幕間の物語『リンネと思い出の本』
「リンネ様、お食事のご用意ができました」
とサラが言った。サラは私の住むここで長く使用人を勤めていて、もう私が家で過ごす中で、会話ができるのはサラくらいだ。婆様はもう死んでしまったし、母とは一緒に暮らしながらも、もう長く会話を交わしていない。可愛かったサラも立派な大人で、その美しかった金髪にもう、別の色が混じりはじめている。
「ありがとう」
食堂に行くと、部屋の端に割れたガラス片を見つけた。ねぇこれ、とサラに聞くと、サラはすこし困ったような表情を浮かべて、
「ご主人様が、今朝」
この家の主人は、母だ。
「母様が? めずらしいね。部屋から出るなんて」
「えぇ、『たまには』と。でも料理が気に食わなかったのか。すぐ掃除しますから」
「あぁ、後でいいから。そんなの」
私は食事をとりながら、途中、サラに言った。
「ねぇ。久し振りに、地下の書庫を使いたい、と思っているのだけれど」
「えっ、でももう、あそこは……すみません。もう誰も使わない、と思って、掃除が行き届いていないのです」
「あぁ、大丈夫。そのくらい。別にすこしくらい汚れていたって、何も気にしない」
「お身体に障りますから」
「何言ってるの。そんなひとを、婆様みたいに」
と私は思わず笑ってしまった。私の、大丈夫、に根負けして、「じゃあせめて簡単に掃除だけさせてください」とサラが言った。
私はのんびりと扉の付近で、サラの掃除を待っていた。私も手伝おうとしたのだが、「いえ使用人のプライドがありますから」と断られてしまった。こういう時のサラはかたくなだ。待っている時に、書庫から悲鳴が聞こえた。慌てて入ると、すこし大きめな蜘蛛を前にして、サラが腰を抜かしている。あぁそう言えば、サラは虫全般、特に蜘蛛が大嫌いだった。
「わ、笑わないでくださいよ」
とむくれているサラに、「ごめんごめん」と謝る。
「一緒に掃除しようか」
「はい……」
掃除を終えて、サラにはもう別の仕事に戻ってもらうことにした。私は書庫の中を、懐かしく眺めながら、一冊の本を探す。
「あぁ、あったあった」
と思わず独り言が出る。最近独り言が多くなったのは、続く寂しさが原因なのかもしれない。
私は一冊の本を手に取る。
『アンネ・カルネリア』
この本には、特別な思い入れがある。はじめて読んだのは幼い頃で、まだこんな大人の恋愛小説が理解できるような年齢ではなかったが、何故か私は、この作品が気になって仕方なかった。その理由が分かったのは、もうすこし大きくなってから、おそらく母の生い立ちを知ってしまったからだ。
母は、主人公の『アンネ』に似ている。いやこの表現はすこし正しくない。どちらかと言えば、『母は、自分をアンネのような人物と勘違いしている』だろうか。
『アンネ・カルネリア』は、三角関係を描いた物語だ。
美しきアンネはその国の王子に見初められ、結婚する。新婚当初は、仲睦まじく、国民から慕われていたふたりだったが、王子が国王になった後、他国からお忍びで訪れていた姫君と出会い、国王と姫君は不貞行為を働いてしまう。その醜聞が世間をにぎわせ、それと同時に、その事実がアンネの耳にも届いてしまう。最初は寛大な気持ちを持って、「許す」と言っていたアンネだったが、心の奥底には、暗い感情が萌していて。というのが、話の筋だ。
やがて国王と姫君を殺害し、自らも死を選ぶ。
哀しい、哀しい、物語だ。
母もこの物語を知っているはずだ。そしておのれがモデルのようにくらい思っているだろう。
滑稽だな。滑稽で、醜悪な。
ぱらぱらとめくり、やめてしまった。別に読んだところで、何かが変わるわけではない。そう思った自分自身に、私は驚いていた。物語が、私のすべてだった頃、物語こそが白黒にしか見えなかった世界に、鮮やかな色を付けてくれる。かつてそう考えていたことが、まるで嘘のように。
私はもう、そこまで無邪気に物語が信じられなくなっているのかもしれない。
いくつか、好きだった物語を適当に選んで、すこし読んでみる。これと言って懐かしさも感じられない。つらい、苦しい。
アルト……。
私は心の中で、彼の名を呼んでみる。会ったこともない、彼の名前を。
「あれ、リンネ様。もういいのですか?」
と書庫を出て、食堂を通ると、サラが掃除をしていた。
「えぇ、もう用事は終わったから」
「リンネ様が書庫に入ると聞いて、私、なんだか懐かしくて、昔のことを思い出して」
「昔のこと?」
「はい、まだ私以外にも使用人がいて、私が一番若かった頃の話です。みんなにかわいがってもらって……。いまよりも賑やかで」サラの目がすこし潤んでいる。「もう私しかいなくなってしまいました」
何も言えなくなってしまった。サラも寂しいのだろう。私も寂しい。
部屋に戻ると、私は鳥籠に目を向ける。そこには当然、『王夢』の姿はもうない。もうずっと前に消えてしまった。死骸は数日経って、誰かが持っていったわけでもないのに、いつの間にか消えてしまっていたのだ。はじめからそこに、何もなかったように。
私の夢が、真ならば、
きっと『王夢』はアルトを連れてくるはずだ。私のもとに。私は信じている。不安が萌すこともあるが、いまの私の生きるよすがはそれだけだから。
私はベッドに仰向けになり、天井をぼんやりと眺める。
いつか仰向けになった先に、空の青が広がるように。
お願い、アルト。早く来て。私のもとに。
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