第7話 肉と水への渇望



 入り江を発ってから、五日目の夕暮れ時。


(代わり映えしないなー……)


 五日も経ったのにもかかわらず、視界に立ち並ぶのは木ばかり。

 五日も経ったのにもかかわらず、襲ってくるのは蒼猩猩ばかり。

 変わり映えがしないと嘆くのもやむなしといったところである。


(お肉が食べたいなー……)


 シルティは食欲も露わに内心で呟いたが、実のところ、肉はある。

 この森には蒼猩猩あおショウジョウが殊更に多く生息しているらしい。あれからさらに七回も襲われ、全て殺し返した。

 獣道を辿っているわけでもないのに、五日間での総計が七回、それも全て単独のオスだ。多すぎる。いったいどれほどの群れがこの森に生息しているのか見当もつかない。

 あまりに頻度が高いので感覚が慣れてきたのか、四度目の襲撃以降は、無音無臭であるはずの奇襲を直感的に察知して回避できているほどだ。


 そういうわけで、肉は割と頻繁に向こうからやってきてくれる。

 だが、やはりそれを食べるわけにはいかなかった。

 本音を言えば、蒼猩猩をバラして肉を食べたい。本当に、心の底から、肉が食べたい。シルティは肉食嗜好の強い雑食である。

 だが、状況がそれを許さないのだ。血の臭いを身体に染み付けるのは避けなければならない。

 シルティは、山のような肉塊を泣く泣く完全に放置して、草や虫を食べながら、ひたすらに歩き続けている。

 肉がないより、あっても手が出せない現状の方が、より辛く思えるシルティだった。


(それにしても広い……。参った……)


 背の高い木々に遮られ太陽がろくに見えず、まともな方向感覚はとうに失われているが、シルティは木々に細かい間隔で目印を付け、頻繁に振り返っては複数の目印を重ねることで、可能な限り直線の軌跡を歩んできた。

 多少の蛇行はあるだろうが、気が付かないうちに進行方向が反転しているようなことはないだろう。この五日間で相当な距離を踏破したはず。

 しかし、森が途切れる気配はなかった。

 ここが小さな島ではなさそうなのは朗報だったが、人里はおろか未だ小さな川一つ見つけられていない。これだけ鬱蒼と茂る森だから、水源は豊富だろうとシルティは見込んでいたのだが。

 単にシルティの運が悪いのか、あるいは、この森では水は地表を流れず地下を流れているのか。


(これ、多分、間違っちゃったなぁ……)


 ここに至り、シルティは自分の選択を後悔していた。

 飲用水、農業用水、下水、水運、等々。水源の用途は枚挙にいとまがなく、得てして嚼人グラトンの居住地は水場の近くに作られることが多い。

 シルティは漂着した入り江に背を向け真っ直ぐ森に入ってしまったが、今思えば、森に入らず海岸線をなぞるように進むべきだったかもしれない。

 海岸線のどこかには、まず間違いなく、河口が開いているはずだ。

 大きな河口であれば港町が作られているかもしれないし、港町がなくとも川の流れを遡ればいずれは人里に着くかもしれない。まぁ、それもここが無人島でなければだが。

 少なくとも、あてもなく森の中を突き進むよりはずっと望みがあるし、道しるべがあれば気も楽になる。


(冷たい水に浸かりたい……)


 シルティはしわがれた溜息を吐き出しながら、切実に水浴びを欲した。

 水浴びができるならば、血の臭いだって流せる。だがそれ以上に、身体を清潔にしたい。

 あまり体臭を振り撒きながら歩くと、これもまた獣を寄せる可能性がある。そこで、二日に一度は土を掘り返して全身に擦り付け、適当にこそぎ落とすことで身体を洗っていた。だが、口が裂けても清潔とはいえない状態だ。

 故郷では山肌から湧く温泉に入浴する習慣があったため、シルティは割と綺麗好きである。うら若き乙女として、この状況は普通に辛かった。


 もう一度入り江へ戻り、海岸線をなぞるべきか。木々に付けてきた目印があるので、迷うことなく入り江まで引き返せるだろうし、更なる目印を付ける必要もないので往路よりも短い日数で到着できるだろう。

 だが、既に相当な距離を稼いだはずなのだ。このまま進めば、少なくとも引き返して海岸線をなぞるよりはずっと早く森を抜けられるのではないだろうか、という考えも捨て切れない。

 悩みに悩んで、シルティはひとまず思考を放棄した。


(とりあえず今日はここまで。……明日の朝、決めよう)


 森の中は常に暗いため時間感覚もかなり狂ってしまうが、頭上に見える樹冠が赤く染まっているところを見ると、今は夕暮れ時のようだ。シルティは夜目にも多少は自信があるが、やはり夜行性の動物たちには遠く及ばない。

 ここで一夜を過ごすことにしたシルティは、溜息を吐きながら木を背もたれにして座り込み、ちょうど手の届く位置に茂っていた詳細不明のつる植物から葉を四枚ほどみ取った。

 葉は卵形で、柔らかく、ふちは鋸歯。刺毛トゲのようなものも生えておらず、滑らかで、鮮やかな緑色をしている。

 見た目は、紫蘇シソに似ている。割と美味しそうだ。

 四枚一気に、口へ運んだ。

 咀嚼する。

 渋くて、苦くて、酸っぱくて、しかも凄く臭い。


(うおぁあぁ。ひどい味だぁ。不味いよう。失敗した)


 シルティは涙目になりながら、ゴグンと飲み込んだ。


「ぐぇー。水飲みたい……」


 思わず、呟く。

 水資源の用途の一つに飲用も挙げたが、実のところ、嚼人グラトンという魔物の生存に水は必須ではない。

 運動や高温環境下などで大量の発汗があると、嚼人グラトンも強い喉の渇きを覚えるが、なんでもいいから(例えば砂や石でもいい)なにかを食えばすぐさま渇きが癒えてしまうような、そんな超常の肉体なのである。

 なのであるが、ほぼ全ての嚼人グラトンは日常的に水を飲む。

 これは、身体が必要とするか否かではなく、いち動物としての本能的な欲求に近いらしい。


 ちなみに、嚼人グラトンは汗もかくし涙も出るが、乳児期を除き、排泄は行なわない。


(あーあーあー。なんか、とにかく美味しいものが食べたい……)


 嚼人グラトンはなんでも食べられる。なんでも食べられるが、なんでも食べられるがゆえに、味にはとてもうるさい傾向があった。シルティも例外ではなく、美味しいものには目がない。こうして不味いものを食べ続けているという現状には随分と不満が溜まっていた。

 せめて、火を使った調理がしたい。不味い野草の類も茹でれば多少はマシになることが多いからだ。虫も、大抵は焼いた方が美味しい。

 だが、今のシルティの状況では、火を使った調理はやはり許されない。

 立ち昇る煙が厄介になるし、火のにおいというのは想像以上に遠くまで届くものだ。全ての獣が火を恐れるわけではない。賢く、かつ『人類種』と争った経験の豊富な一部の魔物たちは、火の近くには人類種がいると理解している。臆病で慎重な動物は近づかないが、人類種を弱いと認識してしまえるような強大な魔物は、むしろ寄ってくるのだ。

 もし仮に竜でも惹き寄せてしまったら、シルティは死ぬほかない。


 シルティは口の中に残る渋みと苦みと臭みを必死に飲み込んだあと、別の葉に挑戦する気力も失せ、ふてくされたように就寝した。


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