幕間の物語『リンネとサラ』

 その日の夕方、私はサラの私室を訪ねた。厳密に言うと、そこはかつて使用人が共有して使っていた部屋だ。だけどサラしか使用人のいない、いまとなってはサラの私室としか呼びようがない。


 ノックして入ると、サラがびっくりした表情を浮かべる。

 私たちはテーブルに向かい合って座る。サラのカップを持つ手は震えている。別に緊張でそうなっているわけではない、と私は知っている。もしかしたらサラは、私が知らない、と思っているのかもしれないが、私だってもう子どもじゃない。頭がおかしくなっているわけでもない。だから私は、すでに知っている。全部。


「ごめんね。サラ。急に」

「いえ、大丈夫です。それで、どうしたんですか、リンネ様」


 ふいにサラの顔に、幼い頃の彼女の面影が重なり、私は泣きそうになる。もう戻ってこない過去を思い返して。


「私は、あなたの嘘を暴きにきた」

「嘘ですか? なんのことでしょう」

 サラがほほ笑む。素知らぬ顔もうまくなったな。


「母のこと」

 母の名前は、ラフア。長い年月を私と一緒に暮らした女性だ。だけどその関係に、雪がとけることはついに一度もなかった。涙がひとしずく、私のほおをつたった。何故、私は泣いているのだろうか。私は悲しいのだろうか。悲しいとしたら、私は何を悲しいと感じているのだろうか。心のどこかでは、母と心と通わせる日を信じていたのだろうか。


「リンネ様、もうやめませんか。どちらでもいいではありませんか。リンネ様には、私が、サラがいます。だから……」

「サラ、あなたの優しさが生んだ嘘だと知っています。だけどもうそろそろ、時間もないのでしょう。私は真実が知りたい」


「……優しさではありません」

「サラ?」


「優しさではないのです。もしも口にしてしまえば、すべてが崩れてしまうような気がして」

 気付けば私は、サラの頭を撫でていた。子どもの頃のような涙を流すサラを見て、そう言えばよく、私はサラの頭を撫でて、泣き止ませていたな、と思い出して。年下の使用人は、私にとって友達のような存在でもあったのだ。その後、サラは、「お嬢様のお手を煩わせて!」と先輩の使用人に怒られてしまうこともあって……。あぁ懐かしい。すべてが懐かしい。もう戻ってこないと知っているからこそ、よりあでやかになって、その記憶はよみがえる。


「もう……死んでいるのよね。母は」

「はい。ずっと知られないように隠してきましたが、やはり気付いていたんですね」

「えぇ。いくら鈍感でも気付くよ。それで崩れる、っていうのは?」

「もしも知ったら、リンネ様は出て行く、と思ったからです」


「何、そんなこと心配してたの」私は思わず笑ってしまった。そこに虚しい色が含まれていることに、お互い気付いている。「無理に決まっているじゃない。私はここしか知らない。この狭い空間だけが、私にとって世界のすべてになるのだから。どうやっていまから、一歩、外へと歩き出せると思うの」


 もしできるとしたら、アルト。あなたが私の手を取って、外へと誘ってくれた時だけだ。


「でも怖かったのです。リンネ様の世界がここだけであるのと同じように、私にとっての世界のすべても、ここだけでしたから。ご主人様がいなくなったいま、私のすべては、リンネ様、あなただけなんです」


 サラが悲し気に笑う。


「あなたは私と違って、買い出しに出掛けたり……、外の世界を知ってるじゃない」

「逆に言えば、それだけ、です。そんなのは知っているうちにも入りませんよ」

「私を見捨てていなくなっても、良かったんじゃない」

「そんな悲しいこと言わないでください」

 サラが咳をする。


「こんな私に、ここまで付き合ってくれてありがとう。一応言っておくけど……。いつでも好きに出て行っていいからね。もちろん選ぶのは、サラ、あなただけど」

「リンネ様……」

 これが私たちの最後の会話になった。


 サラが私の前からいなくなってしまったからだ。だけどこの建物から出て行ったわけではない。いつものように食堂に行くと、いつもいるはずのサラの姿はなく、嫌な予感がした私はサラの部屋へと向かった。そこには目を瞑ったまま、横たわり、動かなくなり、冷たくなったサラの姿があった。


 一瞬、自ら命を絶ったのではないか、とも思ったが、そうではないと分かった。いつこうなってもおかしくはなかったのだ。


 私はしばし、彼女の亡骸を抱きしめた。

 そして私はサラの遺体を地下室まで運び、そこに置いておくことにした。やがて腐敗するだろう。本当は埋葬してあげるのが一番だ、というのは分かっているが、外にも出れない私にできるのは、これくらいが限界だった。


 どうせ私も、すぐにそっちに行くことになるから。その時、いくらでも私を叱ってね、サラ。


 残された食糧は、サラが買い込んだぶんだけだ。それが尽きれば、私の命も尽きるだろう。私は自ら外に出る気はない。出る気はないのではなく、出れない、のだ。サラにも言ったが、こんなにも長い長い時間、この狭い世界にいて、そんなの無理に決まっている。


 どのくらいの時間、私は生きていられるだろう。

 私は、アルトの顔を思い浮かべる。

 もう無理だよね。来てくれることなんて。


 だったらもう来ないで、アルト。私は本当はもう、あなたに来て欲しくないの。こんな姿、あなたに見られたくないし、この世界から救われることなんて諦めてるから。亡骸となった私を、あなたに見られるなんて、絶対に嫌だ。


 私は一度も会ったことのないあなたを、愛している。愛しているからこそ。

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