はじまりの村から、はじまる。

 アルトがその鳥をはじめて見たのは、十九の春だった。

 声が聞こえ、目が覚めると、視線の先で、色彩豊かな羽をはばたかせる、大柄な鳥がいた。それは生まれてから彼がずっと住むこの村では見たことのないものだ。


 精霊、と最初に頭に浮かんだのはそんな言葉だった。

 ヤアレルは別名「はじまりの村」とも呼ばれている。それは村の伝説に由来している。最初に人間が住み出す前から、そこに存在していた村。のちに存在するようになる人間のために、未来を視たかつての精霊たちがつくり出した村だ、という伝説があるからだ。村人なら誰でも知っている、嘘のようなお話だ。


 アルトはその噂を信じてはいなかった。

 アルトは幼い頃から、そういった伝説の類を信じる性格ではなかった。その性格ゆえ、村の大人たちから怒られることもすくなくなかった。その性格を表す出来事に、祠での一件がある。精霊を奉るその祠の奥には、供え物の磨きぬかれた石が置かれている。無二の特別な石だ、と村の年寄りたちから聞かされていた石だったが、偶然、アルトはその石と似たような石を拾った。綺麗に磨いて、すり替えてみたことがある。罰が当たることはなかった。そういうことをして、はは、やっぱり精霊なんていないんだな、なんて思っていたのだ。


 決してアルトは悪しき心の持ち主ではなかったが、幼少期はこうやって周囲にいたずらをすることが多かった。ただ根が善良な性格だからか、直接はっきりと分かる形で、他者を困らせることはあまりない。


 アルトには家族がいなかった。そのぽっかりと空いたような寂しさを紛らわせたかったのかもしれない。


 ただ寂しくはあったが、苦しくはなかった。

 アルトには幼馴染がいる。

 彼女はソプラノという名で、アルトは、彼女と彼女の両親と家族のようにして育ち、アルトはソプラノ家の離れで暮らしている。これはアルトがみずから望んだことだ。


『王夢』と出会った時、まず相談したのが、ソプラノだった。あでやかな長い髪の少女は、困ったように、「家の中に変な鳥がいる」と話すアルトを見て、好奇心いっぱいに目を輝かせて、「私も見たい」と言った。


 アルトとソプラノが離れに入ると、ソプラノが首を傾げた。

「どこにいるの? そんな鳥」

「えっ、そこにいるじゃないか」

「どこにもいないよ」


 それはソプラノには見えない。


「私の姿を見えるものは限られている」

 と、『王夢』がアルトに言う。そしてアルトはより、『王夢』が精霊である、という思いを強め、急にむかしのことが怖くなってきて、あの時は石でいたずらをしてごめんなさい、と心で謝った。ソプラノは「嘘つき」とすこしむくれて帰ってしまった。


「俺に何の用なんだよ?」

 アルトは『王夢』への畏怖を隠して、聞いた。


「リンネを救って欲しいのだ」

「それはさっきも聞いたけど、リンネ、って誰?」

「リンネは……、王の愛した悲しき少女の名だ」


 さらに詳しく聞いてみても、『王夢』は答えなかった。ただ、私に付いてくれば、おのずと分かるだろう、と言って。


 アルトは村をぐるりと回ることにした。誰かが、アルト以外の誰かが、『王夢』の存在に気付くことを願って。しかし村人の誰も、『王夢』を視認することができなかった。本当に見えないのだろうか。もしかして村のみんなで俺をからかっているんじゃないのか、と思ったりもしたが、そんなことをしても誰も得をしない、とアルトは考え直す。


「お前はやはり精霊なのか」

 アルトが問うと、

「違う。だが似たようなものかもしれない。お前が私を精霊と思いたいならば、好きに思えばいい」

 と『王夢』が告げる。


「分かった。そして俺は、……そのリンネっていうひとを救うため、どこへ行けばいい?」

「彼女はおそらくいま、『失われた世界』にいる」

「『失われた世界』?」

「いやもちろん、実際にそういう名前の場所があるわけではない。ただ、彼女にとって、そうとしか言えない場所にいる、とそれだけ分かってもらえれば」


「どんなところ?」

「説明は難しいな。まぁそのうち、分かってくるさ。どちらにしてもすぐに行けるような場所ではない。私たちがまず目指すべきは、ここからずっと南西をたどった先にある、エピアだ」

