【短編】無人島ハネムーンで殴り合え

おもちさん

無人島ハネムーンで殴り合え

 見渡す限りの大海原が真っ赤に染まる。沈みゆく太陽が、今日という日の終りを告げようとしていた。


 そのパノラマ景色を、窓越しに眺めるリンタロウは、船旅を心から愉しんでいた。風光明媚は、疲れがちな現代人に効く。何度見ても飽きないと思う。


 そんな彼の傍らには愛妻のユリが寄り添う。これは単なる旅行ではなく、長期間のハネムーン。今のリンタロウはまさに、幸せの絶頂期にあると言えた。



「良い夕焼けだね」



 バルコニーの外は絶景だ。どこを見ても地平線で、視界を遮るものは何もない。母なる海を我が物顔で疾駆する体験は、未知なる快感を伴った。


 隣のユリも、たおやかに微笑んでは同意する。



「素敵よね。ここまでキレイな景色って、初めて見るかも」


「僕もだよ。中々お目にかかれるものじゃない」


「本当にありがとう、リンタロウ」


「船旅をチョイスした事?」


「それもだけど、私なんかと結婚してくれた事。こんな幸せが手に入るなんて、少し怖いなって思う」


「大げさだな。僕はごく平凡な男だよ」


「でも、凄い血筋だって聞いた事があるの」


「凄かったのはもうホント、遥か昔の事さ。それにウチは分家も分家でね。しがらみとか、役得みたいなものは全然ないよ」



 確かにリンタロウの祖先は、偉業を成し遂げたという事実がある。しかし彼は、自分と無関係であると常々感じていた。そもそも何を成し遂げたかすらも知らない。


 幼き頃、曽祖父から何か聞かされた覚えはある。しかし肝心の内容はというと、全てが記憶の彼方だ。


 大人になるまで気にも留めなかったし、今現在まで、知らずに困ることも無かった。やはり自分の人生とは関係ないのだと、リンタロウは思う。


 

「ユリ。こちらこそ、気持ちに応えてくれるとは思わなかった。望外の喜びだよ」


「そう……。私はこんなにも醜いのに。どこを気に入って貰えたのかすら、分からないけれど」



 ユリは伏し目がちに自虐の弁を語るが、実際は真逆である。絶世の美女、あるいは傾国の美女とも呼べる程の美貌を誇る。この船に寝泊まりする間でさえ、男連中の視線を嫌になるくらい集めたものだ。


 更に言えば、外見だけでなく高い知性も魅力的だ。知識が豊富というタイプではなく、洞察力に優れるタイプだ。まさに才色兼備を体現した女性だった。


 それなのになぜ、ここまで卑屈なのか。リンタロウとしては気になった。何か人に話せない秘密があるのかもしれない。


 彼女の心を縛るものは何か。業か、経歴か、あるいは生まれ育ちなのか。その秘密について探る事も、彼の密やかな目的だった。非日常を過ごす長旅において、人は心を無防備にしがちだ。ハネムーンなど、まさにうってつけである。



