第17話 鉤爪



 翌朝。

 一夜干しを完成させたシルティは、予定通り、入り江から海岸線沿いに東へ向かって出発した。

 海岸線は起伏の激しい岩石海岸が延々と続いている。ところどころで海面に触れることのできる地点はあるものの、全体的に崖と呼ぶべき様相である。やはり干物を作っておいて良かったと思える光景だ。

 作成した干物は、えらに一本の長い紐を通した状態で腰にぐるぐると巻き付けてあり、まるで魚を材料にした腰蓑こしみののようである。世界でもなかなか類を見ない、鮮烈なファッションだと言えるだろう。

 一夜の間に非常に良く乾燥したようで、今のところ臭いはしないのだけが救いだ。


 レヴィンはシルティのすぐ前を歩いている。

 あっちに行くよ、と腕で示しながら伝えてみたところ、意外にも素直に従ったのだ。

 たまに振り返ってはシルティが付いて来ているのを確認しているあたり、シルティの意図をかなり正確に察しているらしい。


(うーん。なんか、思ってたより随分と賢いな、この子。助かる)


 シルティは大いに安堵した。

 レヴィンを抱きかかえていては咄嗟に木刀を振れないので、これは非常に助かる。

 本当ならばシルティが先行したいのだが、レヴィンを視界の外に出してしまうのはいろいろと怖い。

 蒼猩猩あおショウジョウのような隠密特化の相手でも、自分を直接襲ってくる相手ならば多少は察知できる自信と実績があるシルティだが、自分ではなく背後にいるレヴィンを襲うような相手を察知する自信は全くない。レヴィンを先行させるしかなかった。

 視界内であり、この至近距離ならば、何者かがレヴィンを襲ってきても反応できる。最悪でも、盾になることはできるという自信がある。

 怖いのは、レヴィンが突然走り出したり、必要以上に音を立てたりすること。レヴィンはまだまだ赤子だ。好奇心に駆られ、我を忘れて突貫してしまうこともあるだろう。


 と、心配していたのだが。


(……なんか、ほんと、思ってたより随分やるな、この仔)


 レヴィンは頭を低く保ち、目線の高さが常に変わらない。四肢の動きは迷いなく、発する音も最小限だ。そんな身体の落ち着きとは裏腹に、耳介は絶え間なく動き、周辺の音を拾い続けている。

 まるで熟練の狩人のような雰囲気を漂わせていた。

 仔が乳離れする前から狩りを教えるような動物はさすがにいない。親豹もレヴィンに対して教えを授けてはいなかっただろうと思われる。

 無論、シルティが教えたわけでもない。

 だというのに、この見事な狩人っぷり。

 造網性の蜘蛛クモは複雑かつ正確な巣を作る。托卵により生まれた郭公カッコウの雛は、目も開いていないのに仮親の卵や雛を巣から突き落として排除する。サケは成長すれば海に下り、産卵期になれば母川回帰ぼせんかいきを行なう。これらは誰に教わることもなく、だが確信を持って行なわれる、その血に刻まれた本能だ。

 レヴィンの見事な隠密行動にも、それらに近いものを感じる。琥珀豹の血に刻み込まれた御業なのかもしれない。琥珀豹の捕食者としての純度は、嚼人グラトンの遠く及ばない領域なのだ。

 いずれレヴィンは、シルティなど足元にも及ばない優れた狩猟者になるだろう。

 姉として、負けないように精進しなければならないな、とシルティはこっそり決意した。


「今日はいい天気だねぇ……干物は作り終わったし、雨とか降ってくれないかな……」


 シルティは実に身勝手な願いを呟きながら、左手に見える水平線へ視線を送った。

 海水を胸当てで濃縮させ始めた一昨日からずっと、雲一つない快晴。真っ青である。

 シルティがこの地に漂着し目を覚ましてから、もう既に十六日目。その間、一度しか雨が降っていない。森は鬱蒼と茂っているから、もっと降雨があっても良さそうな気もするのだが、単にシルティの運が悪いのか、そういう時期なのか。


