第3話
「ただいま、おかあさん」
「はーい、おかえりー」
時刻は午後5時半にさしかかっていた。
私は母・笠島暁音とここに2人で住んでいる。
父はいない。いないものとして扱う。それが、母との暗黙の了解。
「ニコちゃん、今日シチューにするつもりだったのに、にんじんがなくて……ごめんね。代わりにカリフラワーで代用したけど」
にんじんの代わりに、カリフラワー……少々理解が追いつかないが。
「大丈夫。私カリフラワー好きだし……ん?」
白と黄色の混在した美味しそうなシチューにはカリフラワーと、ジャガイモと、そして……。
「カリフラワーとブロッコリー、両方入れちゃったの……」
鍋を数秒見たのち、母の方を見た。
母の表情は予想と違い、少々冗談みが混じっていた。
もしかして、わざとか?
「あちゃ……」
「ごめんねっ!」
てへぺろ、とアラフォーが舌を出している姿はなんとも滑稽だ。
「ところで。今日はなんかいいことあった?」
「え?なんで?」
どういう意味だ?
水筒の中身をコップに移し替えながら聞き返す。
「なんか頬緩んでた。ニコちゃんらしくない」
「えっ」
特にいいことの心当たりはないが……もしあんな道路標識のせいで緩んでたのなら、恥ずかしいことこの上ない。
「なに〜?好きな人でもできたのかな〜?」
「いないよ。というか……」
言いかけた言葉を飲み込んだ。
「好きになったこともないし」
「ほーん…つまんないの」
その日はもう、特に何もせず寝た。
布団の中で微睡みながら、ふと頭によぎるのは、あの道路標識との会話だった。
——————
翌日の朝。
あの道路標識の前で止まり、こんこん、と表面をノックしてみた。すると、
「いった!いきなり叩くなよな……」
という、道路標識の声がした。
痛覚があるのか。神経が通って……る、わけないよな。深く考えるのはやめておこうか。
「痛覚あるのか……そんなに強く叩いてないよ。何、皮膚……表面弱いの?」
言ってから、こいつは人間ではなかったことに気づいて訂正した。
もちろん、見た目は完全に人間ではないが……こう喋っていると、忘れそうになってしまう。
「そりゃあるよ。ああ、俺を作る時、麻酔打って欲しかったな……」
「道路標識の"弱い"表面に刺さる注射があるならね」
すかした冗談を言ってみる。
「……そうだ。そういえば、聞きたいことがあったんだよ」
「あ?会話は1つにまとめろよ……?」
あんたが言えたことじゃないだろう。
散々話広げて散らしやがって。
「聞きたいことってなんだ?」
「あんたが喋れるのって、誰かに話していいのか?」
標識がうめいた。んに濁点をつけたような声だ。
そのあと、呆れたようにこう言った。
「あのな……別に話してもいいが。頭おかしくなったと思われるだけだぞ?」
誰もそんなこと言ってないだろ。
「別に聞いただけで、話すとは言ってない」
「ああくそ、やられた。こいつ、なんで普通の高校通ってるんだよ」
何がやられたなのかはわからないが、褒められたと思うことにしよう。
「ま、バレても大丈夫ならいいや」
「お、おう……あ、忘れてた。ひとつ」
なんだ?もうそろそろ学校に向かいたいのだが。だいぶ時間が押している。
「俺以外との道路標識とも話せるからな、仲間に伝達しといた。俺と話したJKがいるって。1回話しかけてみるといい」
「はぁ?ちょ、いきなりそんな……騒がしい気しかしない」
「…………って、なんか言えよ」
……返事がない。ただの道路標識のようだ。
そうだな。それにしても、一体どういう理屈だ?やっぱり考えないことなんてできない。
存在自体がファンタジックにしても、理屈くらいあるはずだ。
本人もモノだと言っていたが……本当に、ただのモノに意識がやどるのかな。
いや、最初からただのモノじゃなかった可能性もあるし。
……あれかな?大事にしていたモノには人の意思が宿る……みたいな。
数秒考えを巡らせた後、結局考えるだけ無駄だという結論に至った。
自分の常識で理解できないことは、受け入れる他ないだろう。
もう寄り道する時間もないな。
自転車を押すのをやめて、漕いで学校へ向かった。
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