第16話 一夜干し



 翌日、早朝。

 シルティがこの地に漂着してから、今日で十四日目。

 今日から東へ進む、と昨日の時点では考えていたのだが、明るくなってシルティの考えが変わった。


 というのも、ここから見える限り、海岸線で砂浜が形成されているのは入り江の内側のみなのだ。他は切り立った崖となっており、かなり険しい。

 入り江の内側は凪いでいるが、外側は相応に荒れている。波が絶え間なく崖にぶつかり、渦を巻きながら粉々になっていた。

 この入り江を出発したあとのことを考えると。

 崖から飛び込めば、海に入ることはできるだろう。だが、海から上がることはかなり難しそうだ。岩肌に叩き付けられ、ボロ雑巾のようになるだけ。


 要するに、今までのように拳を打ち合わせる石打漁で魚を獲るのは難しいかもしれない、ということである。

 食料を持っていかないと、レヴィンの分の食べ物がなくなる。自分の筋肉を食べさせるかどうかでまた悩まなければならなくなる。

 というわけで、この入り江を拠点にしばらく過ごし、ある程度の食料を確保してから出発することにした。

 ここならば、比較的容易に魚を確保できる。

 しかし、生魚などはあっという間に悪臭発生源と化す。腐敗を遅らせる処理が必要だ。


(干物ぐらいしかできないけど、少しはマシになるはず……)


 シルティはまず、自らが着用する革鎧を外し、その胸当てを容器代わりにして海水をんだ。

 シルティが身に付けている跳貂熊とびクズリの革鎧はオーダーメイドであり、特殊な処理を施した皮革を重ねた積層構造だ。防御力を重視する外側は硬質で、衝撃を逸らすために丸みを帯びているが、内側は着心地も重視して柔らかく、それでいて戦闘中に胸が揺れないように体形にしっかり合わせて縫製ほうせいされている。

 さらに、純然たる客観的事実として、シルティの胸の発育は、結構、いやかなり、随分、とても、良い方である。

 つまるところ、この胸当て。

 結構たくさん海水が汲めるのである。


「……人生で初めて、おっぱいがあって良かったと思ったかも」


 これまでは、無駄にデカくて戦闘の邪魔になるとしか思っていなかった胸であるが。

 なみなみと海水を湛える胸当てを前に、シルティは呟いた。



 海水を汲んだ胸当ては、日当たりのいい砂浜で晒しておく。

 これは、魚を干物にする際に使用する漬け汁だ。基本的に漬け汁の塩分濃度が高ければ高いほど出来上がる干物の保存性は高まる。

 日差しは強いので、時間をかければ日光のみでもある程度は濃縮できるはず、とシルティは見積もった。かさが減ってきたら肩当てを使って海水を継ぎ足し、また日光に晒す。これを繰り返せば充分な量の漬け汁を得られるだろう。


 それから森の入口へ向かい、植物を物色する。

 都合の良いつる植物があればよかったのだが、見当たらない。

 森の奥の方には蔓を伸ばす植物が腐るほど生えていたのだが、この辺りには生息していないようだ。やはり耐塩性の差で植生が切り替わるのだろう。

 森の奥で蔓を採っておけばよかったと思うも、あとの祭りである。


 無い物ねだりをしても仕方がない。シルティは入り江周囲に生える植物の茎を手当たり次第に折り始めた。繊維が強靭なものを探しているのだ。

 しばらくして、シルティは一つの草に目星を付けた。地面からシルティのももほどの背の高さで、細長くまっすぐな茎を持っており、折ると茎の皮が縦に裂ける。繊維はそれなりに強靭らしく、素手で軽く引っ張っても切れない。しかも群生している。

 まさにおあつらえ向きだ。

 シルティは木刀を使い、これを大量に刈り取った。


 刈り取った草を束にして抱え、砂浜に戻る。続いて波打ち際からほど近い位置に大きく穴を掘り、海水を溜めた。

 穴のそばに座り込み、草の茎から跳び出している葉柄ようへいを根本からもぎ落とす。茎だけになったら、断面から表皮を縦に引っ張って剥ぎ取る。それをさらに細く裂き、幅を整えてから、溜めた海水の中へ投げ入れる。水を吸わせ、繊維を柔らかくする狙いだ。

