第8話 琥珀豹



 結局、シルティは来た道を引き返す事にした。

 木々に付けられた目印――木刀で付けた斬り傷を頼りに、ズンズンと足を進める。


 引き返すことを決めた日の夕刻、雨が降った。しかも、十歩先もまともに見えないような凄まじい土砂降りだ。

 シルティは文字通り狂喜乱舞した。天からの雫で喉を潤して、人目をはばからず全裸になり、身体と衣類をわっしわっしと洗う。

 行動の方針を変えた途端に、天からの恵み。今日は蒼猩猩からの襲撃もなかった。なんとも幸先のいいことだ。シルティは雨ざらしのまま、気分よく就寝した。

 ちょっとばかり寒いが、溢れんばかりの生命力を持つ嚼人グラトンは寒さにも強い。

 なんか食ってればとりあえず生きられるのが嚼人グラトンである。



 引き返し始めてから三日目の、昼過ぎ。

 道中で六度、シルティは屠った蒼猩猩の死骸を通り過ぎた。どれも食い荒らされ、腐敗が進んでいたが、特徴的な毛皮が残っていたおかげで見逃す事はない。

 シルティの記憶と感覚が正しければ、もう間もなく最初に殺した蒼猩猩の死骸に行き着く。五日かかった道を三日で踏破しかけている。

 時間を大幅に短縮できた主な要因は、蒼猩猩と出会わなくなったことだ。

 往路では五日間に七度もあった蒼猩猩の襲撃が、復路では一度もない。

 これは、蒼猩猩たちの縄張りがまだ更新されていないためではないかとシルティは推測している。群れのリーダーが死んだとしても、すぐに別のリーダーが選出されたり、他のオスが縄張りを乗っ取りにくるわけではないはず。だから、シルティが通過した線に沿って森の中に帯状の空白地帯ができているのだろう、とシルティは考えていた。

 時間が経てば経つほど、新しい群れがこの辺りを縄張りにする可能性は高くなるだろう。最初の蒼猩猩は死後七日以上が経過している。より一層の警戒が必要だ。


(うッ……)


 そこで、シルティの鼻が強い腐臭を捉えた。

 七日間も放置した死骸だ。あまり近づきたくはない惨状になっているだろう。が、下手に道を逸れると目印を見失いかねなかった。さっさと通り過ぎてしまおうと、シルティは腐臭に耐えながら足を速める。


 案の定、腐敗しきった蒼猩猩が出迎えてくれた。

 一部は液状化し、膨大な量の蛆虫が躍っている。

 あらゆるものを無害に食べられる魔法『完全摂食』を宿す嚼人グラトンの中には、虫が湧いてドロドロに溶けたような腐肉こそ最高に美味しい、と好む者も割といるのだが……シルティはそうではない。

 シルティは発酵臭と腐敗臭を主観で明確に区別する嚼人グラトンである。

 普通にくさくて不快なので、さらに先を急ぐ。



 死骸を通り過ぎてからしばらく進むと。

 案の定と言うべきか、早速と言うべきか。

 右後方頭上にかすかな気配を感じた。


 目か、耳か、鼻か、舌か、肌か、あるいはなにか別の。

 どの感覚器で捉えたのかも自覚できない、ごく僅かな違和感に、シルティの身体は速やかに反応した。三日ぶりだがこれで八度目だ。いい加減に慣れてきてしまった。

 脚を広げて腰を瞬時に落とし、木刀を掲げ、頭部を守る。

 背後からの一撃を木刀でしっかりと受け止め、全身の筋力を存分に使って大きく弾き飛ばしながら、振り返り、襲撃者の姿を視界に収める。

 背後から奇襲したはずが、殴りつけた腕を逆に弾き飛ばされ、蒼猩猩は驚愕の表情を浮かべていた。

 右腕を頭上へ伸ばす姿勢で、柔らかな脇腹を晒している。

 それを見逃すシルティではない。目がギラリと光る。


「ふッ」


 ほとんど無意識に、木刀による左薙ぎを蒼猩猩の右脇腹に叩き込んでいた。

 ざぱッ。音のない世界に湿った手応えを残し、蒼猩猩の身体は呆気なく上下に生き別れとなる。

 強靭な毛皮も、腹回りの分厚い筋肉も、太い脊椎も、万全の体勢から繰り出されるシルティの木刀の前には無力だった。

 即座に後方へ跳躍して返り血を避け、そして、


(やっちゃった……)


