第10話 肉食



 シルティはその日、親豹の亡骸のそばで一夜を過ごすことにした。

 正確に言えば、過ごさざるを得なくなった。幼獣が親豹から離れようとしなかったためだ。

 その挙動を見るに、幼獣はまだ親豹がただ眠っているだけだと思っているような節がある。死というものを正しく理解するには、その仔はさすがに幼すぎたらしい。

 近寄ろうとすれば、まさに全身全霊といった様子で威嚇してくる。

 抱きかかえて連れて行ったとしても大人しくはならないだろうし、これから育てるというのに嫌われるのも面倒だ。落ち着くまで待つつもりである。


 シルティはひとまず幼獣を放置し、胴体をばっさり両断されて息絶えた蒼猩猩の死骸へ近寄った。

 肉を食べるためだ。

 遭難して以降、シルティが幾度も殺した蒼猩猩の肉を頑なに食べなかったのは、血の匂いを身体に染み付かせたくなかったからである。琥珀豹たちの件がなければ、今回も死骸を放置し、ここから速やかに離れていただろう。

 だが、親豹と約束した以上、幼獣を放置して進む選択肢はない。つまり、濃密な血と臓物の香り漂うこの場をしばらく離れられないということである。

 もはや血の臭いが染み付くことは必定ひつじょう。であれば、肉食を自重する意義は薄い。走ればそう時間もかけずにあの入り江へ到着できるという点も大きかった。ここで血の匂いが染み付いてしまっても、比較的すぐに海水で洗うことができる。あくまで、距離という面ではだが。


 シルティは蒼猩猩の上半身と下半身を眺めた。

 胴体で両断してしまったため、消化器はらわたとその内容物が零れ落ち、いろいろと汚染されてしまっている。

 特に上半身は、両断されてからもしばらく血溜まりの中でもがいていたためか、それはもう盛大に汚い。シルティは心臓や肺、肝臓といった臓物を食べることも好むが、さすがにこの蒼猩猩からそれらを取ろうとは思えなかった。

 一方の下半身。こちらも血や内容物にまみれているが、長い長い尻尾の先端の方だけは比較的マシのようだ。


 シルティは尻尾の先端を掴んで持ち上げると、木刀を一閃し、先端付近をすぱりと斬り取った。蒼猩猩の尻尾は分厚い筋肉に覆われており、食べごたえは充分である。

 食べようと思えばこの時点でも食べられるのだが、せっかくなのだから美味しくなるように尽力する。最低でも毛は舌触りがとても悪いのでしっかり取り除くべきだ。

 入り江で獲った魚を丁寧に処理した理由と同じである。

 シルティは調理に関する手間は可能な限り惜しまないことにしていた。


 全身の毛皮を商品価値を保ったまま剥ぐというわけではなく、今は尻尾の先端から食べるのに邪魔な部位を除去するだけ。さほど丁寧にやる必要はない。であれば、ナイフも必要ない。

 シルティは分厚い毛皮に犬歯を突き立てて少々の穴を開けると、その穴を広げるように力いっぱい皮を引っ張った。ミチミチという音を立て皮が裂ける。そこを起点にして皮を剥いでいく。

 指先に力を込めて鋭く尖らせ、皮を引っ張りながら肉との境目に爪を走らせれば、皮と肉を分離することは容易い。

 爪と指の間に脂がガッツリ詰まることには目を瞑る。


(よしよし、こんなもんかな)


 皮を剥ぎ終えた赤い肉塊。この状況で仕上げたという前提ならば称賛に値する出来栄えだ。

 シルティは早速、大口を開けてその肉に齧り付いた。

 シルティからすれば信じられないことだが、嚼人グラトンの中でも特に文明的な方々は、生肉を食すことに抵抗を覚えるらしい。もちろんシルティにそんな好き嫌いは無い。むしろ、生肉、大好きである。初めて食べる肉はまず生で食べるようにしているほどだ。

 まぁ、今回に関しては火を使えない状況と言うこともあるが。

 粘度と湿度を感じさせる音を立てながら尾の肉を噛み千切り、そして、


「ふはぁ……」


 万感の籠った声を漏らした。

 久しぶりの、本当に久しぶりの、獣肉だ。シルティは噛み締めるように感涙していた。

 死後硬直が始まる前の肉でしか味わえない、独特な甘味のある肉質。

 密度の高い筋線維が示す、確固たる抵抗を、強靭な歯と顎の力に任せて切断する快感。

 脂が臭い。めちゃくちゃに獣臭い。だが、シルティはこういう獣臭い肉も嫌いではなかった。なんというか、濃縮された猛る命を感じるというか、競争の激しい野生を生き抜いてきた強者を食っている、という実感が良い。

 シルティはもう一口ひとくち肉を齧り取り、満面の笑みを浮かべた。


 もし親豹がこの光景を目撃していたら、あるいは我が仔を託そうとはしなかったかもしれない。

 シルティには知る由もないが、親豹が我が仔を嚼人シルティに託すことを決意したのは、シルティが最初の蒼猩猩の首を刎ねて殺した場面を目撃しており、嚼人シルティのことを『蒼猩猩サルより遥かに強い草食動物』だと認識した、という点が大きかったためだ。

 草食動物にも場合によっては多少の死肉を食べるものはいるが、シルティは蒼猩猩の死骸に一切見向きしなかった。それどころか血さえ避け、近寄ろうともしなかった。こいつであれば、よほど飢えなければ仔を食うことはないだろう、と親豹は考えたのだ。