「ユリ。僕はね、もっともっと君の事が知りたい。まだ出会って1年足らずだから、全てを知り尽くすには早いと思うけど」


「私は、少しだけ怖いかな。嫌われてしまいそうで」


「そんな事無いって。たとえどんな事実があったとしても、必ず受け止める覚悟だよ。むしろ、今よりも好きになっちゃうかもね」


「ありがとう……。その言葉だけでも十分嬉しい」



 リンタロウは返事を聞くと、片手を差し出した。エスコートのつもりである。



「さてと。少し早いけど晩御飯にしようか。日が暮れた後じゃ混むだろうし」


「昨日のお肉、また食べられるかな。とても美味しかった」


「どうだろ、行ってみないとね」



 それから2人はレストランエリアへ向かった。ユリの希望もあったので、ブラジル料理をチョイス。


 オーダーの後、2人分のチーズパンと海鮮シチューが並ぶ。テーブル中央には大皿盛りのシュラスコだ。リンタロウは見ただけで胸焼けを覚えるが、ユリは嬉しそうだ。



「それじゃあ、いただきます!」


「う、うん。無理しなくて良いからね」



 ユリは食事の作法までも美しい。さながら映画のワンシーンを思わせる優雅さだ。特に串肉を齧り取ろうとする様など、楽団のフルート奏者も同然ではないか。


 そのようにして食べ進める姿を、リンタロウは、ただ見惚れた。食事量はほどほどに、その代わりワインを多めに過ごして、お終いとした。



「いやぁ美味しかったね。ブラジル料理って特に馴染みは無かったけど、結構好きかも」


「リンタロウ。あまり食べて無かったようだけど」


「ちょっとワインを飲みすぎてさ、水っぱらになった」


「なら酔い醒ましした方が良いかな。デッキに行って夜風にでも当たる?」


「良いねそれ。夜の海もきっとキレイだよ」



 既に日は暮れ、一面が漆黒の闇だ。星空は見えるものの、船が放つ煌々とした灯りが邪魔である。もし仮に自前のクルーズ船であったなら、あらゆる灯りを消して夜空を堪能したい所だ。



「アハハ、あんまり見えないね。夕焼けの方が見応えあったかな」


「そうかもね。だけど、これはこれで好き」


「悪くないよね。1つひとつの体験が宝物さ」



 リンタロウは、手すりに両腕を乗せて寄りかかった。頬を打つ冷たい風が心地よい。目を細めて愉しんでいると、ユリも隣に立ち、リンタロウを真似た。そうして2人肩を並べて、夜の海を眺め続けた。


