第24話 しょっぱい誘惑



「……塩とか、欲しいなぁ……」


 夕暮れ、入り江に腰を下ろし、海を眺めながら、シルティはしみじみと呟いた。

 今、シルティの中で、文明的な食事というものに対する欲求が激しく燃え上がっている。

 人生でも上位に来る不味い腐肉を口にしてしまった反動も大きいが、そもそも、美食は嚼人グラトンという魔物の血に刻まれた渇望と言っても過言ではないのだ。

 船が沈没してから数えればもう三十日以上、文明的な美味しい食事を摂っていない。

 シルティはそろそろ限界だった。


 せめて、塩。調味料として少々の塩くらい、持ち歩きたい。

 塩だけでもあれば、随分と違うはず。

 この入り江は驚くほど環境がいい。視界が開けているから注意さえしていれば奇襲される恐れも少ないし、塩水だけではなく真水まである。かつて干物の漬け汁を作った時のように、長い時間をかけて天日干しで海水から採塩すれば……いや。

 もういっそのこと、火を解禁するのも手かもしれない。


 海岸部では、昼間は海から陸に向かって風が吹き、夜間は陸から海に向かって風が吹く傾向がある。前者は海風かいふう、後者は陸風りくふうと呼ばれており、暑い季節ではより明瞭だ。

 原理としては陸地と海の比熱の差によるもので、太陽の照り付ける天気の良い日には一層顕著になる。どちらもさほど風速の大きいものではないが、風の切れ目が少なく、継続的に吹く。


 シルティはいつものように細かい原理については知らなかったが、沿岸部や河口部ではそういう傾向があるということを経験的に知っていた。

 シルティが火を使うのを避けていたのは、立ち昇る煙や火のにおいといったものが遠方からも察知されてしまうこと、そしてそれが獣たちを引き寄せる可能性がある、という理由からだ。

 火を使うのは夜間に限定すれば、立ち昇る煙は闇に紛れて遠方から見つかりにくいし、臭いは陸風に乗って海原へ流れていく、はず。

 海や空にも獣は棲んでいるが、陸地に比べれば密度は低い。呼び寄せるリスクを多少は低減できるだろう。

 きっと。

 おそらく。


 やるとなると、問題点はなにか。


 海水を煮詰めるためには大量のたきぎが必要になる。

 幸い周囲には流木、倒木、剥がれた樹皮や落ちた枝などが豊富にあり、燃料には困りそうにない。いざとなれば生木なまきでもいいのだ。生木は火着きこそ悪いが燃えないというわけではないから、手順さえ間違えなければ問題なく使える。まあ、煙と煤は酷いものだが。


 燃料はクリア。

 次は、海水を煮詰めるための鍋が必要だ。

 この状況で、すぐに調達できる鍋は、なにがあるか。まさか胸当てを火にかけるわけにはいかない。


 金属素材は無理とすると、パッと思い付くのはやはり土器だ。

 しかし、シルティに土器を焼いた経験はない。粘土を練って整形して乾燥させて焼く、程度の知識しかない。

 陶芸とは、人類種の歴史においても最古の科学技術の一つであり、連綿と受け継がれてきた知識と検証と経験の結晶だ。シルティは粘土の良し悪しどころか粘土がありそうな場所すらわからない。ここから試行錯誤して一から作り出すには、間違いなく膨大な時間がかかる。

 現実的ではない、とシルティは判断した。


 次に考えたのは、骨角器こっかくき

 例えば蒼猩猩を狩り、その頭蓋骨を水平に斬って脳を取り出せば、頭頂部側を鍋として使えるかもしれない。

 だが、一個や二個では容量が足りない。かと言って、数を揃えるのも大変だ。土器ほどではないにせよ、これもまた時間がかかりそうである。


 であれば、別の素材。

 例えば樹皮や木材のような可燃物で作られた鍋であっても、適度に薄肉うすにくであれば、直火にかけても燃えることなく水を煮ることが可能だということをシルティは知っていた。

 可燃物の鍋が燃えないためには水をしっかりとたたえている必要があるが、海水から塩を得る過程では水気が完全に飛ぶまで火にかけている必要はないので、可燃物の鍋などでも事足りるはずだ。

 海水を継ぎ足しながら煮詰めていけば、いずれ充分な水分を保ちながら塩が析出し始める。

 折を見て余分な煮汁を捨て、残った泥状の塩を乾燥させれば、鍋の底面に塩が固着するだろう。


 いける、とシルティは判断した。


「うん。塩を作ろう。作っちゃおう。火を使おう! レヴィンも塩味が好きみたいだし!」


 シルティはレヴィンを口実に、明日からの製塩を決意して、寝た。


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