第9話 遺託



 意思疎通のために言語を操る動物は嚼人グラトンだけではない。

 現代において、人類種(嚼人グラトン森人エルフ鉱人ドワーフなど、近しい特徴を持った数種類の魔物の総称)は、よほど閉鎖的な環境でない限り基本的に『人類言語』と呼ばれる共用語を話すし、人類種の他にも独自の言語を用いて同族間で意志疎通を行なう動物は数多くいる。

 特に魔物たちは得てして賢く、機会と才能と努力さえあれば、異種族の言語を習得することも難しくはなかった。

 可聴域の差でまともに聞き取ることができなかったり、顎や声帯の構造が元々の話者とかけ離れていて正しい発音ができなかったりと、母語と同レベルで聞いて話せるようになる異種族言語というものは稀ではあるが、簡単な意思疎通程度であればなんとかなることが多い。

 ちなみに、シルティも人類言語の他にいくつかの異種族言語を解することができる。故郷の集落では周辺に棲んでいた異種族たちと付き合いがあったので、覚えたのだ。


 シルティは抱え込んだ幼獣の頭を撫でてやりながら、


「あなたは、この仔を、どうして欲しい?」


 と、親豹に問いかけた。

 なるべく聞き取りやすいよう、はっきりとした発音で、ゆっくりと。

 野生の動物には人類言語を学ぶ機会などまずないということはシルティもわかっていたが、もし万が一奇跡的にこの親豹が人類言語を理解できるならば話は早い。駄目で元々、問いかけるだけならばタダである。

 シルティが仕入れた情報では、琥珀豹は極めて優れた知性を備える、とあった。

 であれば、独自の言語を持っている可能性は高い。会話という行為への理解はあるだろう。

 それに、視線や身振り手振りを利用した身体言語ボディランゲージというのは、たとえ異種族間であっても、想像以上に効果を発揮するものだ。……誤解を招くことも多々あるが。


 問いかけに対し、親豹はゆっくりと首を伸ばして、シルティの額に自らの額を擦り付けてきた。

 巨大な頭部が顔面に近づいて来るのにはさすがに身が竦んだが、シルティは精神力を振り絞ってされるがままに。

 人類言語を理解できているかどうかは定かではない。常識的に考えて理解してはいないだろう。だが、こうして明確な反応があったということは、こちらの意図は多少なりとも伝わったのかもしれないな、とシルティは判断した。

 親豹は、丹念に丹念に額を擦りつけ続ける。


(……ああ)


 シルティには、琥珀豹が取る仕草の意味などわからない。

 だが、なぜかこの時は、不思議と親豹の意図がはっきりと理解できた。

 正しく理解できた、という超常的な確信があった。

 シルティに、すがっている。

 自らの死期を悟り、それでも諦め切れず、一縷の望みをかけて、見ず知らずの異種族に我が仔を託そうとしている。


(そっか……)


 シルティは静かに溜息を吐いた。

 人類種にとって、なんらかの理由により動物と共に生活するのは珍しいことではない。賢い動物たちが人類種にとって良き友になりうるのを知っているからだ。

 シルティの生家でも、強力ごうりきで俊足を誇る藍晶鹿らんしょうジカと呼ばれる四肢動物を二頭飼育しており、随分と助けられたものだ。ルー|(メス)とアラン|(オス)、とても働き者で、可愛かった。

 しかし、シルティは慣習により世界を遍歴中の身であり、しかも加えて現在は遭難中の身である。さらに言えば、今後は〈虹石火にじのせっか〉を回収するために莫大な金を稼がなければならない。


 幼い動物を養うような余裕など、あるはずもなかった。

 なかった、の、だが。


 シルティは抱きかかえた幼獣に視線を落とした。

 未だシルティの拘束から逃れようと暴れているが、いかんせん筋力が弱く、シルティの腕で容易く抑え込まれている。

 弱い。本当に弱い。もはや儚さを感じるほどに、か弱い。

 琥珀豹は強大さで知られる魔物だが、やはりまだ幼すぎた。この弱さでは、狩りで肉を得るのは無理だろう。いや、そもそも、離乳しているのだろうか。シルティには判断がつかなかった。

 親豹は、おそらく間もなく死ぬ。次の瞬間に息絶えてもおかしくない様子だ。

 そうなれば、残されたこの幼獣も、飢え死にか、あるいは別の獣に食われて死ぬだろう。


 弱者が死に、強者の糧となるのは、自然の摂理である。

 である、の、だが。


 面と向かって、縋られた。

 なによりも大事なはずの仔を、託された。

 その事実に心を動かされないほど、シルティは枯れてはいない。

 なにより。

 『強者たるもの、すべからく弱者を守るべき』は、蛮族の戦士の常識である。


「わかった。なんとかして、私が育てるよ」


 シルティは幼獣の頭を撫で回しながら、親豹の額に自分の額を押し付け、はっきりと答えた。


 ご、る、る、る、る。


 親豹はおごそかに喉を鳴らした。

 シルティの鎖骨の辺りに緩く頭突きを見舞い、首筋をぐりぐりと擦りつけてくる。

 どうやらこれは、感謝の意を示しているようだ。

 シルティが親豹の縋り託す意図を不思議と理解できたように、親豹もシルティの承諾の意図を理解したのだろうか。


 それから、親豹はシルティの腕の中にいる幼獣に顔を近づけ、その顔や頭をベロンベロンと舐めて毛繕いグルーミングを始めた。暴れていた幼獣も、この時ばかりは大人しくなり、親の愛を受け入れている。

 シルティもここは大人しく、幼獣を抱きかかえたまま直立を保つことにした。


 どれほどの時間、そうしていただろうか。

 入念な毛繕いを完了した親豹は、非常に億劫そうな仕草で身体を横倒しにして寝転がり、目を閉じた。

 穏やかな表情で、眠ったように動かない。呼吸は浅く、回数も僅か。


 多くの動物を殺してきたシルティにはわかる。

 最期だ。

 幼獣を託す相手を見つけたという安堵は、命をぎりぎりで繋ぎ止めていた気力をすっかり溶かしてしまったらしい。


 シルティは幼獣を地面に降ろしてやった。

 解放された幼獣は、シルティに向けて凄まじい敵意を露わにしながらビャーッと鳴き、後退りするように親豹の元へ向かって、後肢の影に隠れる。

 親豹は目をうっすらと開け、尻尾の先端を使って幼獣をあやしていたが、やがて咳き込むように幾度か身体を痙攣させ、そして。

 動かなくなった。


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