第27話 羚羊



「おはよう、レヴィン」


 いつもよりかなり遅い時間に、レヴィンは目を覚ました。

 いつもより盛大に欠伸をして、いつもより入念に身体を伸ばす。

 昨晩は初めて見る火に夢中になって随分と夜更かしをしたからか、まだまだ寝足りないらしい。

 シルティは苦笑しながら、朝食の準備を始めた。


 早速、作成したまな板の出番である。まな板があるのとないのとでは作業性の良さが全く違う。もうまな板なしの生活には戻れない。シルティは非常に気分よく蒼猩猩の肉を刻んだ。

 カリリ、カリリ、カリリ。

 鎌型ナイフ〈玄耀〉の切っ先が、まな板をリズムよく引っ掻く音に合わせ、レヴィンの耳介がぴくぴくと動いている。ごるるる、と喉も鳴り始めた。焚き火の音を聞いているときと同じで、なにやらご機嫌な様子だ。

 初めて聞く音のはずだが、これが調理をしている音だとわかるのだろうか。


 刻んだ肉と磨り潰した肉を三対七で皿に盛り、血を混ぜ、レヴィンの前に置く。せっかく作ったので、塩も少しだけ振った。

 レヴィンは大口を開け、夢中になって貪っていく。実に美味しそうだ。

 その様子を眺めながら、シルティは適当に千切って集めた植物の葉を真水で洗い、木椀に盛り、塩を振りかけ、口へ運ぶ。


「……おっ? これ美味しいな」


 濡れた表面に塩粒が溶けて味の付いた葉は、予想より遥かに美味しかった。やや肉厚の瑞々しい葉に、塩気が絶妙に合っている。辛みや渋みもなく、素直な美味しさ。鼻を抜けるのは、清涼感を感じさせる爽やかな風味。

 この地に漂着してから美味しい葉を食べたのは、これで二度目だ。もくもくと食べ進める。

 ちなみに一度目は、一匹目の蒼猩猩を殺した直後につまんだ葉だ。ピリ辛で美味しかった。


 基本的に、植物の葉というのは不味いものだ。生で食べて美味しい果実は数あれど、生で食べて美味しい葉というのは、実のところ本当に僅かしかない。

 これは、植物にとって果実は『食べさせたいもの』であり、葉は『食べられたくないもの』であるからだといわれている。

 種子の散布などの目的を担う果実の類は、より多くを動物に食べてもらうために、甘く、栄養豊富で、消化しやすい、といった食物として好ましい特徴を備えることが多い。一方で葉はどうかと言うと、食べられることで植物が受ける利点はなにひとつない。むしろ食われれば死に近づく。

 ゆえに植物の葉は、苦かったり、渋かったり、辛かったり、あるいは毒を持っていたり……要するに不味い特徴を備えていることが多いのだ。構造も物理的に強く、草食動物のように長い胃腸を持たなければ、ろくに消化もできない。

 だからこそ、生でも美味しく食べられる柔らかな葉菜ようさいの類は、広く栽培するだけの価値があるのである。

 まあ、シルティは肉の方が好きだが。


「そう言えば、レヴィンは猫草ねこぐさとか食べるのかな?」


 問いかけつつ、シルティはレヴィンの背中を撫でた。

 猫は肉食動物だが、草の葉を食べることもある。イネ小麦コムギのような、細長く先が尖った形状の葉を口にすることが多いようだ。これら猫が好んで食べる植物を人類種では俗に猫草と呼び、シルティの故郷の猫たちはもっぱら燕麦エンバクの柔らかい若葉を食べていた。

 無論、食べない猫もいる。猫草を食べたあとの猫は大抵毛玉を吐き出すので、食事というよりは薬のような感覚で口にしているのかもしれない。


 と、その時。


(んっ?)


 シルティは、なんらかの存在がこちらへ近づいて来る気配を察知した。

 かなり速い。

 シルティは速やかにレヴィンを抱き上げ、湧水の中へ身を伏せた。この入り江の湧水は、浜の砂を削りながら溝のような川を形成している。

 深さはシルロンの膝上ぐらいだが、しっかり伏せれば身体を隠すのに問題は無い。


 身を隠して間もなく、一匹の動物が入り江に侵入してきた。

 急に抱き上げられ、食事を無理に中断させられたというのに、レヴィンは全く暴れたりせずシルティの腕の中で大人しく抱かれている。その山吹色の瞳に動揺の気配はなく、侵入者を冷静に見つめていた。


「いいこだね、レヴィン」


 シルティが囁くように呼びかける。レヴィンが腕の中からシルティを見上げた。レヴィンはもう『レヴィン』という音が自分を指しているのだとはっきり理解しているようで、呼びかければしっかりと反応を返すようになっている。

 レヴィンの頭を撫でながら、シルティは目を凝らす。


(んんん……。鹿シカ? いや、あんまり鹿っぽくない?)


