文化の街フレンツと或る脚本家

 橋の欄干に足を置き、『王夢』が流れる川を眺めていた。

 文化の街フレンツの景観に映えるそこは、観光名所としても有名なアーク川だ。何度かフレンツには行ったことはあるが、アルトにとってはいつも誰かの用事の手伝いとして訪れる場所だったので、のんびり橋から川から眺めるなんてはじめてのことだった。


『王夢』はどこか浮かない顔をしている。『王夢』は表情が人間的で、分かりやすい。フレンツにたどり着き、とある画廊に入ってから、ずっとこんな調子だ。


 美しい夫婦の絵があった。力強さを感じさせる男性と優し気な雰囲気の女性の姿が印象的な。


「『王夢』、物思いにふけっているのは、もしかしてさっきの絵のこと」

「あぁ、……ふいに懐かしさに囚われてしまって」

「画廊に誘ったのは、『王夢』だったけど、何か予感でも」

「いや、あそこの画商は古なじみだよ。ただもう息子しかいないみたいだったが。あいつは死んでしまったのかもしれないな」

「そっか……。ねぇ『王夢』、あの絵のこと、聞いてもいい」

「いや、きっとそのうち分かることになるさ。いまはまだ、やめておこう」

 そう言われると、分かった、としかアルトには言うことができない。


 宿屋の予約を取り、アルトたちは街中を歩く。田舎村のヤアレルとは違って、中心地はひとで賑わっている。路上に旅の音楽家たちがところどころにいて、弦を弾いたり、笛を吹いたりしている。鳴り響かせる音で、路銀を集めていた。


「『王夢』はこの街に詳しい感じだけど」

「あぁ一時、ここに滞在していたことがあるんだ。その頃は身分を偽っていたから、こっそりと隠れるように、な……」

「なんで、そんなこと」

「おとなには色々とあるんだよ」


 アルトが『王夢』と出会ってから、すでに五日ほど経っている。すこしずつ互いの距離は近付いているような感覚はあるが、『王夢』は必要以上にはおのれのことは話さず、そこにはまだ触れられない距離があった。ただ、『王夢』に、人間の記憶があることは間違いないだろう。


 宿屋に戻るまでの間、ふと古い記憶を自身の脳から拾い上げたアルトは、フレンツで毎日開かれている劇の舞台を観に行きたい、と思った。それは幼馴染のソプラノが、「いつか一度、観に行きたいんだ」と話していた、フレンツの名物だ。ひとが演じるのではなくて、命が込められた人形たちが人間の手を離れて、独立した演技を見せる人形劇で、朝、昼、夜、と毎日、三回、劇は行われている。生きた人形たちの舞台。はじめてソプラノから聞かされた時、アルトは心の中で馬鹿にしていた。生きた人形なんて信じられない、と。精霊も信じていなかったアルトにとってその判断は、ごく自然なことだった。


 だけど……、

 いまアルトのそばには、『王夢』の姿が、自分以外、誰にも視認することのできない怪鳥の姿がある。


 そんな『王夢』を知ってしまったいまならば、生きた人形劇も信じられる気がしたのだ。


 舞台のある建物、アクアリアへと向かう。

 受付でお金を払って、観客席に腰をかける。昼の部だからか、観客の姿はあまりない。対角線上のすこし離れた席に、ひとりの男がいて、目が合う。アルトのほうをじっと見ていて、だけどその視線に違和感を覚えた。もしかして、と思ったところで、建物の明かりが消え、観客席は暗く染まった。


 口上がはじまるとともに、舞台に明かりの火がともる。

 そして人形たちが舞台に現れる。主人公は、ひとりの勇敢な青年で、どことなく自分に似ている、とアルトは思った。


 物語はどこにでもある、ありふれた英雄譚だ。翼の生えた魔獣に連れ去られた姫君を助けるために、苦難の道を乗り越え、やがて魔獣を倒し、そして姫と青年は結ばれる。王からも気に入られた青年は新たな王となり……、そうやって物語の幕は閉じる。まるで人間のような人形たちが躍動する姿に息をのみ、未知の感動はあったものの、物語自体にアルトはあまり感動できなかった。しかし反対に、『王夢』は魅入られたように、物語に真剣なまなざしを向けていた。


「そんなに面白かった?」

 終わった後、アルトが『王夢』に聞くと、すこし困ったような顔をした。


「いや、なんというか、他人事に思えなくて。似ている、と思って」

「俺に?」

「いや、確かにアルト、あの主役はきみに似ていたが、そういう話ではないんだ。私の過去に似ていて。もちろんすべてが似ている、なんてわけではないんだが、すこし気になる共通点があって……」