 実際のところ、シルティは草食ではなく肉食嗜好の強い雑食である。

 もちろん、縋られ託された以上、幼獣を食べはしないが。


 シルティは尾の肉を黙々と食べた。

 食べ進めるにつれて、久しぶりの肉食による感動は薄れ、徐々に味そのものに目が行く。

 やはり、脂が獣臭い。

 前述の通りシルティは獣臭い肉も嫌いではないが、もっともっと美味しく食べられる調理法はありそうだ。

 まず一番に思い付くのは脱水。塩を振って寝かせれば、水分と共に臭みを抜ける。あるいは相性のいい香辛料と合わせれば、この臭みも万人に楽しめる風味になるかもしれない。たっぷりの油を使って揚げる、赤ワインなどで長時間煮込む、なども考えられる。

 ちなみに、嚼人グラトンという魔物は酒精も完全に分解するので経口摂取では酒に酔うことはないが、単純な味や風味として飲酒を好む者たちは存在した。シルティはあまり酒を美味いとは思わないが、酒を料理に使うのには大いに賛成である。

 などと、調理法を考えながら蒼猩猩の肉を楽しんでいたシルティだったが。

 そこでようやく、大事なことに気が付いた。


(あ。って言うか、あの仔、もう肉は食べられるのかな?)


 さらに肉を食べ進めながら、幼獣の様子を窺う。

 保護者である親豹に寄り添っていることで安心しているのか、幼獣は先ほどまでよりはずっと安らいだ様子でシルティの動きを観察していた。

 幼獣の青い瞳が食事中のシルティをじっと見つめている。シルティが見つめ返すと、幼獣の背中が山なりになり、目に見えて毛が逆立った。警戒と敵意は解けていないようだ。


 シルティは食事を一時中断し、尾の肉を指先ほどの大きさに千切り、幼獣の方へぽいっと放ってみる。

 切れ端は幼獣から数歩の距離に落ちた。

 これで喰らい付いてくれれば楽なのだが、とシルティは期待したが、幼獣はちらりとそれを見ただけで近寄ろうとはしない。


(まあ、だよね)


 再び溜息を零し、食事を再開した。




 尾の肉の四半分がシルティの胃へ消えた頃。

 幼獣もまた空腹を覚えたのだろう、横倒しに寝転んだ体勢の親豹にしがみ付き、乳首を探し出して咥えると、一心不乱に吸い始めた。

 シルティには幼獣の正確な年齢を知ることはできない。だが、ああしているということは、少なくとも離乳はまだ完了していないのだろうな、とシルティは判断した。

 幼獣はしばらくそうしていたが、名残惜しそうに口を離す。その口唇には乳白色の潤いが見えた。分があったのか、少しは母乳を飲めたようだ。だが、当然ながら今後新しく作られる分はない。

 幼獣は二度と母乳を飲むことはできないだろう。


(うーん、乳離れできてないのか……どうしたもんかな……)


 シルティは母乳など出せない。なにか、幼獣の腹を満たす手段を考えなければ。

 とにかく、あまり大きな固形物は無理そうだ。幼獣が容易く飲み込めるような小さな欠片、もしくは液状やペースト状のものでなければならないだろう。

 材料は肉しかない。となると選択肢は一つ。

 肉を入念に磨り潰した流動食を与えてみて、幼獣がそれを食べられるかどうか。

 食べられなかったら……その時は、本当に、どうしたものか。


(まぁ、悩んでてもしょうがない。やってみよう)


 自分の分の食事を終えたシルティは、手に土をまぶしてから鎧下で拭って血脂を落とした。幼獣に与える分として尾の肉を拳三つ分ほど残してある。いつでも流動食を作れる状態だ。

 このまま長時間の足止めを食らうのは避けたいところ。

 なんとかして幼獣と信頼関係を築き、親豹の亡骸から離れ、連れていかなければならないのだ。食事をその第一歩としたい。


 シルティは幼獣と親豹にゆっくりと近寄っていく。とにかく、まずは幼獣を捕まえる必要がある。

 幼獣が立ち上がり、鼻面にしわを寄せながらヴャーッと声を上げ威嚇してくるが、シルティはそれを完全に無視。親豹の背中側、触れられる距離まで近寄って、両手で親豹をわしわしと撫で始めた。

 親豹は目を閉じたまま、嫌がらない。既に亡くなっているのだから当然だ。だが、この光景を見た幼獣が、シルティは親豹が気を許している相手なのだ、とでも勘違いしてくれれば儲けもの。

 撫でる。撫でる。一生懸命に、亡骸の背中を撫でる。しばらくすると幼獣の威嚇の声が止んだが、それでもまだまだ撫で続ける。


(どうかな?)


 幼獣の様子をちらりと横目で窺う。

 幼獣は、親豹の後肢付近に隠れるように身を伏せ、じっとしていた。

 シルティは撫でるのを一旦止め、ゆっくりとした動きで亡骸の頭部付近に寝転がると、今度は亡骸の喉元やら頬やらを撫で回す。

 幼獣は、親に馴れ馴れしくする謎の生き物シルティに対し強い警戒の視線を向けていたが、威嚇の声は上がらなくなった。


 シルティはひたすらに亡骸を撫で続けながら、幼獣をこっそりと観察する。

 この幼獣は離乳も完了していないようだ。一体、生後どのくらいなのだろうか。信頼関係を築く場合、大抵の動物は幼ければ幼いほど経過が良好なのだが、あまりに幼いと養育の難度は跳ね上がる。

 親豹と身体のサイズを見比べると、四肢が特に短い。もしかして生後半年も経っていないのではないか……と、推測を重ねていたシルティだが、そこである事に気づいた。


(……そう言えば、この仔、目が青いな)


 親豹の瞳は山吹色やまぶきいろ(赤みを帯びた鮮やかな黄色)だ。印象的だったのではっきりと覚えている。

 だが目前の幼獣は、親豹とは似ても似つかぬ、美しい灰青色の瞳を持っていた。


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