 やがて、ユリが静かに口を開いた。どことなく、押し殺したような声だ。



「ねぇ。本当に、私の事が知りたい?」


「もちろんだとも。嘘偽りはないよ」


「そう。本気なのね……」



 その時だ。リンタロウは背中に衝撃を受けた。押されたか、あるいは鈍器で殴られたか、そんな感覚だ。


 怪我を心配するだけの猶予はない。なぜなら彼は、力づくで押し出されたからだ。そのまま夜の海へ真っ逆さまだ。



「うわぁーー!?」



 一体誰が。落下の最中、懸命に視線を向けた。しかしデッキに犯人の姿は見えない。その代わり、ユリがこちらに迫る姿が、眼に飛び込んできた。


 彼女もリンタロウの後を追って、身を投げだしたのである。そうして、2人揃って船外に飛び出す事となった。



「プハァ! 何を考えてるんだ、危ないじゃないか!」


「だってリンタロウはお酒飲んでるし! 1人きりにしたら死んでしまうわ!」


「うっ……。今はとにかく、助けを呼ばないと」



 海面から見上げて見たものの、やはりデッキに人影は見えない。緊急事態を知らせるには、声で気づかせる他なかった。



「おおーーい! 海に投げ出されたぞ、助けてくれーー!」


「ここに2人居ます! どなたか聞こえませんかーー!」



 懸命に叫ぶものの、船上の気配は変わらない。愉しげに笑う声や、優雅なクラシック音楽が、最大限の皮肉として聞こえてくる。



「埒があかない。船の外側に、救命用のボートや浮き輪が無いか探してみよう」


「う、うん。分かった」


「辺りは真っ暗だ。絶対に手を離さないようにね」



 ユリと固く手を結ぶ。そして、いざ泳ぎだそうとしたところ、リンタロウは違和感を覚えた。



「えっ、何だ。引っ張られる……ッ!」


「リンタロウ!?」


「離れてユリ! うわっ!」



 リンタロウは突如、強い力で水中に引き込まれた。腹に何かが巻き付いている。解こうにも、力では全く敵わない。少なくとも素手では、対抗しようも無かった。


 やがて息が切れるころ。口から大量の空気が溢れ出し、代わりに海水が体内へと流れ込んできた。


 ユリの手を事前に離したのは正解だった。先程、手を握ったのは一緒に生還する為であって、死期まで共にするつもりはない。



「まさか、こんな最期だなんて……!」



 こうして暗い外海の中で、意識を手放した。その後の事は何も覚えていない。ただ微かに、頬が硬い地面に触れた感覚だけ、あった気がする。それが夢か真かは定かでない。


 それからどれだけの時間が流れたろう。リンタロウは、奇跡的にも意識を取り戻した。



「ここは、一体……?」



 朝焼けの美しい日差しが視界を照らす。そこは一面が荒々しい岩肌で、人影はおろか、文明の名残すら見られない。


 リンタロウは、無人島へと漂着してしまったのである。






ー2ー



 リンタロウは強い目眩を覚えてよろめいた。肉体の疲労も、状況の飛躍も、彼の心身を激しく苛む。



「どうしてこうなった。僕は船に乗って、ハネムーンを……」



 そこで脳裏に電撃が駆け抜ける。何を差し置いても大事な事を、ようやく思い出したのだ。



「ユリはどうした!? まさか、あの化物に……!」



 リンタロウは半狂乱になって名を呼んだ。そして狭い島内を駆けずり回る。端から端まで、せいぜい徒歩数分の広さだ。くまなく捜すのに、大した時間は掛からなかった。



「どこだ、ユリ! 返事をしてくれーー!」



 返答は無い。そもそも生きていたとして、同じ島に流れ着くとも限らない。理性では勘づいていても、叫ばずには居られなかった。


 だが、想いが天に届いたらしい。岩場の陰に隠れた波打ち際に、1人倒れ伏す女性を見つけた。


 長い黒髪に青のカーディガン、そこまで見た瞬間には駆け寄った。



「ユリ! 大丈夫か、しっかりしろ!」


「……ウェッ。ゴホッゴホ!」


「良かった、気がついた!」



 リンタロウは、ユリの半身を起こしては、強く抱きしめた。抱き返される力は弱々しいものの、生命の温もりが感じられた。



「本当に良かった、君が無事で。それだけでもう……」


「リンタロウ……。私達、助かったの?」


「ええと。それについては、まだ分からない」


「でも、陸地に来れたんでしょう?」


「まぁね。陸は陸かな」



 ロケーションは最高に最悪だった。四方八方に島影は見えず、自力での脱出は不可。


 次善の策は、島の資源を活用し、どうにか生き延びながら救助を待つ方法。しかし、それも不可。


 ここは一面が岩場という、巨大な岩礁だった。まともな草木は1本すら生えておらず、大地の恵みなど皆無。つまり果実やキノコを食料にするだとか、草葉や棒切を活用する、という手段を取りようがないのだ。


 絶望的な環境下だが、リンタロウはユリに微笑んだ。ともかく不安感を払拭してやりたかった。



「とにかく、腐ってても始まらない。少しでも使えそうな物を集めていこう」


「うん。やれる事は何でもやろう」


「体は大丈夫? 立てる?」


「たぶん平気」



 こうしてリンタロウは、百人力の想いで探索を始めた。だが、再考するまでもなくスペースは狭く、そして乏しい。何かを作ろうにも材料が全くない。家屋、寝床、火を起こす燃料さえもだ。


 それでも、冷静に探してみると発見はある。完全な岩場という訳ではなかった。



「ここら辺は少し苔が生えてるね。養分はどうしてるんだろ?」


「ねぇ、ここに小さな水たまりもあるわ。魚とかは居ないけど」


「そっか。雨でも降ったのかな」



 それからは波打ち際へと降りてゆく。砂浜があるのではなく、段々に連なる岩場が海面に続いているだけだ。高低差が厳しいので、登り下りには注意が必要だ。



「ユリ。危ないから、君は上で待ってなよ」


「一緒に居させて。また海に落ちたらと思うと、心配で仕方ないの」


「いや、あの日は誰かに押されたからで……。ンンッ!?」


「どうしたの? 何か気になる事でも?」


「そうだよ。そもそも誰の仕業なんだ?」



 今でも、背中の衝撃は克明に思い出せる。人がぶつかった等と言う生易しいものではない。何か、強い意志を感じさせる、強烈な力だった。


 しかし落下中、すかさずデッキの方を見返したのに、人の姿は無かった。妻のユリが居ただけだ。



(だとすると、ユリが犯人って事になるけど……いやまさか)



 それは立ち位置からして有り得ない。リンタロウの隣に立ち、両手を手すりに預けていたからだ。人体の構造上、ユリが背後から襲うなど不可能だ。


 それにリンタロウが落ちるのに合わせて、彼女も船から飛び降りた。身の危険を一切顧みること無く。もし犯人ならば、まず自分の安全を確保した上で、アリバイ工作を企むハズだ。