「過去? どんな?」


「あぁ、いや」いつものように、『王夢』はまた過去の話になって言葉を濁した。いったいどんな過去を、彼は抱えているんだろう。自分はいつそれを知ることができるのだろうか、とアルトは思った。「んっ。近付いてくる、あの男」


 アルトたちに向かって歩いてきた男がいる。

 それが素の表情なのかは分からないが、どこか冷ややかな印象がある。背は高く、どこにでもいる背丈のアルトの顔が、彼の胸もとあたりと同じ高さだ。細身で、眼鏡を掛けている。


「いや、いや。どうでしたか。今回の劇は」

 冷ややかな見た目の雰囲気とは対照的に、口調には軽薄な色があった。軽薄で、どこか愛嬌も感じられる。


「楽しかったです。……あの、あなたは」

「あぁ、すみません、すみません。私、ポルカと言います。実は劇の物語を創っている者です」

「物語を創る……」


「えぇいわゆる脚本家などと呼ばれている存在でして」

「脚本家……」そう聞いて、正直な物語の感想を伝えなくて良かった、とアルトは思った。「物語を創る職業に、名前があるんですね」

「えぇ、いくつか。あまりこの大陸では浸透しきっていないな、とは思うのですが、あるのですよ。小説家なんていう言葉もありまして、海を隔てた別の大陸には、紙に虚構の言葉を綴る者たちばかりが集う街もあるんですよ。私は小説よりも、脚本をつくるほうが性に合ったみたいで、そこにいた期間は長くはありませんが。……そして私は、私のほうで気になっていることがあるのですが」


「なんですか」

「そちらの、あなたの隣にいる見たこともない鳥は、何者でしょう」

「見えるんですか」

 と驚くと同時に、アルトは納得もしていた。だから劇がはじまる前、違和感があったのか、と。彼の視線はアルトではなく、『王夢』に向いている気がしたからだ。


「えぇ」

「なぁ、『王夢』」とアルトは『王夢』に聞く。「彼に、俺たちのことを話してもいいか」


『王夢』が頷き、アルトはこれまでのことをポルカに話した。ふんふん、と相槌を打ちながら、ポルカは話を聞く。


「それは大変、面白い話ですね。王が見る夢。『王夢』ですか」

「ひとつ聞いても?」

 と『王夢』がポルカに聞く。


「えぇ」

「もしかして私のことを知っていたり、しないだろうか」

「いえ初めて、です。なぜ、そう思うのですか?」

「いや、物語が、私の過去にすこしだけ似ていた気がしたから」

 ポルカがあごに手を当て、そうですか、とつぶやく。


「私がいままで伝え聞いたことも、物語を書く上での血肉となっていますから、だからもしかしたらその中に、あなたの過去か、それに近しいものがあったのかもしれません。私にはそれがなんなのか、判断はできないのですが」


 血肉、という言葉を使う時だけ、ポルカの言葉にはためらいがあることに気付いた。それが何故なのか、まではアルトには分からなかったのだが。


 建物を出ると、夕暮れの光が辺りを緋色に染めていた。


「これから、あなたがたは?」

「宿屋に泊まって、また旅の続きを、と思っています」

「もし良かったら、いまから私の家に来ませんか」

「ポルカさんの?」

「えぇ、あなたたちは興味深い。もうすこしお話をしたくて」


 了承したアルトたちは、ポルカに付き従う。彼の家は目抜き通りを逸れて入った路地裏だ。柄の悪い輩からは目を逸らす。アルトには慣れない場所だったが、『王夢』も、当然そこに住んでいるポルカも気にした風もなく、歩みを進めていく。


 一軒の二階建ての家があり、そこがポルカの家だった。


「私以外、誰も住んでいないですよ」

 とポルカが言う。


 一階の壁面に敷き詰められたように、書架が並んでいて、綺麗に整頓された書物にポルカの性格が表れている気がした。


「これは」

「ほとんどが、さっき言っていた、『小説』ですよ。紙に綴られた虚構の言葉の群れです。もしかして本を見るのもはじめてですか?」

「はい。話では聞いたこともあったのですが、田舎者なので、本なんて見たことは」

「それは仕方ないのかもしれませんね。だって各地に普及してきたのも最近のことですから。それまでは一部の、特に稀少なものでしたし」


「『王夢』は知ってたの?」

「あぁ、知ってるよ。私も言葉で綴られた物語は大好きだったから」


 並べられた本の背表紙をぼんやりと眺めていると、

「いいんですよ。好きなものを持っていってもらっても」

 とポルカが笑った。試しにひとつ手に取ってみる。背表紙に付いた埃を手のひらで、軽く払って。


「『アンネ・カルネリア』」

 アルトは表紙に記された文字を口に出してみる。この物語のタイトルだ。


「おおー、それを選びましたか。夫婦の物語です。私も大好きな物語なんです。愛していた夫が、別の女性を愛してしまい、心を病んでしまったアンネという名の女性が主人公の話です。良かったら、持っていきますか」

