では欲求不満に終わっていたという点も、現在の好戦的蛮族的な思考に大きく影響しているだろう。

 鱗猪が精密に操る二十枚強の飛鱗を回避して懐まで潜り込むのは、とても楽しい時間だった。情報過多の世界で自らと敵を把握し、致命傷だけを避け、全身のあらゆる場所を浅く進む。

 予定通りの痛みは気持ちがいいのだ。

 眼球に垂れた己の血で真っ赤に染まった視界が、シルティの蛮性をくすぐって愛撫する。

 赤く染まった視界をさらに赤く塗り潰せるのは、渇望した獲物の血だけ。

 本当に、本当に、楽しかった。


 だが。

 潜り込んでいざぶった斬るという段階では、鱗猪の背筋の鱗は全て射出されていた。

 つまり、とても柔らかかった。

 あれでは一本目の木刀でも結果は変わらなかっただろう。〈紫月〉的には、やはり消化不良は否めない。


 ちなみに、鱗猪の肉は羚羊の肉の次くらいに美味であった。


「レヴィン。あいつを狩るよ」


 ビャゥン。レヴィンが小さく返事をした。



 ひゅっ。

 シルティの投擲した飛礫つぶてが空気を貫く。

 狙い通り、角熊つのグマの後方に立つ木の幹に命中し、甲高い音を響かせた。

 ビクリと身体を強張らせた角熊が、食事を中断して音源の方向へ振り返る。

 その瞬間、シルティは身を隠していた木の陰から跳び出した。


 〈紫月〉を右肩に担ぎ、地を這うような前傾姿勢で、瞬時に肉薄。狙うは首だ。立てば見上げるような巨体も、四つ足の今ならば、存分に体重を乗せた一刀で狙える。

 問題は、角熊の頭部から生える四本の渦巻き角。まるで首まで覆う兜のように頭部を守っている。残念ながら角度が悪い。ただ真っ直ぐ振るうだけでは、角に阻まれ、首の肉まで届かない。


 シルティの目が、反骨に燃え上がった。


(角ごといくッ!)


 絶好の位置で、身体を瞬時に停止させる。

 生み出した制動エネルギーを束ねて太刀に乗せ、渾身の袈裟斬りを放った。


 シルティの主観から、音と色が消えた。




「がハッ!」


 全身を貫く衝撃に、暗転していたシルティの意識が覚醒する。

 いつの間にか、シルティは木の根元に右半身を預けるような形で倒れ伏していた。


「ぐッ……ふ、ぁ……」


 明滅する視界の中、思考を走らせる。

 袈裟切りを放った。そこまではしっかりと覚えている。

 だが、その直後に視界が白く染まり、音が消えて、気付けば倒れていた。

 何が起きたのか、全くわからない。

 わからないが、今はそれどころではない。

 惚けていたら、死ぬ。


 息を吸う。

 跳ね起きる。

 ふらつく。

 空気を貪る。

 喉が痛い。耳鳴りがする。

 体勢を整えつつ、敵の姿を探す。

 やけに視界が狭い。だがすぐに見つかった。角熊の姿勢は、記憶に残る姿からほとんど変わっていない。意識が飛んでいたのは極僅かな時間のようだ。

 ただ、四本ある頭部の角に明確な差異が見られる。

 美しい銀光を示していた角が、今は醜く黒ずんでいた。

 黒ずんだ角を振り回しながら、角熊が咆哮を上げる。おかげでわかった。左耳が死んでいる。右耳しか聞こえていない。

 シルティは構えた〈紫月〉の切っ先と視線を角熊から外さずに、呼吸を整えながら自分の肉体を検めた。


 右側頭部、右肩、右のあばら、右腰に、ズキズキという鈍い痛みがある。先ほどまで身を預けていた木に身体ごと強く打ち付けられたのだろう。とはいえ、シルティにとってただの打撲など日常茶飯事。動きに支障はない。〈紫月〉も無事だ。手の内にある。

 しかし、左半身の負傷は少々問題だった。

 左の小指と薬指は完全に千切れて行方不明。中指も大きく抉れている。人差し指は形は残っているが、まともには動かせない。

 左半身が全体的に熱くて痛くて引き攣る。皮膚が焼け爛れている感覚がする。視野が狭いと思っていたら、どうやら左目がほとんど見えていないようだ。皮膚と同様、眼球も焼けているのかもしれない。

 呼吸する度に、喉から胸が痛む。気道の中まで火傷が及んでいるようだ。鼻を働かせると、凄まじく焦臭い。空気中の塵が燃えたのか、それとも鼻腔が焼けているのか。いや、両方か。

 諸々の情報から、シルティは自分を襲った現象に目星を付けた。


(爆発の魔法かな? すんごい威力だ)


 斬りかかったシルティの至近で、衝撃と熱を伴う爆発が起き、敢え無く吹き飛ばされて木に叩き付けられたのだろう、とシルティは推測する。

 シルティは爆発を生じさせる魔法をいくつか知っていた。最も有名なものは、竜の中でも特にと知られる冠竜コロノスがその身に宿す魔法、『睥睨爆破へいげいばくは』だ。両目で注視した座標を問答無用で即時爆破するという凶悪極まりない魔法であり、射程距離は視程距離に等しく、威力も想像を絶する。

 つまり、冠竜コロノスは敵を目視すればほぼ殺せるのである。


 この角熊が身に宿す魔法に関して言えば、『睥睨爆破』ほど理不尽ではないにせよ、少なくとも威力はそれなりらしい。とてもではないが、皮膚で耐えられる威力ではなさそうだ。

 同じものをまともに受け続ければ、おそらく四か五度目ぐらいで動けなくなってそのまま死ぬだろう。

 シルティは笑った。

 戦いはこうでなくてはならない。


(ていうか、今のは完全に不意打ち入ってたでしょぉ……!)


 シルティには、角熊の意識外から強襲を成功させたという確信があった。

 だが、現実に手痛い反撃を喰らっている。

 角熊の方が一枚上手うわてで、シルティの存在を把握されていたのか、あるいは。


(多分、かな。珍しい。なんて魔物なんだろ)


 蒼猩猩あおショウジョウの『停留領域』然り、琥珀豹こはくヒョウの『珀晶生成』然り、炉蜻蛉ろトンボの『囮火』然り、ほとんどの魔法は意志的に行使されるものだ。明確な行使の意志を込めた生命力がほとばしり、肉体を巡ることで魔法が発現される。

 しかし、一部の魔物が宿す魔法は違った。非常にがいいのだ。生きていれば自然と肉体を巡る程度の、ごく微量な生命力を糧にして、魔法が常に準備された状態になるらしい。

 無意識に使える。言い換えれば、意識的に使わないということができない。

 こういった形態の魔法を、俗に『恒常魔法』と呼んだ。

 何を隠そう、嚼人グラトンの魔法『完全摂食』もこれに含まれる。


(んふふふふ……どうやったら、あれ、斬れるかなぁ……)


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