幕間の物語『リンネと父の記憶』

 私は、父にはもうひとつの顔があることを知っている。

 母や当時いた使用人たちの言葉の端々からある程度の想像はできたが、父に直接聞くことができなかったことに、一抹の後悔がある。でも実際に聞ける機会があったとしても、私は聞かなかったはずだ。母も父も、使用人のみんなも、明らかに隠そうとしていたからだ。私が勝手に気付いてしまっただけで。


 幼い頃、私のもとを訪れる時の父はいつも軽装で、本人の言う通り、『旅人』なる言葉が似合う出で立ちだった。旅人も、旅の記録を描く作家であることも、決して嘘ではないはずだ。ただ父にはそれだけではない顔がある。父はその事実を、私に語ろうとはしなかった。


 母が愛した父は、どんなひとだったのだろうか。

 私はまた書庫へと向かう。小走りになったせいか、すこし息切れがする。書庫には、サラがいて、「大丈夫ですか。息切れが」と私を心配してくれた。


「大丈夫、大丈夫」

「大丈夫じゃないですから。無理はしないでください」

 父が著した一冊の本を手に取ってみる。


 たぶん、これだろう。


『エルデイルを行く』


 若き日の父が、エルデイル大陸を歩き回った頃の記録が書かれている。『ヤアレル』の記述がある。そう、私がヤアレルを初めて知ったのは、この本からなのだ。父がその風光明媚な村に滞在した期間、とある夫婦に親切にしてもらったことが書かれている。


『またふたたび人生をやりなおす機会があるならば、この場所からはじめたい』

 だから私は、夢の物語を紡ぎはじめた時、ヤアレルがスタート地点だったことに、しっくりとくるものを感じていたのかもしれない。


 何度も、何度も、繰り返し見る夢は、もうすでに現実よりも明瞭なものになっている。


「お父さん……」

 私はもう繰り返し見る夢の結末を知っている。


 書庫から出た私が目を真っ赤に腫らしていたことに驚いたのだろう。サラが言った。


「リンネ様、泣いていたのですか」

「ごめんなさい。こんなことで泣くような年でもないのに」

「年齢など関係ありません! 私にとってリンネ様は、私が幼い頃に出会った時から変わらない、私の憧れのひとです」


 サラがほおを赤く染める。


「何かあったのですか?」

「父のことを思い出していたの」

「私はリンネ様のお父様とは会ったことがありません……。ですが、使用人の中で、悪く言うひとは誰もいませんでした。ただ……」

「ただ?」

「あぁいえ、これは忘れてください」

「大丈夫。想像はついているから」


「はい……。ご主人様は、憎んでいた、と思います。殺したいほど」


「そうよね。なんで選んだんだろう。父は、母を」

「人間関係というものは複雑なものです。一口で言い表せるものではありません」


「あら、サラ。分かったようなことを」と私は思わず笑ってしまった。「ところで、最近、私は母に会っていないんだけど、母は元気?」

「えぇもちろんです。ご主人様は相変わらず、ですよ」

「そっか、なら良かった」


 私は部屋に戻る。いつからだったか、私は部屋に鏡を置くのをやめた。孤独の中で、疲弊し、やつれていくおのれを映すものなど近くに置いておきたくはなかったのだ。


 私はベッドに座り、ちいさく息を吐く。

 嘘が上手くなったな。サラは。でも……、私が本当に気付いていない、とでも思っているのだろうか。


 だけど私は指摘しない。

 もしもそんなことをしてしまえば、すべてが崩れてしまいそうな気がしたからだ。


 アルト、お願い、早く来て。

 私は、あなたを待っている。待ち侘びている。


 だけど、もうひとりの自分が、私にこう言うの。


「本当に来て欲しい、って思ってる?」

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