 これを、延々に繰り返す。

 長い時間をかけ、刈り取った全ての草の皮を剥ぎ終わったら、海水に浸しておいた繊維を何本かずつり合わせていく。

 非常に地味で地道な作業だ。

 ちなみに、レヴィンはまだ惰眠を貪っていた。


「よし、こんなもんかな」


 そうして完成したのは、細く短めの紐と、太く長めの紐、二種類の紐だ。

 予備も含め、短い方が六本、長い方が二本。

 紐という文明の利器の用途は非常に多岐にわたる。どれだけあってもいい。材料と時間さえ潤沢であればもっと作っておきたいし、なんなら編んで袋でも作りたいところなのだが、あまり凝り出しても引き際を見失ってしまう。

 今回はこの程度でいいだろう、とシルティは判断した。

 どうせ、干物は今日だけでは完成しない。明日も紐をあざなう時間はある。


 続いてシルティは、砂浜に転がっている流木や、森の浅い位置に転がっている枝を根こそぎ拾い集め、これらを縦に割って無数の杭を作り始めた。そして、先ほど草の繊維を浸すために作った大きな穴の外縁部に、隙間なく突き刺して深く埋没させていく。

 出来上がったのは、外縁部が木の杭で補強された、海水の溜まった大きな穴。

 これは、捕獲した魚をしばらく生かしておくための、いわゆる生簀いけすである。

 柔らかい砂地に掘っただけの穴であるから、長期の使用に耐えるものではない。寄せては返す波で刻一刻と侵食されていくだろう。とはいえ、二日ぐらいはなんとか持つんじゃないかな、とシルティは楽観的に考えた。とりあえず漬け汁が完成するまで持てばそれでいい。


 その後、海に入り、海中で拳を作ってしばらく待つ。

 拳同士を打ち合わせ、近寄ってきていた小魚たちを衝撃で気絶させる。

 プカリと浮かんできた魚たちを手早く回収し、生簀へ投入。しばらくして気絶から回復した魚たちは、濁った生簀の中で元気に動き出した。入り江を離れることを考えると、まだまだ足りない。二度、三度と繰り返し、魚を乱獲していく。

 しばらくすると、立て続けの乱獲が魚を警戒させてしまったのか、あるいは絶えたのか、付近に魚影が見えなくなった。ひとまずこのぐらいにしておく。時間を置けば、魚もまたこの辺りまで寄ってくるだろう。

 もしかしたらこれで一時的に生態系が崩れてしまうかもしれないが、シルティも必死だ。背に腹は代えられない。



 太陽が正中に間もなく届く、という頃。

 胸当てに溜めた海水は、八割ほどまで嵩を減らしていた。この分なら、明日の昼過ぎまでじっくり天日に晒しておけば、ぎりぎりで漬け汁として使える程度には濃縮されるだろう。無論、明日も今日と同じぐらい天気が良ければ、という条件はあるが。

 明日になったら生簀の魚たちを締め、漬け汁に浸してから夜明けまで干せば、明後日には一夜干しの完成だ。

 一段落ついたシルティは、水平線に目を向けた。

 雲一つない、綺麗な青空だ。レヴィンの名付けの由来となった積乱雲は、夜のうちにどこかへ流れて行ってしまったらしい。


(雨は降りそうにないかな。よかった)


 と、そこでようやくレヴィンが目を覚ました。

 くぁぁぁぅ、と顎を大きく開けて盛大に欠伸。前肢を前に伸ばし、尻を高くつき上げながら身体を伸ばす。そして、ブルブルと身体を勢いよく震わせた。呑気なものである。


「おはよう」


 シルティの挨拶を受けたレヴィンはちらりと視線を向け、ビャーッと小さく威嚇したが、すぐに顔を逸らす。再びの欠伸。

 それから、後肢を使って首筋や後頭部をガシガシと掻いた。

 掻く。

 掻く。

 掻き毟る。

 なかなか掻き終わらない。

 不審に思ったシルティがよくよく見ると、レヴィンが身体を掻く度に、小さな白い粒が無数に散っていた。

 塩の結晶だ。


 昨日、あれだけ夢中になって全身を舐めていたレヴィンだが、身体の構造上どうしても舐められない部位はある。そこには塩分がたっぷり残っていた。夜のうちに、毛と毛を接着するような形で塩が析出しているようだ。パリパリに固まった体毛の感覚が気持ち悪いらしく、執拗に掻き毟っているが、どうにも巧くない。


