第26話 製塩
久々の火の感動から立ち直ったシルティは、竈の中へ火をそっと安置し、餌として薪を与え始める。
最初は細いものを。次第に太く。
僅かな時間で、小さかった火は無事に安定した焚き火へと育て上げられていた。ここまで育てば、もう鍋から少々の水が零れた程度では消えないだろう。作っておいた
火の
そして、
目が真円を描くほどに見開かれ、口がぽかんと半開きに、背中の毛が逆立つ。
おそらく
「すんごい顔してる」
シルティと焚き火に交互に視線を向けて、微妙にビクビクとしていたレヴィンだったが、
そろりそろりとシルティの横に寄り添うと、姿勢よく座り、警戒と興味が半々といった様子で焚き火を眺め始めた。尻尾はゆっくりと振られている。
「あんまり近付いちゃだめだよ?」
万が一、レヴィンが火に突っ込もうとしても阻止できるように意識を向けながら、焚き火を少し
焚き火から種火を取り、第二の焚き火を育て、二個目の鍋を火にかける。
それを繰り返し、全ての鍋に焚き火を割り振った。
八つの焚き火から白い煙が立ち登り、火光の範囲から逃れ、暗闇に溶けていく。
シルティは、焚き火という行為が好きだった。薪の水分が弾けるパチパチという破裂音が、実に心地いい。遠雷の音と同じで、聞いていると何故か不思議と落ち着く音色だ。眠気を誘われてしまう。
だが、残念ながら焚き火を放置して眠るわけにはいかない。
しばらく経ち、八つの鍋の中の海水が半量前後まで
レヴィンは、ゆらゆらと常に形を変える炎の動きが面白いのか、飽きもせずに焚き火を眺めていた。薪がパチッと音を鳴らすたびに、耳介がピクンと微動する。
ご、る、る、る、る。
名前の由来となった遠雷のような喉鳴らしまで披露しているところを見るに、とてもご機嫌らしい。
さらに煮詰めると、海水は再び嵩を減らし、鍋の底面には白い粒が生じ始める。
この白い物質は塩ではなく、海水に含まれる硫酸カルシウムが析出したもので、わかりやすく表現すれば石膏の主成分だ。
少しえぐみがあり、あまり美味しいものではないので、可能であれば取り除きたい。
シルティは布を用いて、これを
使う布は上の肌着だ。激しい
砂浜に沸いた真水で、ブラジャーを綺麗に洗う。肩紐を持ち、空になった鍋の上にフィルターとしてブラジャーのカップ部分を保持して、そこに煮えた海水を少しずつ慎重に注いでいく。白い泥状の石膏分がフィルターの上に残り、純度の高まった塩水が鍋に落ちる。湯気が立ち昇り、肩紐を持つ手が馬鹿みたいに熱かったが、気合いで無視した。多少の火傷などどうせすぐに治る。
そんな作業をするシルティを、レヴィンが興味深そうに眺めていた。
普段なら間違いなく熟睡している時間帯なのだが、今夜は未だ眠そうな様子はない。
うとうとすることもなく、夢中で焚き火を眺めている。
尻尾がリズムを刻むように、タシンタシンと砂浜を叩いていた。
火という現象が、よほど気に入ったらしい。
さらに煮詰めていくと、鍋の中身はすっかり白濁して、僅かにとろみが生まれ始める。
再び鍋から鍋へ中身を移し、四つの鍋を二つに減らす。
ここまで来ると、さすがにレヴィンも脱落していた。ぐっすりである。
木の枝を削って作ったヘラで緩く掻き混ぜながら、さらに煮詰めていく。
鍋の底には析出した塩の結晶が沈殿し、白い泥と化して、
樹皮の鍋を火から下ろし、四隅を留めているクリップのうちの二つを外して広げ、塩が流出しないように注意しながら煮汁のみをそっと捨てた。この煮汁は
(あー、久々に、豆腐とか食べたいなぁ……
ちなみに、シルティの故郷周辺では醤油や味噌の類は生産されていたが、豆腐は生産されていなかったため、シルティが豆腐を初めて食べたのは遍歴の旅に出てからだ。
食べる前はなんなんだこの訳のわからない柔い物体は、と思っていたものだが、食べてみたら最高に美味しかった。以来、豆腐料理はシルティの好物の一つである。
「んっ。美味しい」
雑味は残っているものの、しっかりとした塩だった。手間をかけたという贔屓目もあってか、とても美味だ。
もう少し水分を飛ばせば塩が完成する。火のそばに置いておき、乾燥させておく。
月の位置を確認し、時刻を概算する。今からでも睡眠は充分に取れるが、シルティは
万が一にでも樹皮鍋に火が移ってしまっては今日の苦労が水の泡だ。
それに、シルティより先にレヴィンが目覚め、塩を根こそぎ舐め取ってしまうのではないか、という心配があった。
シルティは眠っているレヴィンの背中を撫でる。
例えば
しかし、それにも限度というものはある。
実際、シルティがノスブラ大陸にいた頃に知り合ったルィンヘンという名の
いかにレヴィンが塩味を好むといっても、保護者として、節度ある食生活を送らせなければならない。
(ルィンヘンさんは満足そうだったけど、レヴィンにああなって欲しくはないからなぁ……)
◆
空がうっすらと明るくなってきた。もうしばらくすれば朝凪の時間帯に入るだろう。
焚き火はもうほとんど消えていたが、燃えさしが残っている。海風が吹き始める前に臭いの元を断っておかなければならない。シルティは空になっている樹脂鍋を使い、水を念入りにかける。
ジゥゥッと音を立てて、
湿った炭と灰を、シルティは悲しげに見つめる。
今回は好条件が揃ったため例外的に火を使ったが、今後はやはり、火を使うことは滅多にないだろう。名残惜しく思いつつ、砂をかけて埋めた。
火の近くで一晩過ごさせたことで、泥状だった塩は充分に乾燥し、鍋の底面に固着している。保存料としては全く足りないが、調味料としては充分だ。
シルティはそれを〈玄耀〉でカリカリと
この小袋は用済みになった鍋を再利用して作ったものだ。全部で五つある。樹皮を切って丸めて折り畳んで紐を巻き付けただけの雑な作りだが、塩の持ち運びには問題なく使えるだろう。木を削って形を整えた栓を詰め、封をして腰のベルトに括りつけておく。
せっかく背負い籠があるのだから財産を増やしてもいいだろうと、シルティは小袋以外にもいくつかの雑貨を作っていた。火の番をしなければならなかったので、暇潰しがてらだ。
まず、余った薪から樹皮を手当たり次第に剥がして細く裂き、繊維が丈夫そうなものを使って追加の紐を
それから、木の
最後に、小さなまな板だ。昨日初めてレヴィンに生肉を与えたが、肉を刻むのはまな板がないとやり難くて仕方がないということをシルティは実感していた。この際なので、太い枝を板状に整えて作っておく。
なお、ここでもシルティは植物の持つ毒に対する警戒心を綺麗さっぱり失くしていたが、幸いにもまな板の材料となった木にも琥珀豹の害になる成分は含まれていなかった。
一夜の成果を前に、シルティは手に握った〈玄耀〉をうっとりと眺め、愛おしそうに撫でてから、しみじみと呟く。
「きみがいてくれて本当に良かったよ……」
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