第6話 プロポーズ(終)
妻マリーは、その日、夫に誘われて外食をしていた。
夫ケビンは、妻を誘って、外食をしていた。
店はケビンが選んだ。
王都で流行りの、3ヶ月以上前から予約をしないと入れない店だ。
「ケビンさん。こんな素敵なお店につれてきてくれてありがとうございます」
「私の方こそ、一緒に来てくれてありがとうございます」
「そんな、当然じゃないですか。だって、わたし達……」
「私達?」
「ふ、夫婦、なんですから」
言ってしまった! とばかりにモジモジと照れる妻マリー。
楽しそうである。
真顔になるケビン。
何かに耐える修行僧のようである。
「こういうカップル御用達のお店にも、ずっと入ってみたかったんです。でも、独身だと、なんとなく入りづらくて……」
「ああ、分かります。敷居を高く感じてしまうんですよね」
「はい。特に、こういうお店はなかなか手が出なくて」
「ちょっとしたデートというより、記念日とかに入るようなお店ですもんね」
「そうなんですよ。だから、今日はとても楽しみで。ケビンさんと結婚したおかげですね。本当にありがとうございます」
妻マリーはいつもどおり、いやいつもに増して、夫ケビンに感謝した。
「綺麗な夜景……」「ケビンさんのお店選びのセンス、素敵です……」という彼女の呟きは、しっかりと夫の耳に入った。
夫ケビンは真顔だった。
「だめだ……まだ、今じゃない。耐えろ、耐えるんだ……」という彼の呟きは、妻には届かなかった。
食事は素晴らしかった。
美味しさだけでなく、見栄えも伴う最高級シェフの料理に、二人は舌鼓をうった。
「どれも本当に美味しいですね。素晴らしい料理だ」
「はい、本当に。見た目も美しくて楽しいです。ところどころ、カップル用の意匠になってるのが、なんだかちょっと照れますが……」
カップル御用達の店だけあって、料理のデザインもカップル向けだった。
二人は夜景の見える横並びの席に座っていたが、二人の皿にソースで書かれた鳥がお互いの方を向き合っていたりと、ちょっとしたところで二人の幸福な関係を思わせるような配慮に満ちていた。
デザートが終わり、二人は夜景を見ながら、カクテルを楽しむ。
二人は契約結婚である。こういう時、夫ケビンは妻マリーの肩を抱き寄せたりしないし、妻マリーは夫ケビンの肩にしなだれかかったりもしない。
けれども、素朴なふたりは、本当に幸せそうな顔で夜景をみつめていた。
「こんなふうに、こんなに素敵な場所で、夫婦デートができる日がくるなんて思いませんでした」
「マリーさん」
「ケビンさん、本当にありがとうございます。わたし、とっても幸せです」
潤んだ目で、マリーはケビンにお礼を言った。
本当に、マリーは幸せだった。
こんなにも幸せで大丈夫なんだろうかと、心配なくらいだ。
ケビンは、深呼吸した。
さっと手を上げると、背後からウェイターが真っ赤な薔薇の花束を持ってくる。
目を見開くマリーに、ケビンは花束を差し出した。
「マリーさん」
「……はい」
「私と、結婚してくれませんか」
突然の夫の申し出に、マリーは頭が真っ白になった。
マリーはもう既に、目の前の夫と結婚していなかっただろうか。
動揺したマリーは、動揺したまま不安になり、「もう結婚しています……」と呟いた。
「あっ、そうだ! もう結婚していました」
「はい。あ、なるほど。これも演出ですね。ケビンさんはすごいわ、まさかプロポーズ体験まで」
「ち、違います!」
「プロポーズじゃない?」
「ああ、いえ、プロポーズです! で、でも、違うんです……」
ケビンは、しどろもどろで、必死に言葉を紡ごうとしている。
そんな彼を見て、マリーの心のうちに、とある疑念が膨らんだ。
「ケビンさん」
「はい」
「あの、もしかして、本当にプロポーズを?」
「……はい…………」
真っ赤になって俯いた夫に、マリーは呆然とした。
今までの夫婦生活が、走馬灯のようにマリーの脳裏に浮かぶ。
毎朝、偶然出会っていた、ジョギング中のケビン。
マリーに初めて指輪を買ってくれたケビン。
いつだって、口に出すことなくマリーを支えてくれたケビン。
ケビンといる心地よい家。
マリーがいつも見たいと思っている、ケビンの笑顔。
残業で遅くなるケビンに合わせて、わざと遅い時間に食卓でコーヒーを飲んでいたのは、本当にジンクスのためだけだったのか。
ブワッと赤くなったマリーに、同じく
「マリーさん」
「は、い……」
「私は、マリーさんに恋をしてしまいました」
「ええっ?」
「人を好きになることが分からないと言っていたのに、こんなことになってしまって、その、申し訳なくて……でも、この気持ちをこれ以上隠すことができないんです」
ケビンは改めて、花束をマリーに差し出す。
マリーはその姿を凝視していた。
「マリーさん。私と、本当の夫婦になってくれませんか?」
マリーは困っていた。本当に、困り果てていた。
マリーは本当に、色恋沙汰に疎いのだ。
今まで好きな人がいたこともなく、だから、こういうときどうしたらいいのかさっぱり分からない。
けれども、ケビンに花束を差し出されて、恋をしたと言われ、それがとても嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて、その場で涙が出てしまうくらいには、幸せだったのだ。
「ケビンさん……」
「はい」
「わたし、恋も愛も、全然分からなくて」
「はい」
「でも、すごく嬉しいんです。とても、幸せで」
マリーは笑った。
いつもどおり、ニコニコ笑った。
それはそうだ。マリーはいつでも、ケビンのおかげで最高に幸せだった。
だから、最高に幸せな今この瞬間、同じ表情になるのは当然なのだ。
「だから、あの……お友達からはじめませんか」
「……もう友達だし、夫婦です」
「あっ、そうでした。ええと、では、その、どうしましょう」
「こ、恋人、からでは、どうですか」
「恋……人……!」
恋人というパワーワードに、二人は震えた。
そして、
「す、すごい。まさか、自分が……『恋人』の仲間入りを……」「恋人って何をするんでしょう……」「分かりませんが……手をつなぐとか?」「なんだか、いっぱいデートをしないといけない気がします」「いっぱいデートしましょう」「はい……」というのが、その後の二人の会話である。
その日の帰り道、二人は初めて手を繋いだ。
二人とも、手が汗でしっとり濡れていた。
けれども、とても幸せだった。
「ケビンさん、わたしと結婚してくれてありがとう」
「マリーさん、私と結婚してくれてありがとう」
二人は夜空を見上げながら、仲良くお礼を言い合った。
幸せな契約結婚が、幸せな本当の結婚になる日は、そう遠くなかった。
契約結婚生活が幸せすぎて毎日夫に感謝していたら夫からプロポーズされました 黒猫かりん@「訳あり伯爵様」コミカライズ @kuroneko-rinrin
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