 つまりユリは無実。犯行は第三者のものと考えるべきである。



「そうだよ、一瞬でも疑った事を恥じるべきだ。そもそも犯人が分かったところで、今は何の役に立たない」


「どうかしたの? さっきからブツブツと」


「ううん。ごめん、気の迷いだから」



 改めて波打ち際を探ると、意外や意外。流れ着いた文明を手にする事ができた。



「これは、ペットボトルのキャップかな。何も無いよりマシかな」


「こっちにはプラスチックのボウルが落ちてるわ」


「アハハ。投棄ゴミの類だろうね。海を汚された結果だけど、おかげで助けられたよ」



 一応の収穫を手にして、再び岩場へと戻った。


 資源が皆無と思われた岩礁だが、何かしらある。漂着物という形で、海の恵みに預かる事が可能だった。運に頼る部分が大きすぎるものの、贅沢は言っていられない。



「しかしマズイな。漂着物頼りだと、長くは保たないぞ」


「食料源が無いものね」


「それもだけど、水源が無いのは致命的だよ。湧き水の1つでもあれば、結構違うんだけどさ」


「やっぱり、海水を飲むのは危険なの?」


「塩分が濃すぎるからね。いくらガブ飲みしたって、排尿量に負けちゃう。トータルでマイナスなんだ。だから大体は、海水を蒸留させるのが定番だけど……」



 その時、リンタロウは岩場の水溜まりを見た。雨水であれば辛うじて飲める。最早、衛生面など二の次だ。


 期待半分。指先を水面に浸し、舐めてみる。だが透かさず吐き出した。



「ダメだ、これは海水だよ」


「そうなの。残念ね」

 

「いや、待てよ。ボウルとキャップか。土台は岩で作れば良く……」


「リンタロウ。どうかしたの?」


「水源が出来るかも。効率は最悪だけど」


「本当に!?」


「待ってて。少し試してみるから」



 リンタロウは、周辺から小岩を集めた。サイズはなるべく揃うよう選ぶ。それを水たまりの周辺に並べて、台座らしき物を作る。その上に、海水で満たしたボウルを設置。


 また、水たまりの中央に平たい岩を置く。そこにペットボトルのキャップを上向きにして設置。こちらは受け皿だ。


 最後に、脱いだワイシャツで装置をグルリと囲めば完成だ。


 

「出来たよ。自然蒸発による蒸留装置だ」


「凄い……。本当に有りモノで出来ちゃった……」


「さっきも言ったけど、効率は悪いよ。本当は沸騰させたりするんだけど、ここには燃料も着火装置も無いからね」


「ううん。あるだけで十分だと思う。ところで寒くはないの?」


「今のところは、Tシャツだけでも堪えられそう」


「寒くなったら教えてね。いつでもカーディガンを貸してあげるから」


「そしたら君が、ワンピース1枚になっちゃうでしょ。そのまま着てなよ」



 そんな会話を重ねるうちに、リンタロウは違和感を覚えた。やがて寒気を誘うようになる。


 その様子を目の当たりにしたユリも、すかさず異変を察知した。



「ねぇ、リンタロウ。少し気になるんだけど……」


「分かってる。島が、この岩礁が小さくなってるよ」


「もしかして潮が満ちてきた?」


「マズイぞ! 潮溜まりがあるって事は、ここまで海水が来る!」


「どうしよう、また海に飲まれたりしたら、今度こそ!」


「ともかく一番高いところへ避難しよう!」


 