 シルティの視線の先に、一匹の動物がいた。

 小柄な四肢動物だ。

 頭から長い一対の角が生えていて、一見すると鹿シカの仲間のように見えるが、その角は枝分かれしていなかった。羚羊レイヨウの仲間だろうか。

 体高(肩の高さ)は地面からシルティのへそほど。細身で四肢が長く、見るからに俊敏そうな身体つき。体毛は褐色だが、腹部や臀部は乳白色。

 角は非常に直線的に伸びているが、地を這う蛇のように規則的に大きく波打っていて、まるで頭から二本のフランベルジュが生えているかのような姿だ。


 シルティがサウレド大陸に来る前に仕入れた情報の中に、あの姿が該当する魔物はいなかった。あれだけ特徴的な角だから、誤認するということはないだろう。だが、それはこの羚羊が魔物ではないという保証にはならない。

 シルティは至近距離であれば、なんとなく雰囲気で発せられる生命力から相手が魔物かどうかを多少は推定できるが、今の彼我ひがの距離は三十歩ほど。この距離では不可能だ。

 出会う動物は全て魔物である、と考えて動く方が良いだろう。


 羚羊はきょろきょろと周囲を警戒しながら、シルティが隠れたものとは別の湧水に近寄っていく。水を飲みに来たらしい。これだけ環境のいい入り江だから、動物たちにとっても良い水場になるのだろう。

 シルティたちには、まだ気付いていないようだ。


「レヴィン、あいつを狩るよ。そのまま、静かにね」


 シルティはレヴィンの背中に手を当てながら囁いた。

 魔物かもしれない未知の相手。当然、危険もある。シルティが一人ならば狩ることなど考えず、大人しくやり過ごしていた。だが今は、レヴィンの食物を取らなければならない。狩りはいつでも成功するわけではないので、チャンスは逃がせなかった。森に踏み込めばすぐに蒼猩猩が襲ってくるとは思うのだが……明日からぱったりと襲って来なくなる可能性もゼロではないのだから。

 小柄で細身な羚羊は、仮に真正面から取っ組み合いをすることになっても、シルティならば制圧できそうだ。もちろん、どんな魔法を使ってくるかわからない以上は楽な相手と侮ることはできないが、獲物とするには比較的危険が少ないように思えた。


 抱きかかえていたレヴィンを湧水のほとりに降ろす。シルティはレヴィンの目を見つめながら、静かに、ゆっくりと、伏せるようにジェスチャーで指示する。

 レヴィンはぺたりと身を伏せた。

 文句なし、百点満点の行動だ。今すぐ撫で回して褒めちぎりたいところであるが、状況が状況であるので、それはあとにしておく。


「ここで、待ってて。ね?」


 ジェスチャーではない、口頭での指示だが、レヴィンは不思議と正確に理解できたらしい。

 シルティが砂浜の川の流れに沿ってその場から離れても、ジッと身を潜めたままでいる。

 人類言語の習得はまだまだのはずだが、狩りに関する内容に限っては、妙に察しが良い。

 これも琥珀豹の本能が為せる御業なのだろうか、などと考えながら、シルティは羚羊の様子を窺う。


 羚羊は頭を下げ、ぐびぐびと水を飲んでいた。顔の側面に備えられた眼球が絶え間なく動いている。長方形の瞳孔。見るからに視野が広そうだ。隠れる場所もない。これ以上近づくのは難しいだろう。


 シルティは接近する途中で拾った石を右手に持ち、上半身のバネのみで天へ向けて鋭く投擲した。

 鉛直に近い角度に放たれた小さな飛礫つぶては空高く放物線を描き、羚羊の遥か頭上を悠々と超え、落下。落下点にあった木の枝葉に衝突し、甲高い音を鳴り響かせる。

 その瞬間、羚羊は即座に逃走を開始した。

 音源を確認することもなく、森へ逃げ込むのでもなく、ただひたすら、音から遠ざかるように。

 つまり、シルティが潜んだ方向へ。


(おっ、ラッキー)


 巧く行くかは半々だったが、こちらへ誘い込めたようだ。

 シルティはタイミングを見計らい、潜んでいた川から跳び出した。シルティの馬鹿げた瞬発力は、対面した状態から蒼猩猩あおショウジョウの反応を置き去りにするほどのものだ。柔らかい砂地であってもそれは色褪せない。またたき一つの間に羚羊へ肉薄する。

 だが、羚羊も凄まじい反応を見せた。シルティを認識した瞬間、ほとんど遅延なしでひづめが浜を強烈にえぐる。毛皮の上からでも、その大腿だいたいがボコリと隆起したのがわかった。強靭な四肢の筋力に任せ、まるで慣性を超越したかのように鋭角に方向を変え、逃走を継続する。

 驚愕的な反射神経と脚力だ。方向転換による減速は、ほとんどない。


 それでもなお。

 シルティから逃れるには足りない。


 蛮族の少女の動きは、四肢動物の敏捷性を遥かに凌駕した。

 たったの一歩で羚羊に追いつき、完全に捕捉。

 左足を残したまま右足を大きく前方へ踏み出し、前後に開脚しつつ身を沈める。


(よしッ)


 無防備に身体の側面を見せる羚羊の頸部へ向け。

 必殺を確信した渾身の唐竹割りを放った。


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