 シルティは大いに後悔した。

 あまりに隙だらけだったので、ついつい本能的に胴体を斬ってしまったが、ここは頭を刎ね飛ばすか、最低でも腹ではなくを両断するべきだった。

 なぜなら、その方が遥かにだからである。


 地面に崩れ落ちた蒼猩猩の上半身はまだまだ元気があるらしく、濁音だけで構成された耳障りな悲鳴を上げながら、生命力を振り絞るように激しくもがいていた。横倒しになった下半身はビグンビグンと痙攣しながら内臓をでろりとこぼれさせ、強烈な臭気を発している。もはや魔法『停留領域』を維持する余裕もないのだろう、音も臭気も駄々漏れだ。

 首や胸を両断していれば、少なくとも悲鳴は上げられなかったし、消化器はらわたを破ることもなく、臭気も生まれなかった。

 血の臭いと同様に、悲鳴や、消化器の内容物のえた臭いも、獣を強く惹き寄せてしまう要因だ。

 完全に息絶えるまで時間がかかる。血を浴びたくないので近寄れず、止めも刺せない。


 シルティは小さく溜息を吐きながら、暴れる蒼猩猩あおショウジョウを迂回し、この場をすぐに離れようと一歩踏み出した。

 そして。


 ガサリ。


 右方から聞こえた大きな葉擦れの音に、心臓がキュッと縮み上がった。


(ッ!?)


 戦いを終えた直後の油断、気の緩みを突くように現れた気配は、シルティの思考を驚愕と戦慄で染め上げた。感覚からして音源はすぐ至近距離。いつからそこにいたのか。シルティには全く察知できなかった。隠密に特化した魔法『停留領域』を宿す蒼猩猩をも凌駕しかねない、透き通るような気配のなさだ。

 内心の狼狽とは裏腹に、シルティの身体は染み付いた動きを速やかに再現する。無意識に腰を落とし、両手で握った木刀を中段に構え、視線を右に。

 敵を見たらまず構えろと、故郷で父親に死ぬほど叩き込まれた成果だ。

 シルティは視界の中央に捉えた敵を速やかに観察する。


 それは、凄まじく巨大な四肢動物だった。

 大きな頭部。太く長い尾。黄金色のに、大きな黒い輪のような斑紋模様がいくつも入った、特徴的な毛皮。頭胴長はシルティの三倍近い。

 シルティは即座にその正体に思い至った。

 蒼猩猩と同じく、大陸間移動の前にシルティが仕入れた情報に該当するものがある。

 ぞわり、戦慄と歓喜で身体が震えた。


 (琥珀豹こはくヒョウ……!)


 琥珀豹こはくヒョウ

 凄まじい身体能力と優れた知性を持つ、巨大で強大な頂点捕食者である。

 その馬鹿げた巨躯に見合った強大な筋力を備え、跳ぶ、走る、といった動作が得意で、時に超常的なまでの瞬発力を発揮する、真正の怪物。純然たる肉体性能で琥珀豹に対抗できる魔物は、世界を見てもそう多くはない。

 多くは森林や岩場に生息しており、食性は完全な肉食だ。縄張りの中を徘徊して獲物を探し、その脚力を活かして猛然と襲いかかるのが常だが、実は巨体に似合わず木登りや崖登りも得意で、高所から落下しつつ強襲することも多々あるらしい。

 特に優れた個体は、その鉤爪と牙と魔法を駆使し、若い竜を狩ることすらあるというのだから途方もない。


 だが。

 シルティの目前に現れた、この個体は。


(……今にも、死にそう)


 色艶の悪い毛並み。肋骨の本数が容易く数えられるほど痩せさらばえた身体。怪我か病か老いか、シルティには診断できないが、どう見ても衰弱極まった様相だ。

 相対し、観察して、はっきりとわかった。

 シルティがこの琥珀豹の存在を全く察知できなかったのは、琥珀豹が蒼猩猩に匹敵する隠密能力を持っていたからではない。この個体の生命力がほとんど枯渇しているため、シルティの感覚に引っかからなかったのだ。

 こうして動く姿を目視していても、まるで岩石か枯木のように見えてくるほど。

 欺瞞の可能性は……まぁ、ないだろう。生命力を微塵も感じない。わかりやすく死にかけだ。


 いかに強大な魔物だと伝え聞いていても、さすがにここまで弱っている個体には脅威を感じない。こうして動けているのが不思議なほどの容態に見える。軽く叩けばそれで死んでしまいそうだ。