 リンタロウは、せっかく整えた水源をバラした。そして僅かな資源を携えつつ、一層狭い岩場を登り詰めていく。


 日が暮れるに従って、海水は上昇を続けた。その成り行きを、2人は祈る気持ちで見守った。


 結論から言うと、両者は無事である。満潮であっても、彼らが逃げ込んだ岩場だけは、水没を免れたのだ。



「はぁぁ……辛うじてって所だね」



 避難所は平たく、一応のスペースがある。リンタロウは岩場に直接寝そべった。


 それと同時に左腕をユリに枕として与え、右手にはキャップ入りのボウルを持つ。こんな状況で夜空を見上げるなど、もちろん未経験の事で、想像した事すら無かった。



「何だか、とんでもない事になったな。せっかくのハネムーンだったのに」


「そうだね。少し残念ね」


「気のせいかな。ユリが、これまでで一番生き生きして見えるけど」


「そうかな。おかしいかもしれないけど、次に何が起きるかワクワクしちゃって。不謹慎だよね……?」


「アハハ。まぁ、パニックになって泣き喚くよりは、遥かにマシだと思うよ」


「ごめんなさい。リンタロウが真剣になる隣で、ヘラヘラしてて」


「気にしないで。むしろ君の新たな一面が見れて、嬉しいくらいだよ」



 非日常は人の心を丸裸にする。そして隠された本質が露わになるのだ。


 船旅前は、ハネムーンにそんな意図を含めていた。今は予定を大きく変わりはしたものの、少しずつ成果が現れ始めた。リンタロウは素直に喜ぶべきかと、苦笑を堪えきれない。


 何はともあれ、当面の目標は生存、そして脱出である。夜風の吹き付ける中、互いに身を寄せ合って眠りについた。






ー3ー



 リンタロウは眩しさで目が覚めた。洋上に浮かぶ太陽を遮るものは、何一つ無い。



「もう朝か。今は何時くらいだろ……イデデッ!」



 呻いた後に身を起こすと、今度は激痛に見舞われた。腰や背中が弾け飛びそうである。岩盤の上で直に眠ると、ここまでダメージを受けるものかと、痛みによって教わった想いだ。



「寝床は何か工夫したいな……。ところで、ユリはどこだ?」



 目覚めると、隣に居たはずの妻が居ない。慌てて四方に目を向ければ、すぐに姿を見つけた。先行して寝床の岩場から降りていたのだ。


 潮は既に引いており、岩礁も当初の広さを取り戻していた。リンタロウは速やかにユリの元へ向かった。



「おはよう。突然居なくなったから、心配したよ」


「ごめんなさい。昨日の装置を準備していたの。見様見真似なんだけど」



 その言葉に偽りはない。等間隔に積んだ岩、海水で満ちたボウルを乗せ、その真下に受け皿のキャップ。


 どこにも落ち度がないどころか、実に整然としている。これにはリンタロウも素直に驚かされた。



「凄いな、完璧だよ。1回見ただけで、細かなバランスまで再現するだなんて」


「うふふ、ありがとう。あとはワイシャツを巻き付ければ完成するのだけど」


「そうだね。夜は冷えるから着込んでたんだ」



 仕上げはリンタロウが施した。と言っても、脱いでグルリと巻いただけだ。



「よし。それじゃあ、次の仕事だ。どうにかして食料を見つけよう」


「賛成。さすがにお腹が減って、辛く感じてたの」



 今日も岩礁を探し回る。時間が早いせいか、潮溜まりの数が昨日よりも多い。収穫に期待が持てたのだが、結論、空振りであった。



「何も無しか……。魚の一匹でも迷い込んでたらなぁ」


「ねぇ、やっぱり海で見つける以外に方法は無いと思う」


「そうかもしれない。でも釣り竿もエサも無いし、素潜りだって危険だろう。迷いどころだよ」



 昆布、海苔、何でも良いから食えそうなものよ見つかれ。


 そう念じながら狭い岩場を彷徨うものの、無いものは無い。仕方なく、更に下へと降りて、波打ち際までやって来た。



「潮の流れが分からないもんな。命綱も無しに飛び込むのは自殺行為だよ……」



 足元に注意を払いつつ探索。すると今度は成果があった。あまりにも異質なものが、知らぬうちに漂着していたのだ。



「何だこれ。木箱だよね?」


「そうだと思う。でも、どうしてこんな所に?」


「輸送船から落っこちた、とか? それよりも運び上げよう」



 木箱は大きくない。両手で抱えられるサイズだ。そして見た目ほど重たくも無かった。最悪、空っぽの可能性もある。


 今度こそ成果が欲しい。そう祈りつつ、広い岩場へと戻った。そして手頃な岩を叩きつけて、木箱を端を破壊した。その中身はというと……。



「ううっ……。何も無いかなぁ」


「待って。隅っこに何かあるわ。リンタロウの位置からじゃ見えないのかな」


「死角にあるって事? じゃあこの辺かな」

 


