第13話 腐敗



 四日が経った。

 シルティと幼獣は相変わらず、親豹の亡骸や蒼猩猩の死骸と共にあった。


 上下に両断した蒼猩猩の死骸には既に虫が大量に湧いており、あまり見ていたくない光景を生み出している。当然、腐敗臭もとんでもないことになっているのだが、シルティの嗅覚はとっくに麻痺していた。

 親豹の亡骸は外傷が無かったため蒼猩猩よりはマシな状況だが、それでも虫がたかり始めている。腹部が少し、膨らんできていた。

 他の生物に食い荒らされずに放置された動物の死骸は、大抵は消化器はらわたからいたんでいき、腹腔ふくくうが膨れる。死んで機能を停止した胃や腸が、自らの胃液や消化酵素によって消化されてしまい、融解が急速に進んでガスを生じるためだ。親豹の腹腔の中もおそらくドロドロになっているだろう。元々がガリガリに痩せているため、膨らんでいるのがよくわかる。


 腐敗は、自然界ではごくありふれた現象だ。日常といってもいい。

 だが、シルティの個人的な感傷として、親豹が腐りゆく姿を幼獣に見せたくはなかった。

 自分の感傷が、琥珀豹のそれと完全に一致するとは思わないが、それでも。

 気分よく生きるために、自己満足はとても重要だ。


「ねえ、ちびすけくん」


 地面に腰を下ろした姿勢のシルティが、トイレと食事を終えた幼獣に声をかける。


「向こうにしばらく行くと、海があるんだけどさ」


 幼獣にもはっきりと理解できるよう、腕を真っ直ぐに伸ばして方角を指し示す。


「行ってみない?」


 この場を離れ、かつての入り江に向かいたいと、身振り手振りを最大限に活用しつつ打診してみる。

 怯えさせないようにあまり大きな声は出さずに、聞き取りやすいよう、ゆっくりはっきりした発音を心がける。

 意味が伝わるわけもないのにこうして語りかけるのは、人類言語を学習してほしいからだ。幼い頃から耳に慣れ親しんだ言語は自然と理解が進むはず、との思惑おもわくである。琥珀豹の声帯では人類言語の発音は不可能だろうが、聞き取りはできるようになるだろう。

 幼獣は親豹のそばに寄り添い、目を閉じて丸まっていたが、シルティの声に反応して目を開けた。


 この四日間の交流を経て、どうやらシルティは幼獣にとって『馴れ馴れしい得体の知れない猿』から『食事を供給してくる無害な猿』ぐらいには格上げされたらしい。

 シルティが声をかけると、こうして多少は反応を返すようになってくれた。

 だが、まだ基本的には唸り声での応答であるし、当然気安いスキンシップなど許されていない。

 不用意に手を伸ばして、十回ぐらい噛まれたシルティである。


 状況が許すのであれば、この場に留まってゆっくりと時間をかけ、最低でも抱き上げても暴れない程度には信頼関係を築いておきたいところだ。

 しかし、この場でのんびりできない理由が三つある。

 一つ目は、先述した通り、シルティは幼獣に腐りゆく亡骸を見せたくないということ。

 二つ目は、血の臭いに誘われてなにものかが襲ってくる可能性は依然として存在しているということ。

 三つ目は、今回の食事で、流動食の材料としていた肉がいよいよ底を突いた、ということである。


 この四日間、シルティは蒼猩猩の尻尾の肉から流動食を作って幼獣に与え、シルティ自身は草や樹皮、虫で食い繋いできた。

 幼獣は日に何度も食事を求めるし、しかも食欲旺盛で、予想以上に量を食べる。たったの四日間だが、出会った当初と比べると随分と健康的な見た目になった。心なしか、体格が一回り良くなったような気もする。