「まぁ、川が見つかればそれで済むんだけどねー……レヴィン、きみのお母さん、どっかで水飲んでなかった?」


 問いかけるも、レヴィンに反応はない。素っ気なく完全に無視だ。とはいえ、出会った頃よりはずっと警戒心が薄れたように思える。

 現に今も、シルティはレヴィンのすぐ後ろを歩いているが、これ以上距離を取ろうと逃げたりはしない。

 至近距離にいても逃げようとせず、むしろ積極的に同行しようとしていて、さらに食事も大人しく摂ってくれるのであれば、ひとまずは充分だ。これからも養っていけるだろう。

 が、シルティとしてはもう少し親密になりたかった。

 琥珀豹は基本的に単独で生活する魔物だと聞く。独りで狩りができるようになれば、レヴィンはシルティの元を去ってしまうかもしれない。独り立ちして去るならば追うつもりはないが、早くもシルティはレヴィンを自分の家族と見ているし、レヴィンが嫌がらなければ、いずれ遍歴の旅を終えて故郷へ帰る際も連れていきたいと考えていた。

 レヴィンが一人前になる前に、少しでも親密になっておきたい。

 琥珀豹が一人前になるのは何歳頃だろうか。


(猫なら、どれだけ甘えん坊でも九か月あれば独り立ちするけど……琥珀豹、でっかいしなぁ……)


 全てがそうとは言わないが、シルティの経験上、群れを作らない野生動物は身体が小さい種ほど独り立ちが早くなる傾向がある。琥珀豹の生態の推測に猫のそれを適用してきたが、これに関しては猫を参考にするべきではないだろう。

 うーん、とシルティが唸りながら考えていた、その時。


 シルティの感覚が、何かを捉えた。


 直感に従い、視線を上へ。

 凄まじい速度で落ちてくる、巨大ななにか。

 向かう先には、レヴィンがいる。

 シルティは咄嗟に木刀を振るい、落下物の進路上に割り込ませた。

 硬い衝撃。金属同士が衝突するような耳障りな音色が轟く。

 そして間髪入れず、腕ごと木刀を


「ぐぬッ!」


 意図せぬ動きに、シルティの肩へ激痛が走る。

 手首と肩、そして肘、曲がってはいけない方向へ加わる連続的な負荷。

 いまだ襲撃者の姿形すら定かではない状況だが、木刀を自らの肉体の延長と見做せるシルティには文字通り手に取るようにわかった。これは、刀身を凄まじい握力で掴まれ、むちゃくちゃに振り回されているのだ。

 どうやら襲撃者は自由に空を飛べるらしい。鳥の類だろうか。

 前を進んでいたレヴィンは突然の出来事に驚いてビョンと大きく跳び上がり、空中で身をよじるように反転、着地して全身の毛を逆立てている。どれだけ美しい警戒姿勢で歩いていてもやはり幼子。いざ襲撃されればビビるらしい。


「ぅ、ふふふっ」


 シルティの口元に、蕩けるような笑みが浮かんだ。

 木刀を奪いに来る相手は久しぶりだった。

 そんな場合ではないと思っていても、やはり、こういったスパイスの効いた戦闘は楽しい。


 一瞬だけ膝を抜いて身体を落とし、確保したスペースで関節の角度を調整。全身全霊を振り絞って身体ごと木刀を振り抜く。壮絶な遠心力が働いたのだろう、刀身を掴んでいた巨大な影はすっぽ抜けるように空中へ躍り出た。

 シルティは振り払いの勢いをそのまま活かして前方へ跳び、レヴィンを掬い上げて襲撃地点から大きく距離を取る。

 腕の内側にレヴィンを庇いながら、シルティは素早く背後へ振り返り、敵を探して視線を巡らせようとした。

 巡らせる必要は、なかった。


(ぅおっ)


 探すまでもない。

 振り向いたシルティの視界を占有する襲撃者の影。

 でかい。

 いや、

 シルティの顔にその影が落ちるほどの距離だ。

 シルティがレヴィンを確保して体勢を整える僅かな時間に、襲撃者は追撃への移行と肉薄を終えたらしい。確固たる支点のない空中を移動してきたとは思えない、素晴らしい俊敏性だ。


 命の危機を目前にして、シルティの心臓が大きく脈打つ。

 蛮性を帯びた血は燃え、時間感覚が著しく引き伸ばされた。

 鈍間のろまな主観の中、シルティの眼球は襲撃者の姿を克明に捉える。


 やはり、鳥だ。

 全身を赤みがかった艶やかな黒羽根で覆った、笑えるほどに巨大な鳥だ。

 その体格に見合う太い両脚、屈強なあしゆびと、四本の指先からそれぞれ伸びる円錐状の鋭い鉤爪。そして、先端が鉤型に湾曲した特徴的な嘴。

 それらは全て、その羽根と同じく赤混じりの黒色をしている。ただひとつ、頭上からこちらを睥睨へいげいする瞳だけが、レモンのように黄色かった。

 雄々しく凛々しい、シルティ好みの美しい猛禽だ。

 その両脚が、そろりと揃えられた。


(蹴りッ)


