第19話 研磨
入り江を再出発して、四日目の朝。
シルティがこの地に漂着してから十九日目。
喜ばしいことがあった。川が見つかったのだ。
だがシルティは、酷い徒労感を覚えずにはいられなかった。
入り江を再出発して四日目の朝ということは、川があったのは入り江から徒歩でたった三日と少しの距離である。
幼いレヴィンは食事も睡眠も頻繁に取らなければならない。食事はともかく睡眠は長い。どうしても歩みは遅くなる。
その、遅遅たるレヴィンの足に合わせながらで、三日と少しの距離。
つまり、シルティ単独で進んでいれば、一日とちょっとで到着していたであろう距離だ。
もちろん、最初から海岸線沿いルートを選んでいれば良かった、などとはシルティも思わない。漂着直後に海岸線沿いに進むことを選んでいた場合、親豹とシルティは森で出会うことなく、レヴィンは確実に死んでいただろう。今となっては想像もしたくない。悲しすぎる。
が、それはそれとして。
あれだけ探していた川がこんなに近くにあったと思うと、どうしても徒労感はあった。
水場を求めて森を彷徨ったのはなんだったのか。
心は理屈だけではないのである。
シルティは一度だけ溜息を吐き、気を取り直して川を眺めた。
川と言っても、儚いという表現が似合うとても小さなものだ。それが、切り立った海岸へ向かって流れており、か細い滝として海面へ滴り落ちている。
一応、分類としては
……考え
視線を上流に向けると、こちらもまた崖となっていた。高さはそこまでではないが、横に長い崖だ。切り立った海岸・現在地・崖、と綺麗な段差ができている。いわゆる断崖と呼ばれるような地形である。
小川の流れを辿って、断崖へ向かう。海岸から断崖までは、百歩ほどだろうか。
岩石質の崖だ。地層がくっきりと見える岩壁が、広い範囲に亘って濡れている。よくよく観察すると、シルティを縦に二つ並べたほどの高さにある、
指先に付け、舐めてみる。間違いなく真水だ。
おそらく、地下水脈がこの断崖によってばっさりと断たれているのだろう。
シルティは小さく溜息を吐いた。
真水を発見できたのは嬉しい。物凄く嬉しい。嬉しいのだが、そもそもシルティは河口部に港町があるのではないか、なくとも川の流れを遡上すれば人里を見つけられるのではないか、との考えで海岸線を辿っていたのだ。
見つかった河口は、細すぎる滝だった。港町などあるわけもない。
川の遡上は、もう完了した。ほんの百歩ばかり歩いただけで源流に辿り着いてしまう。
「うーん、ままならない……」
まだ時刻は朝だというのに、シルティは気力が急激に萎えてしまうのを自覚した。
が、萎えてばかりもいられない。ささやかとはいえ水場には違いないのだ。
シルティは腰に巻いていた干物の
ちなみに、巨鷲の腿肉は脂肪の少ない赤身で、とても強そうな味がした。つまり、硬くて臭かった。
汚れてもいいように革鎧と鎧下を脱ぎ、木刀を逆手に持って、小川へ入る。
水が冷たい。足が冷やされて非常に気持ちが良い。
レヴィンも、その後ろをぴったりと付いて来た。
巨鷲に襲われてからというもの、レヴィンはシルティからあまり離れようとしない。『食事を供給してくる無害な猿』から、『守ってくれる猿』くらいには、認識が格上げされたのかもしれない。
「よいしょっ、ほっ」
シルティは木刀の切っ先を使い、小川の流れの途中に穴を掘り始めた。やや岩石質で硬い地面を、筋力任せに粉砕。砕けた岩石の粒は掻き出して外へ捨てる。
この小川はあまりに流量が少ないため、シルティはおろかレヴィンの水浴びにすら碌に使えない。そこで、流れの最中に窪みを作り、溜め池にしようとしているのだ。
黙々と作業し、全身を汗と泥に
水が溜まれば、頭まで浸かる事はできなくとも身体を清めるぐらいはできるだろう。
ちょろちょろと、黒とも褐色ともいえるような酷い色の水が窪みに溜まって行く。掘ったばかりだから今は濁り切っているが、溜め池が満ちてしばらくすれば、泥が流れ出るなり沈殿するなりで、少なくとも上澄みは綺麗になるはずだ。
とはいえ、そもそもの湧出量が少ないため、水が綺麗になるまでかなりの時間がかかるだろう。今日はここで一夜を過ごすことになるかもしれない。
その間に、シルティはとある作業を行なうことにした。
干物の腰蓑を置いた位置まで戻り、結び目を一つ
それは、巨鷲の鉤爪だった。
肉を食べ終わった脚から、
猛禽の鉤爪は、基本的にこの後趾のものが最も長く、頑強だ。
色は、巨鷲の羽根と似たような赤みを帯びた艶のある黒。根本の直径は指三本ほど、長さはシルティの頭のてっぺんから顎先までとほぼ同じで、円錐状をしている。
緩く湾曲しているが曲率は小さく、かなり直線的なシルエットだ。
そして、重厚感を感じさせる見た目とは裏腹に、異常なほどに軽い。軽すぎてもはや不気味なほどだ。
試しに爪弾いてみると、非常に高い澄んだ音を響かせる。
どう見ても、その鉤爪は
(まさかこんなとこで『超常金属』が手に入るとはなぁ……びっくりだ)
魔法を存在の起源とし、かつ生命力を供給されずとも安定して存続することのできる金属を、人類種は総じて超常金属と呼んだ。
そして、
この四種類が、超常金属の中でも特に有名である。
