第23話 離乳食



 背負い籠が完成した翌々日の、昼ごろ。

 シルティはこの地に漂着してから二つ目の川を発見した。

 〈玄耀げんよう〉を製作した一つ目の川に比べれば多少大きな川だが、シルティの感覚では小川と呼ぶべき、ささやかな流れ。

 大人数の暮らしを支えられるほどの流量はなさそうだ。

 とはいえ、この川の上流に人里がある可能性もゼロではない。例えば、この小川が、大きな川の主流から分かれた派川はせんであった場合などだ。

 念のために、シルティはこれを遡ることにした。


 が、努めてポジティブに考えたシルティの展望も虚しく、単なる小川であったらしい。半日ほどで源流に辿り着いてしまった。

 いや、源流というより、源泉と表現するのが正しいか。川を遡って辿り着いた先ではごく小さな泉が形成されていたのだ。

 ざっと見たところ、流入河川はない。流出河川は遡って来た小川のみ。

 どうやら、周囲に比べて一段低くなった窪地に水が湧き、泉を成しているらしい。澄み切った水が湛えられており、小魚が泳いでいる。泉の周辺にはいくつも足跡があった。

 獣たちの憩いの場になっているのかもしれない。


 ほう、と息が漏れてしまいそうな、神秘的な光景だ。

 ほう、と息が漏れてしまいそうな、神秘的な光景を前にして……シルティは、はあ、と大きな溜息を吐いた。

 神秘的なのはいいのだが、人里は見当たらない。


「この森、ちょっと川が少なすぎないかー? ……ほとんど、地下したを流れてるのかな」


 シルティは落胆しつつも、とりあえず全裸になって沐浴し、肌着と鎧下とレヴィンを洗って、食事を済ませてから、寝た。

 ちなみに、川を遡る途中で通算十匹目の蒼猩猩を返り討ちにしたので、メニューは新鮮な生肉である。





「おっ。砂浜だ」


 森の中の源泉を発見した日の、翌々々日。

 もうしばらくすれば日没といった頃合いに、シルティは砂浜を備えた大きな入り江に辿り着いていた。シルティが漂着したあの入り江に酷似した環境だが、より規模が大きく、かなり広い。


「んん? なんだろ、あれ」


 砂浜の数か所が、不自然に崩れて溝のようなものが出来ている。なんらかの動物の痕跡だろうか。

 不審に思ったシルティが崩れた地点の一つに慎重に近づいてみると、砂の崩れた溝の底を水がさらさらと流れていた。流水により、砂浜が深く侵食されているらしい。

 指先に付けて舐めてみる。

 海水ではない。冷たい真水だ。

 流れを遡って調べてみると、なんと砂浜の中程から直接水が湧いていた。


「なにこれ、すごい。砂浜に湧水がある。初めて見た。こんなのあるんだ……」


 シルティは砂浜に膝を突き、手のひらで器を作って湧水をがぶがぶと飲んだ。


「……ぷはあ、美味しい。……しっかし、湧水ばっかりで、大きな川には当たらないなぁ……」


 シルティが海岸線を辿り始めて十日ほどで、湧水を三か所も見つけた事になる。やはりこの地は地下水が豊富なのだろう。おそらく、帯水層があまり深くない位置にあり、崖や窪地、砂浜など、周囲よりも他より低くなった場所で容易に水が湧くのだ。反面、土壌の表層は水が染み込みやすく、川が形成されにくい土地なのかもしれない。

 おそらく、シルティが発見したもの以外にも、水が湧いている地点は無数に存在しているのだろう。場所によっては川も形成しているはずだ。だが、大部分は量が少なく、海へ流れ込むより早くまた地面へ染み込んでしまうのではないだろうか。