 開けた穴から腕を突っ込み、まさぐる。すると指先が何かに触れた。同時に金属音も鳴る。


 喜び勇んで腕を更に押し込み、次は全指で強く掴む。ビニル包装の感触。久しぶりに文明を肌で感じると、それを力任せに引き寄せた。



「缶詰だ……しかも2缶セット!」


「良かったわね! 白桃と黄桃ですって、美味しそう」


「甘さ控えめのカロリーオフか。今だけは、逆にカロリーを増やして欲しいけどね」



 健康志向の是非はさておき、缶詰の形状が気掛かりだ。彼らは缶切りも刃物も持ち合わせていない。最悪、岩で叩き壊す事も考えなくてはならなかった。


 しかし杞憂だった。缶詰はいずれもプルトップ式。この時ばかりは、プルタブが救世主のごとく眩(まばゆ)く見えた。



「開けられるね、開けちゃうよコレ」


「どうぞどうぞ」


「ではご開帳……うわぁ〜〜」


「ほわぁぁ〜〜」

 


 銀色の容器の中に、目もくらむ程に均整な、金色の果実を見た。潤沢なシロップスープも垂涎ものだ。濃厚な甘い香りが、頭痛にも似た喜びを引き起こしてしまう。



「それじゃあ、ユリからどうぞ」


「いやいや、ここは旦那様から」


「ええと、ありがとう。お言葉に甘えまして。記念すべき一口目を」



 手づかみ、大振りな果実を齧る。脳を貫かんとする糖質は、もはや暴力であった。危うく気絶しそうになる。



「ジューシー、とにかく甘い。君も食べてみなよ」


「じゃあ私も失礼して」


「先を譲ってくれたから、続けて2口どうぞ」


「ハムッハム。んん! 美味しい! ダダ甘いけど美味しい」


「きっと普段の暮らしじゃ、ここまで感動しなかったよね」


「じゃあ今度はリンタロウの番ね。2口続けてどうぞ」


「良いの? 悪いねぇ」



 ハムッハム。2クチドーゾ。ハムッハム。


 そうこうするうちに、黄桃の果実は完食。そしてシロップスープの回し飲みまで、滞り無く完遂した。



「ズゾゾッ。ふぅ、ごちそうさま〜〜」


「どうかな。多少は満足したかな?」


「うん、ひと心地ついた気分。リンタロウは?」


「僕も一応は。それにしても、1缶を丸っと食べちゃったね」


「そうね、さすがに暴挙だったかしら……」



 貴重極まる食料だった。それをイチャつき半分で平らげてしまった。恐らくは、濃厚な甘い誘惑が、計画性や危機感を消し飛ばしてしまったのだろう。


 何にせよ猛省すべきである。



「じゃあね、残りの1缶は大切にしよう。最後の砦として」


「その方が良いかもね。ルールを決めておかないと、すぐに食べ尽くしちゃいそう」


「まぁ、他にも食料が見つかれば、口うるさく言う必要も無いけどさ」



 それからも捜索は続けられた。しかし、幸運も長続きせず、新たな漂着物を見つける事は無かった。


 結局、半日がかりで手に入れた物と言えば、キャップ1杯分の真水だけだ。今の蒸留装置では、この生成量が限界である。


 僅かな水であっても、回し飲みして分け合った。



「ふぅ、やっぱり水源が厳しいね。この先もキャップ1杯だけだと、脱水症状でピンチになるな」


「そうは言っても、漂着物に頼るしかないのよね?」


「悔しいけど、運頼みだね」


「運次第なら、凄く良いものが流れ着く事も有りえるよね。例えばミネラルウォーターとか、紙パックのジュースとか」


「それ良いね」


「災害用品セットとか、キャンプグッズとか」


「それ最高だね、だいぶ楽になると思うよ」


「楽観視するのは危ないけど、希望を捨てるのも良くないと思うの。だから今は、明日に流れ着くものを考えながら過ごしましょ」


「そうだ。君の言う通りだよ。どうにもならない事で悩んだって、何も解決しないしね」



 リンタロウは、肩の荷を降ろした気分になる。それからは何が欲しい、何が嬉しいと、漂着談義に華を咲かせた。



「次の缶詰は別のジャンルが良いよね」


「別って、リンタロウは何が欲しいの?」


「甘いフルーツじゃなくて、ご飯になりそうなもの。ツナ缶、サバ缶とか」