「レヴィン、おいで。掻いてあげる」


 見かねたシルティは、五指を鉤のように曲げながらレヴィンに差し出した。

 どうやら意図は通じたらしい。

 昨日の股間確認事件があとを引いているのか、レヴィンは警戒の視線を向けてくるが、塩への不快感の方が優ったようで、見るからに嫌そうにしながらも近づいて来る。

 シルティは苦笑しながらレヴィンを抱き上げ、胡坐あぐらをかいた膝の上に乗せて、顎下や後頭部、額などを重点的に擦り、塩粒を掻き落としていく。

 レヴィンは大人しくその手を受け入れていた。

 シルティに触れられることを少し嫌がっているような様子もあるが、身体を撫でられること自体は気持ちいいらしい。次第に目は柔らかく閉じられて、喉がごるるるると鳴り始めている。


 なお、海水に浸かったという点ではシルティも同様であるが、嚼人グラトンと琥珀豹では体毛が生える面積が違うので随分マシだ。人類種の中でも嚼人グラトンは特に体毛の少ない魔物である。頭髪、睫毛まつげ、眉毛、鼻毛、の四か所を除いて、他の部分には、産毛すらも生えていない。

 その上、琥珀豹に比べればずっと器用に腕を扱える。

 シルティは頭を両手でワシャワシャと掻き回せばそれだけで大部分の塩を落とせるのである。


 ゆっくり時間をかけ、シルティはレヴィンの塩を落としてやった。

 違和感のなくなったレヴィンは、シルティの膝から飛び降り、再びブルブルと身体を勢いよく震わせたあと、波打ち際へ向かう。


「え、まさか」


 なんの躊躇もなく、頭から、海水に突っ込んだ。

 シルティの奉仕を一瞬で無に帰し、とても楽しそうにはしゃいでいる。


「……あのやろーマジかよ……」





 翌日。

 正中と日没のちょうど真ん中といった頃合い。

 シルティは胸当てに溜まった海水に指先を付け、舐めてみる。塩っ辛い。漬け汁としては充分なものが出来上がった。


(さて、やるかー……)


 魚がうようよと泳いでいる生簀のすぐそばに座り込む。

 素手で掴み上げ、えらを引き千切って絞め、生簀に戻す。

 血が抜けたら、指を肛門に突っ込んで腹を裂き、内臓を掻き出して、爪で鱗を落とし、どうにかこうにか開きにする。

 処理が終わった魚を、漬け汁に浸す。

 これを、延々と繰り返す。

 シルティは無心で作業を進めた。

 なお、少しでも汚れないために、現在のシルティは全裸である。爪で掻き落とした鱗が無数に飛び散り、腕やら胴体やら顔面やらに張り付き、層を成していた。


(うひぃ、気持ち悪い……でも、やらないわけにもいかないしなー……)


 しばらく漬け汁に浸したら、紐をえらの穴に通して結び、木と木の間に張った長い紐に吊るして干す。空いた時間を使い、シルティは今日も追加の紐をあざなっていた。紐と紐をり合せた丈夫なロープは大量の魚をしっかりと支えてくれる。

 漬け汁を溜めてある胸当ては、胸当てとして見るならばかなりの容量を誇っているが、鍋として見るならば容量は少ない。一度に漬け込める魚は三匹前後だ。どうしても時間がかかる。


 夕焼けの終わり際、ようやく全ての魚を吊るし終えた。

 内臓を取り除いた魚は、全てレヴィンのための食料だ。五日分ほどはあるだろう、なかなかに壮観だった。

 原始的すぎる干物だが、少なくとも生のままよりは長持ちするはず。

 あとは、明日の朝まで干しておくだけだ。


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