第12話 流動食



 幼獣は親豹の乳首に吸い付いていた。

 左右の前肢を交互に動かし、親豹の腹部をマッサージするように押しながら、必死に吸っている。

 当然ながら、母乳は出ない。それでも、一心不乱に吸い続ける。

 シルティは、幼獣の意識が母乳に向かっている隙に、気配を殺して背後からこっそりと忍び寄った。


「隙ありっ」


 後ろから、素早く幼獣の脇の下に手を突っ込んで持ち上げる。

 途端に、幼獣が逃れようと暴れ始めた。シルティは筋力任せにそれを抑え込む。


「よしよし、落ち着いて。大丈夫だよ。大丈夫。美味しいもの食べさせてあげるから、ちょっと大人しくしてね」


 シルティはなるべく穏やかに聞こえるよう声をかけながら移動し、幼獣を抱きかかえたまま腰を下ろして胡坐あぐらをかいた。

 腰を下ろした地点には平べったく少し窪みのある石の皿がいくつも安置されており、事前に作っておいた液状の流動食が分けて盛られている。

 磨り潰した蒼猩猩の尾の肉に、シルティの血液を混ぜたものだ。

 魔物の生き血は漏れなく大量の生命力を内包している。あらゆる物質を生命力に変換する魔法『完全摂食』を宿す嚼人グラトンの生き血ともなれば、その密度は突出したものとなるだろう。それを混ぜ込んだのだから、この流動食は栄養や滋養という概念をある程度超越できる……はず。

 根拠はない。

 シルティはただひたすら、自らの血が幼獣を助けることを願いながら指を斬り、自らの生き血を混ぜた。


 シルティは抱きかかえた幼獣の体勢を整えてから、二本の指を使って流動食を掬い上げ、幼獣の口元へ持って行く。

 幼獣は全力で顔を逸らして指から逃げる。

 シルティは幼獣の鼻先に流動食を付着させた。

 舐め取ってくれないかと思ったが、駄目だ。幼獣は嫌そうに頭を振ってそれを振り落としてしまう。

 そもそもこの流動食を食物とは認識できていないのだろう。これまでずっと母乳で生きてきたのだろうから仕方がない。いっそのこと指に噛み付いてくれれば、そのまま口の中に入るのだが。


 吸口付きの容器(哺乳瓶)でもあれば、とシルティは無い物ねだりをしてしまう。

 しかし、幼獣のガリガリに痩せた身体を見るに、あまり猶予はなさそうだ。シルティは強硬手段に出ることにした。

 首根っこを掴むように、幼獣の口の端を指で押さえて顎を強制的に開かせ、露わになった舌に流動食を少しだけ乗せてやる。

 幼獣はなんとも嫌そうな表情で暴れ、チャッチャッチャッと鋭い音を立てながら舌を動かして流動食を吐き出そうとしていたが……ある瞬間にピタッと動きが止まり、そして明らかに表情が変わった。


「おっ?」


 口内のものを無事に飲み込んだようだ。

 無言のまま、シルティを見上げてくる。


「どう? 食べられそう?」


 シルティが指先に残った流動食を口元に近付けてみると、今度は躊躇なく舐め取った。凄まじい勢いで舌を出し入れし、耳介をぴくぴくと動かしながら、指先から流動食を持ち去っていく。

 どうやら、蒼猩猩の肉と嚼人グラトンの生き血から作った流動食は、幼い琥珀豹の口に合ったようだ。

 見たところギリギリだが、離乳食が食べられる程度までは成長していたらしい。


「よーしよし、いい子いい子。もっとお食べ」


 シルティは声をかけながら、流動食を少しずつ与えた。やはり空腹だったのだろう、先ほどまでの様子が嘘のように大人しく、モリモリと貪っていく。両前肢でシルティの手を抱え込むほどの夢中っぷりだ。

 余ると思っていた流動食の山が全て腹の中に収まってしまった。

 柔らかい腹は見て明らかにわかるほどぽっこりと膨らんでいる。

 流動食を食物だと学んでくれれば、ひとまず餓死の心配はなくなったと言えるだろう。健康に育つかどうかは保証できないのが辛いところだ。シルティの願いを込めた生き血生命力が、幼獣の身体によい影響を与えてくれることを祈るしかない。

 シルティは幼獣を親豹の亡骸付近まで連れていき、地面に降ろしてやった。

 幼獣はすぐさま亡骸の方へ寄っていく……とシルティは予想していたのだが、そうはならなかった。

 何故か、くるりとその場で反転し、とてとてと歩いて親豹から離れ始める。


「んん?」


 シルティが首を傾げていると、幼獣は亡骸からほどよく離れて座り込んだ。

 地面をワシワシと引っ掻いて浅い穴を掘ったかと思うと、そこに腰を下ろし、動きを止め……そして間もなく、ツンとした臭気。

 幼獣の排尿タイムである。


「あっ……そうか。普通は、出すんだった」


 嚼人グラトンは魔法『完全摂食』の影響で基本的に排泄を行なわない魔物だ。ゆえに、シルティの頭からは排泄という行為自体がほとんど抜け落ちていた。

 生後十数日までの猫の仔は自力で排泄することができないので、親が股を舐めるなりして刺激を与え排泄を促してやらなければならない。この生態は琥珀豹も同様であった。

 もし幼獣が自力で排泄できる年齢まで育っていなかったら、排泄の概念が抜け落ちていたシルティは促すことをせず、幼獣は遠からず病気になっていただろう。

 シルティは『猫の仔には排泄の補助が必要だ』という知識は持っていたのだが、知識を持っていても適切な場面でそれを思い出せなければ意味は無い。

 養うと約束したのにこれでは親豹に顔向けできないな、と改めて気を引き締める。


 さて、排尿が終わった幼獣はと言うと。

 食事中の大人しさはどこへやら、シルティに向かって威嚇し始めた。

 別に近寄ろうともしていないのに、激烈というほかない、凄まじい咆哮を上げている。

 ビャーッ、ギャーッ、ッヴャアアアッ!!

 まだまだ、気を許してはもらえないようだ。


「……まぁ、気長に行くしかないなー」


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