なんという魔物なのかは不明だが、おそらくはあの巨鷲も魔法により体内で金属を生成し、鉤爪などに費やす生態をしていたのだろうとシルティは推測した。
思い返せば
全身をこの超常金属で
(すごいなこれ。軽すぎて羽根みたいだ。でも、結構硬そうな音がする……)
超常金属はどれも、鉄や銅などといった尋常の金属には見られない性質を備えることが多い。現在シルティの手にある赤みを帯びた黒い金属、これもまた、まるで綿毛のように感じるほどの異常な軽さを示していた。水にも余裕で浮くだろう。
なんにせよ、この状況で金属素材を入手できたのは僥倖である。
シルティは切実にナイフを欲していた。
大雑把な切断であれば木刀でもなんとかなるが、獲物の解体や下処理といった細かい手仕事には、やはり小回りの利く鋭いナイフが欲しい。
そこで、この巨鷲の鉤爪をなんとかして加工し、ナイフに仕立て上げようというのである。
元々、水場を見つけたらちょっと気合いを入れて石器のナイフでも作ろうと考えていたのだが、金属があるのならばこれを使わない手は無い。
(ここでは、ナイフとは
シルティは鋭い角を持つ石を使い、
趾の皮膚は非常に硬い鱗で覆われており、鉤爪とも強固に結合していた。鉤爪だけではなく、鱗も超常金属なのか。石が物理的に負けてしまう。
シルティは二本ある鉤爪同士をガリガリと擦り合わせることでどうにかこうにか鱗を
鉤爪の基部にある末端骨が、弧の内側に向かって大きく盛り上がっている。
(さて)
シルティの好みで言えば、
試しに握ってみる。鉤爪の直線的な形状が功を奏して、そのまま握ってもそこまで違和感はない。刃渡りは指三本分程度しか確保できないが、武器ではなく道具なのだからこれで充分だ。
ナイフの素材を確保したシルティは、次に断崖へ向かった。
断崖を観察する。改めて見ると、感動を覚えるほどに美しい地層だ。砂岩と泥岩の層が互い違いに積み上がっており、風化度合の差によって層ごとにくっきりと段を成している。こういった砂岩と泥岩の
シルティはそういった地質学の知識など持ち合わせておらず、
緻密な砂岩や泥岩は、
シルティは周辺を軽く歩き回り、適当な大きさの砂岩と泥岩を見繕うことにした。
一応は川の近くにあるというのに、周囲にある砂岩や泥岩はほとんど侵食されておらず、酷く角張っている。
好都合だ。
砂岩は、割となんでもいい。なるべく重く、できるだけ平面のあるものをいくつか選ぶ。
泥岩は、層理面(堆積面)に交わるような
シルティは、自分の頭部ほどの大きさの砂岩と粘板岩を二つずつ拾い上げ、溜め池の流入口あたりに座り込んだ。
まず、二つの砂岩同士を擦り合わせ、平面を作り出す。
ガリガリ、ザリザリ。徐々に引っかかりが失われ、動きが滑らかになっていく。
しばらく擦り合わせれば、材料が良かったのだろう、間に合わせで作ったにしては充分な品質の砥石が完成した。
「見て見てレヴィン。なかなか良い砥石でしょ?」
レヴィンは欠伸で返事を返してきた。
全く興味が無さそうである。
「もうちょっと興味示してもいいだろー? ナイフができたら、きみのご飯も作りやすくなるんだぞ?」
シルティは苦笑しながら、次の作業に取りかかった。
粘板岩も同様に擦り合わせて平面を出す。粘板岩は緻密で硬いが、前述の通り劈開性が非常に強いため、平面を出すのにさほど苦労はしない。
砂岩は
ようやく見つけた川が川とも呼べない規模なのは残念だったが、良質な砥石が得られる崖から水が湧いていたのは幸運だったといえるだろう。
「よし、やるかっ!」
シルティは改めて鉤爪を観察した。
猛禽の鉤爪は、例えば琥珀豹のような猫の仲間が持つ鉤爪とは少し特徴が異なる。
収納可能な猫類の鉤爪は、断面がかなり縦長で、弧の内側が明確に鋭くなっており、道具で言えば鎌に近い形状だ。
一方で、猛禽の鉤爪の断面は円形に近く、曲がった杭とでも表現すべき形状で、その代わりに長い。
この巨鷲の鉤爪も例に漏れず、ほぼ真円に近い断面を持ち、湾曲が浅く非常に直線的な形状だった。
これを使って、ナイフを作る。
「んふ……」
刃物の素材を前にして、
鉤爪を握るシルティの脳内に描かれたナイフは、湾曲した刀身の内側に刃が付けられたナイフだ。
いわゆる
あらゆる刃物という刃物を愛するシルティは、当然、この手の『鎌刀』も大好きだった。
一本ぐらいは手に入れたいと、常々思っていたのだ。
砂岩で作り上げた
気の遠くなる作業が始まった。
ナイフを含む刀剣を製作しようとするとき、棒材から研ぎ始めることなどありえない。鋳造や鍛造の行程である程度の刀身の形を作っておいて、それから研いで刃を付けるものだ。
だが、ここには、炉も鎚もない。
もう、ひたすら研いでいくしかなかった。
研ぐ。研ぐ。研ぐ。
暇を持て余したレヴィンがシルティの背中によじ登り始めても、その際に鉤爪が素肌に食い込んでも、相手をせずに研ぎ続ける。
時折、砥石に水を供給しながら、無心になって研ぎ続ける。
いつしか、シルティの口元には無自覚の笑みが浮かんでいた。
やはり、刃物は良いな、と思う。
故郷ではよくこうして刃物を研いでいたものだ。
久々の刃物の手入れは、とても楽しかった。
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