 客観的に考えて、この琥珀豹よりもシルティの方が遥かに強いだろう。

 シルティは木刀を構えたままゆっくりと後ずさりし、琥珀豹から離れ始めた。強者と殺し合うのは望むところだが、怪我や病で弱った強者を殺すのは全く気が進まない。琥珀豹が蒼猩猩の死骸を食べたいのであれば、好きにさせるつもりである。


 だが。

 その琥珀豹は、死骸に近づいてはいかなかった。

 歩みは遅く、ふらふらと覚束ない足取りだが、間違いなくシルティを目指している。

 この状況で、なんの意図があって自分に近づいて来るのか。

 シルティは訝しげに琥珀豹を見た。

 目が、合った。


「ぅ……」


 肉体の衰弱具合とは裏腹に、琥珀豹の山吹色やまぶきいろの瞳は爛々らんらんと輝いている。

 強い意志……いや、凄まじい執念を感じさせる目だ。

 シルティは完全に気圧けおされた。

 生命力の枯渇した、放っておいてもすぐに死にそうな魔物に……勝てないと、思わされた。


 シルティが硬直する中、琥珀豹はシルティの至近距離まで近づくと、上半身を起こして前肢を揃え、腰を下ろして姿勢よく座り込んだ。俗にいう、三つ指座りエジプト座りである。

 そして、じっと見つめてくる。

 その目には確かな知性が宿っており、害意は全く感じられない。

 この相手に木刀の切っ先を突き付けているのが、何故だかとても恥ずべき行為に思え、シルティはゆっくりと構えを解いた。

 琥珀豹はそんなシルティの様子を認めたあと、自らの身体を迂回させるように長い尻尾を動かし、シルティの前へゆっくりと伸ばしてくる。


「……いったい、なん……、んん?」


 琥珀豹の巨体に隠れていまいち見えなかった、長い尻尾の全貌。

 鉤尻尾だ。先端がくるんと曲がっている。

 いや違う。先端がくるんと丸まっている。

 意図的に丸められた先端が、器用にもなにかをしっかりと優しく保持している。

 丸まりが、ヴャゥーッ、と濁音混じりの鳴き声を上げた。


「……おぉ」


 尻尾に巻かれていたのは、幼い琥珀豹だった。

 眼前に現れた見知らぬ動物シルティに怯えながら、シャーッだのビャーッだの、鋭い鳴き声を上げて精一杯に威嚇している。

 血の繋がった実の仔だろうか。幼獣は、とても小さかった。シルティが片手で掴み上げられる程度しかない。

 生後どのくらいなのかはシルティには知る由もないが、成獣の大きさと比較するに、ほとんど生まれたばかりのように思える。

 シルティは困惑の目で、幼獣をこちらに差し出している、親らしき琥珀豹を見上げた。


「どうしろと……?」


 琥珀豹はさらに尻尾を伸ばし、幼獣を差し出して来る。というかもう、完全に押し付けてきている。

 仕草から察するに、どうやら幼獣を受け取ってほしいようだ。


「なんなの……」


 仕方なしに、シルティは木刀を持っていない左腕で幼獣を受け取り、抱きかかえた。

 そして、思わず、ぎょっとする。


かっるぅ……!?)


 心配になるほどに軽い。

 触ってみると明らかに肉が薄い。酷く痩せこけている。どうやら栄養状態が非常に悪いようだ。

 シルティに抱きかかえられた幼獣はと言うと、鉤爪を剥き出しにしながら、がむしゃらに激しく暴れ回った。


「うわっ、ちょっと待ちなさ、こら、このやろッ」


 あわや幼獣を取り落としてしまいそうになったシルティは、慌てて木刀を地面に突き刺し、フリーになった右腕も使って幼獣を抱え込みにかかる。

 幼獣はさらに激しく暴れ、前肢の届く範囲をひたすらに引っ掻き、挙句にシルティの左上腕にガブリと噛み付いてきた。しかし、幸いシルティの前腕と上腕は革の籠手こてと肩当てで覆われている。幼獣には既に小ぢんまりとした乳歯が生えているようだが、顎の力は貧弱で、肩当てに僅かに食い込むだけで止まっていた。

 シルティはその隙に右腕で幼獣の頭を抑えつけて牙と左前肢を封じ、左腕を巧く使うことで幼獣の右前肢を脇の下に挟み込んで封じた。

 牙と両前肢を完全に封殺。もはや為す術はない。

 幼獣は悔しそうにギュブルギュブルと奇妙な鳴き声を上げ、全身の力を振り絞って拘束から逃れようとしていたが、ほとんど身動きはできないようだった。


「……。で、ほんとになんなの、これは」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る