 海岸線に沿って川を探し、川を遡って人里を探す、という方針のままでいいのか。シルティは自信が持てなくなってきた。


「方針、変えるべきかな? レヴィン、きみ、どう思う?」


 シルティの横で、同じく湧水を舐めていたレヴィンから、ビァァーとの返事が返ってきた。

 無論、意味は分からない。


「……まぁ、今更変えてもしょうがないよね。とりあえず、ご飯にしよ、ご飯」


 シルティは背負い籠から蒼猩猩あおショウジョウの肉を取り出した。三日前に仕留めた通算十匹目の尾の肉だ。

 通気性の良い籠ゆえ、取り出す前からわかっていたことだが、えげつない腐敗臭を撒き散らしている。


「ううっ。もう、いっそ笑えるぐらい、すごいくさい……」


 今朝方はここまでではなかったのだが、日中で一気に腐敗が進んでしまったようで、とてもくさい。

 レヴィンを託されてから親豹と別れるまでの四日間を思い出す。

 あの時はここまでではなかったのだが、今回は随分と足が早い。昨日の昼、雨が降ったのがよくなかったのだろう。背負い籠に防水性などあるわけもなく、肉が水浸しになってしまった。


 シルティはげんなりとしながら、輪切りになった尾の肉の表面を厚くぎ取った。空気にさらされていた表面は黒褐色に変色し、ねばついており、食欲を見事に減衰させる見た目をしている。内側の、比較的新鮮な赤い肉がレヴィンの取り分だ。

 削ぎ取った表面は、ただ捨てるのも勿体ないので、シルティが消費している。

 今回も、削ぎ取った褐色の腐肉を自らの口に放り込んだ。


「お、ぶぐゥッ……」


 くっさい。

 舌に触れた瞬間、思わず乙女らしからぬ悲鳴を漏らしてしまうほど、くさい。

 蒼猩猩の肉は元々獣臭い肉ではあるが、獣臭と腐敗臭が混ざり合って、もはや暴力としか感じられない衝撃的な絶望においを撒き散らしていた。

 シルティは獣臭い肉は嫌いではないが、腐敗臭い肉は普通に嫌いである。

 さすがにこれを勿体ないとは思えない。躊躇なく、ベッと吐き出した。


(……人生のなかでもかなり上位に来る不味さだった……)


 シルティは今朝も蒼猩猩の肉の表面を削いで食べている。今朝の時点では、まぁギリギリなんとか飲み込めるか、という臭さだったのだが、今はもう食えたものではない。酷い変わりようである。

 これでは、内側もちょっと危なそうだ。

 シルティは肉塊の表層全面をさらに分厚く除去トリミングし、海へ投げ捨てた。残った中心部、鮮やかな赤い肉で流動食を作ろうと〈玄耀〉を構え、そこで、はたと動きを止めた。


「……というか、そろそろ、きみも乳離れの時期じゃない?」


 レヴィンの正確な年齢は不明だが、出会ってからもう半月以上が経過している。幼い時期において、栄養豊富な半月間がもたらしたものは想像以上に大きい。

 かつてはキトン・ブルーを示していた虹彩も、今では親豹とほぼ同じ山吹色に変わり、身体も随分と大きくなって、体表の黒い斑紋模様もくっきりとしてきた。

 歩く時も、かつてはフラフラというかプルプルというか、見ていてハラハラするほど頼りない足取りだったのだが、近頃は四肢でしっかりと地面を掴むようになり、全くよろけることなく駆けられるようになっている。

 これまでレヴィンが摂取してきたのは、念入りに念入りに磨り潰して作る、ほぼ液体と言えるような緩い流動食だ。

 もうそろそろ、液体を卒業し、小さな固形物を与えてもいいかもしれない。

 レヴィンの乳歯は既に生え揃っているので、噛むことはできるはず。


 シルティはトリミングした肉の八割ほどをいつものように磨り潰し、残りの二割ほどを大豆ぐらいの肉片に細断した。

 背負い籠から取り出した石皿に盛って、両者を混ぜ、さらに自らの生き血も混ぜて、レヴィンの目前に差し出す。

 もう三十回以上はこの石皿でレヴィンに流動食を与えているので、レヴィンもこの石皿が食事を乗せるものだということを理解しているようだ。最近では、シルティが石皿を背負い籠から取り出すと、三つ指座りエジプト座りで行儀よく待っているほどである。