「ミネストローネみたいな汁物は?」


「良いね。水分も野菜も採れるし」


「食べ物以外だったら何が良いかな」


「どうだろ。ライターとか、燃料?」


「とんでもない物が流れてくるかもね」


「それって、例えば?」


「あっ大変です。アナタのもとに大量の金塊が流れ着きました」


「要らないよ。ここじゃ使えないし」


「箱には膨大な札束も入ってました。これで大金持ちです」


「それも邪魔にしかならないよ。使い所が無いし」


「どうだ明るくなったろう」


「火を点ける道具が無いよ」


「じゃあ札束の陰に隠れて、マッチもありました」


「いや待って! そもそも誰がそのセットを作ったの!?」


「伝説の成金コスプレイヤー?」


「お金を燃やすのは犯罪なんだよ」


「じゃあ札束は玩具のヤツでした、残念」


「尚更要らないよね」



 他愛もない会話を重ねるうち、リンタロウは活力に包まれた。それと同時に、ユリに対して感謝の情が込み上げてくる。



(芯の強い人だ。こんな時でも希望を持ち続けてる。やっぱり最高のパートナーだよ)


 

 この夜、リンタロウは温かな想いとともに眠りについた。まだ見ぬ明日に、望外な喜びが有ることを期待しつつ。


 しかし運命とは人を弄ぶもの。彼らの希望が半分どころか、欠片すらも叶う事は無かった。


 



ー4ー


 漂着物頼りの暮らしは、早くも暗礁に乗り上げた。希望を胸に眠りに就いたものの、彼らは絶望の味を知る事となる。 


 3日目、漂着物なし。キャップ1杯の水のみ。

 4日目、漂着物なし。キャップ1杯の水のみ。


 この惨憺たる結果がもたらす衝撃は、計り知れないものがある。



「今日も、これだけ……。せめて雨が降れば」


「リンタロウ。私の分も飲んで良いよ」


「ダメ。ちゃんと分けよう」


「桃缶は開けないの?」


「悩ましい。けど、もう少しだけ粘りたい」


「そっか。判断は任せるね」



 夜になれば、やる事もない。高台の寝床で、空きっ腹を抱えて横たわるだけ。4日目の晩には余分な発言が消えた。乾ききった喉が口数を減らすのだ。


 明日は、明日こそはきっと良い日になる。そう言い聞かせた。言葉を止めると、その途端に気が狂いそうだ。


 終わり無き窮地が、死の足音を響かせる。振り払っても、耳を塞いでも、冥土へ誘う声は鳴り止まない。夜は苦痛だ。こんな妄想に延々つきまとわれるのだから。満天の星空など、何の慰めにもならない。


 リンタロウは、隣で眠るユリを片手で抱き寄せた。空いた片手には桃缶を抱く。そうまでしても、妄想を打ち払うには至らない。 


 飢餓と衰弱は、着実に彼を蝕んでいた。


 5日目の朝。太陽が憎たらしい。今となっては陽の光など、大自然の美を照らすものではない。遭難者から貴重な水分を奪い去る虐殺装置だ。



「水、作りに行かなきゃ……」



 リンタロウは、よろめきながら立ち上がった。全身どころか、指先を動かす事さえも気だるく、重たい。それでも僅かな水源の為に、潮溜まりまで降りて行かねばならない。そして夜は全てを回収した後、高台まで戻る事を強いられる。


 健康な成人ならば苦もない動作だが、今の彼らには絶望的なルーティーンである。



「ユリ。辛いだろ。君は待ってて」


「平気。付いていく」



 お互いに口数はめっきり減った。空腹で意識が朦朧とする事もそうだが、そもそも声を出したくない。何か声を出そうとするだけで、渇いたノドが張り裂けそうな程に痛むのだ。


 リンタロウは無言のまま、蒸留施設を整えた。1日キャップ1杯の真水。それは今も変わらない。



(次は、漂着物だ。頼むから、何か……)



 想いはしても言葉にはせず、歩き出した。ユリも押し黙ったまま付いてくる。しかし、彼女が決して手伝うことはない。無言のまま後を付け、ただひたすらにリンタロウの姿を眺め続ける。


 それはどこか、監視のようにも思えた。



(僕を見張ってどうするってんだ。もしかして、水や食料を独り占めされる事を警戒してる?)