 それ自体は好ましいのだが、おかげで予想よりもずっと早く、綺麗な尻尾の肉を使い切ってしまった。

 今、蒼猩猩の死骸に残っている肉は、臓物と内容物に塗れ、しかも虫が大量に湧いた、凄まじい悪臭を放つ腐肉のみだ。とてもではないが、幼獣に与えるべきではない。

 親豹を看取ったあの日、シルティは肉食欲求に抗えずに尻尾の肉の先端を少しばかり食べてしまったが、今思えばあれも食べるべきではなかった。あとの祭りである。


 すぐに流動食を確保するために採れる選択肢は、ざっと三通り。


 一つは、親豹の肉で流動食を作ること。

 親豹の肉は蒼猩猩の肉に比べればまだ綺麗である。強靭な毛皮に包まれ、かつ内臓から遠い四肢の肉などは、まだ虫も湧いておらず無事だろう。

 だが、幼獣の眼前で親豹の亡骸を損壊することになる。却下だ。


 二つは、シルティ自身の肉で流動食を作ること。

 身体のどこかの筋肉を適当に削ぎ落として材料にすればいい。生命力の作用により、魔物はもれなく超常的な再生力を持つ。そんな魔物たちの中でも、魔法『完全摂食』で生命力を超効率で補給できる嚼人グラトンの再生力の強さは一段上……どころではなく、百段ぐらい上だった。傷の治りもぶっちぎりで早い。

 少々肉を削ぎ落としても、しっかり食べていればすぐに再生される。そして、どんなもので食べられる。つまり、痛みさえ我慢すれば実質的に嚼人シルティは無限の肉なのである。

 だが、これをやると幼獣がシルティを食物と認識してしまうかもしれない。ただでさえ血を与えているのだ。あまり進んで採りたい手段ではない。


 となると、採用したいのは三つめの手段。

 ここを離れ、獲物を狩りにいく。

 この場所で血臭と腐臭を盛大に撒き散らしてしまっているから、他の動物が寄ってくるのではないかと心配と期待で半々だったのだが、この四日間ではせいぜい小さな栗鼠リスの類を数匹見かけただけ。蒼猩猩の縄張りというのはシルティが思っている以上に獣を遠ざけるのかもしれない。

 おそらく、あと数日も経てば縄張りが更新され、次なる蒼猩猩から襲撃される可能性は高いと思われるが、肉不足の解消は喫緊を要する。待っている暇はない。


 その点、シルティがひとまずの目的地としている入り江ならばほぼ確実に魚が獲れるはず。

 琥珀豹が魚肉を好むかどうかはわからないが、一切受け付けないと言うことはないだろう。


「海ってわかる? 塩味が無限にある、おっきな水溜り。あそこならすぐ魚が獲れる……あ、きみ、魚って知ってるかな? 水の中に住んでる生き物なんだけど、食べたこと、ないよね。まだ乳離れも終わってないんだもんね。獣も美味しいけど、魚も美味しいぞ。魚のあぶらは、獣のあぶらとはちょっと違う美味しさがあるんだよ」


 獣脂じゅうし魚油ぎょゆのわかりやすい違いは、ざっくりと言ってしまえば融点の差だ。例えば、豚肉の茹で汁を冷やすとあっという間に脂が白く固まるが、魚肉の茹で汁ではそうはならないというように、獣脂に比べて魚油の融点は低い。水中という低温環境に生息している魚類は、基本的に体温と水温がほとんど等しくなるから、低温でも固まらない油脂を体内に蓄えているのである。

 シルティは無学ゆえ、そういった細かい理屈まではわかっていないが、これまでの人生経験からその差異をなんとなく察していた。


「魚って傷むのが早くてね。ちょっと放っとくだけですーぐ臭くなっちゃう。だけど、獲ってすぐ食べるなら、めちゃくちゃ美味しい。生でも美味しいし焼いても美味しいし煮ても美味しい。きみも食べたらきっと気に入るぞ?」


 魚の美味しさを熱弁する。

 が、シルティの熱意とは裏腹に、幼獣はどこか胡乱うろんげな表情をシルティに向けた。さらには、くぁぁぅ、とこれ見よがしな大欠伸をぶちかます。

 なんとも小憎たらしい仕草であるが、まぁ、欠伸を見せてくるくらいには警戒が薄くなったのだ、とシルティは前向きに考えておくことにした。


「私の故郷だと、川でカジカっていう魚が獲れるんだよ。ちょっとおっかない顔した魚なんだけど、これをお鍋にするとめちゃくちゃ美味しくてね……」


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