 シルティは自らの直感に従い、上体を大きく反らしつつ左へ傾げた。

 直前までシルティの喉があった空間を、八本の鉤爪が轟音を立てて貫く。突進の勢いを乗せた強烈な蹴撃だ。完全に躱したにも関わらず、空気の流れで首筋の皮膚が引っ張られる。

 シルティは冷や汗と共に笑った。恐るべき威力だ。シルティを充分に殺し得る。まともに喰らえば、シルティの頭はスポンとどこかへ行ってしまうかもしれない。


 だがそれは、まともに喰らえばの話だ。

 初撃と次撃を続けて凌いだ。今この瞬間、巨鷲おおワシは両脚を前に突き出した姿勢で無防備を晒している。

 三撃目の機会は与えない。


(いけるッ!)


 シルティは回避行動の流れのまま、上半身をさらに大きく反らせ、同時に左へ捻転させた。両足を地面に付けたまま、シルティの左脇腹と地面とがほぼ平行になる。

 およそまともな斬撃など望めないような、奇抜な体勢。シルティは腹斜筋をバネのように酷使して、無理矢理かつ瞬時に力を蓄えた。

 即時解放。

 左逆袈裟気味に振るわれたシルティの木刀が、巨鷲の背後から左翼の付け根脇の下へ叩き込まれた。

 シルティの視界に黒い羽毛がパッと飛び散り、同時にグャアッと濁った悲鳴が上がる。

 柔らかくも硬い、矛盾を孕んだ感触。巨鷲は刀身の弧に沿って滑り、弾き飛ばされた。


 シルティにはわかる。

 今のは。

 血肉を裂いた感触ではない。


(だあクソ全然いけなかったッ!! この下手くそッ!!)


 得物がなまくらな木刀とはいえ、斬れなかったのは自分の腕のせいだ。シルティは脳内で己をボコボコにタコ殴りにしつつ、即座に地面を蹴った。

 巨鷲の空中姿勢制御能力の高さは先ほど実感済みである。弾かれた巨鷲が体勢を整える前に間合いを詰めなければならない。


(逃がすかッ)


 追い縋るシルティの視界で、弾かれた巨鷲は空中で無様に回転していた。

 切断には至らずとも、シルティの一撃はそれなりの損害を与えていたようだ。左翼が根本で折れ曲がっている。あれでは飛べまい。

 放物線を辿る巨鷲に追いついたシルティは、相手の回転運動を完全に見極め、再びの左逆袈裟を放った。

 狙うは左翼の付け根。木の刃は精密な弧を描き、先刻と同一箇所へ寸分たがわず吸い込まれ、今度こそその羽毛を斬り裂いた。羽毛を圧し折って胸筋へ斬り込み、肩甲骨、烏口骨うこうこつ叉骨さこつ、脊椎といった骨を悉く断ち斬って、右頸部から体外へ抜ける。

 二度目の刃は、巨鷲を綺麗に両断した。

 空気に曝された肉が血が噴き出すよりも早く、シルティは地面を蹴ってその場を大きく退避する。


 二つになった巨鷲は慣性のままに前方へ放り出され、地面に落下。片割れたちはそれぞれバタバタと懸命に羽ばたきつつ、飛翔すること叶わず自らが湧かせる血の池に沈んでいく。

 どう考えても致命傷だ。

 だが、これでもなお即死させることはできなかった。


 シルティがサウレド大陸に渡る前に仕入れた魔物の情報の中に、この巨鷲の形態が該当する名前は存在しない。だがそれは、この巨鷲が尋常な生物だということを保証しない。至近距離で感じられる生命力の強さ。目を見張る身体能力の高さ。そしてなにより、一度はシルティの斬撃を防いだその硬さ。まず間違いなく魔物だろうとシルティは判断した。

 であれば、まだ油断はできない。

 魔物が死に際に生命力を振り絞り、最期の魔法を使うというのは良くあることだ。そしてこの巨鷲がどのような魔法を身に宿しているか全く不明。命を燃やして周囲一帯を爆破する、などという魔法だってあり得なくもない。

 シルティは充分な間合いを取り、油断なく木刀を構えながら巨鷲の動きが完全に止まるのを待った。


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