「エピア?」

「リンネの父、エピア王のいる場所だ。骨となって」

『王夢』の声音は寂しげだった。


 すこし悩んだのち、アルトは答える。

「じゃあ、一緒に行こうか」


「……行ってくれるのか」『王夢』が驚きの声をあげる。

「最初からそのつもりだったんじゃ。なんで驚いてるんだよ」

「そうだが、しかしこんなにもすんなり、と私の話を信じてくれるとは思っていなかったから」

「俺はこの村しか知らないんだ。いままで外の世界に憧れがなかったか、って言ったら、嘘になる。この機会を逃がしたら、一生この村から離れることはないかもしれない。なんかちょっと、そんな気がして、さ。自分のためにも、そうしてみたかったんだ」

「……ありがとう」


 一晩、出立の準備をして、旅立ちを前に、アルトは村長の家に向かった。一言挨拶を、と思ったのだ。村長はアルトと向き合うと、静かにアルトの話を聞いていた。こんな話など信じてくれるだろうか、と思うアルトの肩を抱き、


「ひとにはそれぞれの、運命、がある、と私は思っている。お前の運命と対峙する時がいま訪れたのだ」

 と村長がアルトに優しくほほ笑んだ。


 荷物は多少の通貨と短剣のみ。身体に馴染んだ青い外套をまとって、アルトは村の入り口へと向かう。遠出をしたことはある。だけどこんなにも長い期間、家を空けるのは、はじめてのことだ。


 恐怖はある。だけど同じくらいに、未知なる世界に弾む心がある。


 入り口には、村の名前が記された看板があり、高く育った樹木が村の入り口を挟んでいる。


 アルトは深く呼吸をした。


 その時、声が聞こえた。

「アルト!」


 ソプラノの声だ。追い掛けてきた彼女の息は荒く、そして目は赤く潤んでいる。


「なんで一言もないの! 行くなら行く、って……」

「いや、止められそうだったから」

「当たり前でしょ! 私はだって、アルトにどこにも行って欲しくないんだから。別にそんなよく分からない鳥の声なんて無視しようよ。ここでこれからも、一緒にいよう」


「物事をはっきりと言う娘だな」とアルトたちの会話に挟み込むように、『王夢』がつぶやく。

「……帰って来ないつもりはないよ。もちろん」

 アルトが困ったように言葉を返す。


「私、夢を見たの。きょう。アルトともう会えなくなってしまう夢。私の前にアルトの背中があって、私がどれだけ追い掛けても追いつけなくて、どれだけ手を伸ばしても触れない。ただどんどん闇に向かっていって、最後にあなたが消えてしまう」


 ソプラノの目じりからしずくが垂れ落ちていく。


「大丈夫だよ。ちょっとしたお出かけだよ。すぐに帰ってくる」

 心配させないよう、アルトは軽い調子を装って、ソプラノに伝える。彼女はそんなアルトをじっと見つめていたが、ちいさくひとつ息を吐き、おのれの髪を束ねていた髪飾りを外して、アルトの手の中に入れた。


「じゃあ、お願い。約束して」

「約束?」

「うん。これはアルト、あなたに貸すだけ。絶対、私に返しに来て」

「……分かった。絶対に返しに戻ってくるから」


 アルトはソプラノに背を向け、歩き出した。アルトの耳もとに、『王夢』の羽をはばたかせる音が聞こえてくる。いまのところ、アルトにしか聞こえない音は、すこしだけ彼を不安にさせた。自分はもしかしたら、とんでもない運命の中に放り込まれてしまったのかもしれない、と。


 アルトは渡された髪飾りをぎゅっと握りしめる。


「これからどうなるんだろうな、俺たち」

「大丈夫だ。ちょっとしたお出かけだ。すぐに帰ってくる」

「おい、俺の言葉を真似るなよ」

「いや、すこしは安心させてやろうかな、と思って」

「なんか不安になってきたな。というか、『王夢』が来なかったら、いままで通りの日常が続いてたわけなんだから、もうすこし責任を感じろよ」

 と軽口を叩きながらも、その『王夢』の言動に、そして『王夢』という存在に慣れてきている自分自身に、アルトは思わず笑ってしまった。『王夢』の気づかいが嬉しかったのだ。


「じゃあ進もうか。最初に行く街はどうしよう。エピア、って遠いんだろ。たぶんだけど。そこに行くまでの、まず目指すべき、第一の場所は」

「このまま西に行けば、森がある。そこを抜ければ、フレンツに着く。行ったことは?」


「何度か、村のひとに連れて行ってもらったことがある。あんまりゆっくりといたことはないけど……、文化の街、って呼ばれてるところだよな」

「あぁ、とても素敵なところだ。そこへまず経由して、支度を整えて、次の場所を目指そう」


 長く歩を進めて、アルトの視界に鬱蒼と生い茂った、霧深い森が入ってくる。

 ここからが本当の旅のはじまりだ、とアルトはその一歩を心なしか大きく踏み出した。

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