 しかし、今日の食事は流動食いつもと見た目が明らかに違う。レヴィンは、石皿に視線を向け、シルティにちらりと視線を向け、再び石皿に視線を向け、再びシルティにちらりと視線を向け、ヴャゥンと鳴いた。

 シルティが思わず笑ってしまうぐらい、わかりやすく困惑している。


「レヴィン、良く見ててね」


 野生の肉食獣たちは、親が肉を食べているのを見て興味を覚え、その真似をすることで肉食を覚えるのが普通だ。

 シルティは石皿から流動食塗れの肉片を一つつまみ上げ、レヴィンに見せつけるように口へ放り込むと、ゆっくりと咀嚼し、わざとらしく喉を鳴らしながらゴクンと飲み込んだ。

 石皿を、さらにレヴィンの方へと差し出す。レヴィンは甲高くピャーと鳴いた。視線が肉とシルティを行ったり来たり。シルティの意図を察しつつも、最後の一歩を踏み切れないのが手に取るようにわかる。

 もうひと押しといったところか。


「美味しいよ?」


 実際、腐った外側は食えたものではなかったが、分厚くトリミングした内側の部分は腐敗がまだ及んでいない。相変わらず獣臭のキツい肉ではあるものの、シルティの感覚では普通に美味しいと言える肉だった。

 シルティは皿から肉片をもう一つつまんで、再び口へ運ぶ。むぐむぐと咀嚼し、飲み込んで、笑顔を浮かべる。さらにもう一つつまみ、指先に乗せ、レヴィンの口元へ近づけて、じっと待つ。

 レヴィンは差し出された肉の匂いを嗅ぎながら、かなり長いこと躊躇していたが、やがて恐る恐るといった様子で、シルティの指先の肉片にハグッと喰らい付く。

 そして、表情をころりと変えた。

 どうやら美味しかったらしい。

 一度でも食えると認識してしまえば、あとはもう食欲のまま。レヴィンは薄っぺらい舌を使って肉片を皿から口の中へ運び、はぐはぐと飲み込み始めた。


「よしよし。しっかり食べろー」


 予想以上に簡単に肉を食べてくれたので、シルティとしては一安心といったところだ。今後は流動食を作る量を随分と減らせるだろう。肉を液状化するまで磨り潰すのは、地味ながら結構な仕事だったのだ。

 今後はひと口大に刻んだ肉と流動食を混ぜて与え、様子を見ながら徐々に流動食の割合を減らしていく。そう遠からず流動食を完全に卒業できるはずだ。


 満腹になったレヴィンは、前肢を使って入念に顔を洗ったあと、胡坐あぐらをかいていたシルティの足によじ登り、頭突きをするように頭や耳の付け根を擦り付けてきた。

 撫でろ、と言いたいらしい。

 シルティはくすくすと笑いながら、レヴィンの後頭部や耳の後ろを右手で掻いてやる。

 するとレヴィンはシルティの指先を器用に前肢で捕獲し、自らの口元へ運んで甘噛みをし始めた。細く鋭い乳歯が、シルティの皮膚を柔らかく刺激する。こそばゆい。

 右手の自由を奪われたシルティは、左手を使い、薄い桃色の鼻鏡びきょうを親指の腹で優しくくすぐりつつ、鼻面に沿って額の方まで丁寧に撫でつける。

 ご、る、る、る、る。

 ご、る、る、る、る。

 繰り返される喉鳴らし。目は蕩けたように細められている。よっぽどご機嫌らしい。

 レヴィンはこの『鼻面撫で』が殊更に好きなのだと、シルティは最近気づいた。


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