最後の物語『リンネが最後に見た景色』

 ぎぎっ、と扉の開く音が聞こえる。


 ぼやけた視界が、初めてアルトの姿をとらえる。あぁ、ずっと会いたかった。想像通りの素敵な若者だ。その横には、『王夢』の姿があるはずだ。涙が、私のほおをとめどなくつたっていく。思い描いた青年の目の前にいるのは、当時は思い描くこともできなかった、この狭い世界以外、一切知ることができないまま、年齢だけを重ねた哀れな女だ。


「アルト、その顔を見ることができて、私は幸せです。これでじゅうぶんです。そしてもう出て行ってください。私のことは忘れてください」


 私の口から出てくるのは、心にもないことばかりだ。本当は忘れてなんて欲しくない。


「嫌だ」

「アルト……?」

「勝手に自分で、相手の気持ちまで決めないでくれ。俺はきみに会いたくてここまで来て、きみと同じように、会えて嬉しい、と思ってるんだ」


 アルトが私の手を握った。やせ細って、年老いた私の手を。

 そして私のもうひとつの手を、『王夢』が掴むように握る。その感覚があった。


「ありがとう」

 私はそれ以外、何を言っていいのかも分からず、それしか言えなかった。


 立ち上がった私は、割れた鏡に目を向ける。自身を映し出されることが怖くて、思わず割ってしまったものだ。片付けるのも億劫になって、破片は残ったままだ。そのひと欠片が、私の顔を映し出しているかもしれない。でも、もう怖くはない。


 アルトの太くはないが、すこし筋肉質な腕が私を抱きかかえる。まるでお姫様だ、と思って、私は笑ってしまう。だって……。


「どうしたの?」

「いや、お姫様のように扱われているな、と思って」

「だって、お姫様じゃないか」

「そうでした」


「いまから、俺と一緒に外の景色を見ませんか」

 怖くない、と言えば、嘘になる。だけどもしも外の景色を見るとしたら、彼以外とは考えられない。私の返事は決まっている。


 ゆっくりとした足取りで、アルトが私は世界の外へと誘ってくれる。


「『王夢』」

 アルトに抱えられて、廊下を進む中、私は『王夢』に声を掛けた。


「リンネ」

「『王夢』私には、もうあなたが見えません。残念ながら。だけど声ははっきりと聞こえるような気がするのです。あなたに聞きたいことがあります」

「なんだ」

「母のことを愛してましたか。……ふふっ、気付いてましたよ。あなたがお父様だって」

「もちろん、愛しているよ」

「言葉を、過去にはしないのですね。きっと母も喜んでいるはずですよ。私は母を誰よりも憎んでいて、誰よりも共感していましたから。だから誰よりも、母の気持ちが分かるんです」

「そうか……」

「あと、サラの亡骸が地下室にあります。我がままなのは承知ですが、私が死んだら、一緒に埋めてくれませんか?」

「リンネ、きみはまだ死なないよ」

 本当に優しい青年だ。だけどサラと同じで嘘が下手だ。


 扉がある。

 その扉を開ければ、そこはすべてが未知なる世界だ。


 もちろん窓越しに外の景色は見たことはある。だけどある時から、窓から外を見るのはやめてしまった。どうせ私にはもう関係のない場所だ、と拗ねたような気持ちになって。閉ざされた場所から見る、外の景色はどんなに綺麗でも、私に鬱屈とした感情を抱かせた。


 アルトが扉を開ける。


 どうしても一歩踏み出せなかった世界の外からはじめて見る景色は、いままでと、まったく違って映る。きっと私の見る目が変わったからだろう。


 開け放たれた先に、まばゆい光が射す。そうか、木漏れ日って、こんなにも美しいのか。


「アルト」

「うん?」

「私を、孤独な運命から、閉ざされた世界から、救ってくれて、本当にありがとうございました」


 私の肉体は、私が一番、分かっている。

 ことばを紡ぎ出すのも、やっと、だ。

 サラ、もうすぐそっちに行くから。

 またお話、聞かせてね、『王夢』

 私、生まれてきて、良かった。

 いまはじめて、そう思えた。

 あなたたちのおかげです。

 ほんとうにありがとう。

 あとなにをいおうか。

 なにか、いいたい。

 けどまぁいいか。

 アルトごめん。

 もうすこし、

 このまま。

 アルト、

 すき、

 よ。

 。

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