「いいんですか」

「えぇ、私はもう見なくても暗誦できるほど、読み返しましたから」


「じゃあ、せっかくなの――」

「いや、アルトやめておこう。旅において荷物が増えるのは好ましくない」


「別にこのくら――」

「頼む」


 アルトは本を書架に戻して、ポルカの顔を見た。嫌な気持ちにさせてしまったのではないだろうか、と不安になったが、ポルカが気にしている様子はなかった。


「ところで」とポルカが話を変えるように言った。「人形たちにどういう印象を持ちましたか」

「えっ。いや純粋にすごいなぁ、と思いました」


 アルトは正直な気持ちで答えた。


「そうですか。なら良かった。私も彼らのことは、心の底から尊敬しています。ただ、ときおり、どうしようもなく彼らが滑稽で、醜悪に見えてしまう時があるんです。……あっ、いえ、もちろん分かっているんです。自分がどんなに失礼なことを言っているか、なんて。ただ、どうしてもね。やりきれない気持ちになる、というか、ね」


「滑稽で、醜悪ですか」

「えぇ、だって彼らは魂を持った、限りなく人間に近い人形です。だけどそれはどこまでいっても人間になれない。いや彼らに人間になりたい、という意識があるかどうかなんて、私は知りませんよ。でも彼ら自身がどう思おうと、彼らは人間に似せられた作り物です。残念ながら。作り物が創られた物語を演じているわけです。虚構が、虚構を。哀れだと思いませんか」


 ひどい言い方だ、とアルトは素直に思った。


「そんな言い方――」

 とポルカの言葉を制止しようとしたアルトの言葉を、『王夢』がさえぎった。


「私はそうは思わないな」

「『王夢』さん?」

 とポルカが首を傾げる。


「確かに人形たちは、虚構なのかもしれない。人間とは違うかもしれない。でも人間は人間であることを当たり前だ、と思っている。そこに賢しらな悩みを抱く者は驚くほど、すくない。私には時に、そういう人間たちが、滑稽で、醜悪に見えることがある。まぁ何が言いたいか、というと、どっちもどっち、ってことだ」


「あなたには、まるで人間の経験があるみたいだ」

「まぁ、否定はしないさ」

「きっと人間の時は、すごく立派だったはずです。いえ、これは本当に馬鹿にしているわけではなく、素直に受け取って欲しいのですが。そう言ってもらえると、私たちは救われます」


 ポルカが立ち上がり、頭を下げる。そして柔らかい笑みを浮かべて、


「これから長い旅をする、と聞いています。その旅が終わったあと、もし良かったら、また会えませんか」


「それは、どういう」

 とアルトが聞く。


「あなたたちの物語を描いてみたいです。こんな熱情、はじめて抱いたかもしれません。あなたたちの物語を描いて、私は私を縛るものから、ようやく解き放たれるのかもしれない、と何故かそう思えて仕方ないのです。自分勝手なのは分かっているのですが」


「では、旅が終わったら。それがどのくらい掛かるのか、は俺も分からないんですけど。それでも良ければ」

「もちろんです。いつまでも待っております。私は変わらず、いつまでも待てる存在なので」


 ポルカの家を出ると、アルトは『王夢』に聞いた。


「ねぇ、もしかしてポルカ、って」

「あぁようやく気付いたのか。そう、彼も魂を持った人形だ。虚構が、虚構を創っている。その複雑な心を、彼は持ち続けていたのだろう」


「そっか。旅が終わったら、また来よう」

 一緒に、という意味も含めて、アルトは言った。しかしアルトの言葉に対して、「あぁ、そうだな」と返す『王夢』の言葉はすこし素っ気なかった。いつかどこかで、『王夢』との別れが訪れるのではないか。ふとそう思って、アルトは、寂しい、と感じる。まだ出会って日も浅いが、それくらい特別な存在になりつつあるのかもしれない、と。


 宿屋に行くと、アルトは倒れ込むようにベッドに入った。

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