 不意に湧いた疑念は、立ちどころに燃え上がった。証拠も言質もない、リンタロウの言いがかりである。しかし、こうも容易く信じ込めたのは、極限状態であるためだ。



(そこまで疑われるだなんて、あんまりだ! 僕は命を擦り減らしながら堪えてるのに!)



 憤激に促されてか、少しだけリンタロウの足が早くなる。するとユリも歩調を合わせた。その速やかな追跡に、リンタロウは一層の腹立たしさを覚えてしまう。



「僕だけ降りる。君はここに」



 リンタロウは掠れた声で告げた。そして返事も聞かずに、足場の悪い段差を降りていく。なぜか今ばかりはユリから離れたくて堪らない。


 だが、こんな時に限って事件が起きる。リンタロウは降りる途中、足を滑らせて態勢を崩してしまったのだ。



「うわぁ?! 助けて!」



 リンタロウは辛うじて、岸壁の凹凸に掴まった。しかし位置が悪すぎる。このまま落下すれば、岩場でなく海の中だ。今の体力で海に落ちたなら、生還出来る見込みは高くない。



「ユリ、お願いだ! 手を貸してくれ!」



 懸命に叫ぶ。しかし、救助の動きはない。彼女は今も岩場の上で立ち尽くし、茫洋とした瞳を空へ向けていた。



「聞こえないのかユリ! 早く助けてくれ、長くは保たない!」


「えっ、うん。今行くから」



 ようやく動き出したユリ。素早く段差を降りて、1度足場を確かめた。それから手を伸ばし、リンタロウの腕を掴むと、振り子の要領で引き戻した。


 放り投げられたリンタロウは、激しい息を吐きながら足場を登っていく。そして広い岩場に戻ったところで、ようやく落ち着きを取り戻した。



「ハァ、ハァ。危うく死ぬところだった」


「ごめんなさい。何だかボーーッとしてしまって……」


「遅かったよ。何度も君の名前を叫んだよ?」


「本当に他意は無いの。反省してるわ」



 リンタロウの疑心暗鬼は、もはや手がつけられない。普段なら素直に聞き入れた謝罪も、裏に斜(はす)にと深読みしてしまう。



(嘘だ。僕を見殺しにしようとしたハズだ。ユリには明確な動機だってあるし)



 静かに目線を向けたのは、高台の方。寝床として使用する岩場には、今も手つかずの桃缶がある。


 それがユリの目的だと確信する。リンタロウを亡き者にすれば、あの魅惑の果実を、濃密なるシロップを独占できるのだ。命を狙うには十分過ぎる動機だと感じられた。



「そうはさせるか。独り占めなんて許さないぞ!」



 咄嗟にリンタロウは駆け出した。目指すは寝床、そして桃缶である。


 ユリがここまで執着していると分かれば、保管を続けるつもりはない。きっちり半分。正当な量をいただくべきだと決意したのだ。


 しかし足場が悪い。潮が引いたばかりの岩場だ。普段よりも滑りやすく、この時のリンタロウも盛大に転倒。受け身も取れず、頭を激しく打ち付けてしまった。



「グヘッ!? 痛ぇ……」


「大丈夫、リンタロウ!? しっかり!」



 血相を変えたユリが駆けつけた。そこまでは良いのだが、リンタロウの両肩を掴んでは、激しく前後に揺さぶるのは好ましくない。


 実際、正気を取り戻したリンタロウは、力任せにその手を払い除けた。



「痛いだろ! 何するんだよ!」


「ごめんなさい! 凄くこう、パニックになっちゃって……」


「頭を打った人を揺さぶるとか、何考えてんだ! 殺意があったとしか思えないよ!」


「そんな、ひどい……。そこまで言わなくたって!」



 憤然として立ち上がったユリは、いずこかへ駆け去ろうとした。しかし、そちらも足場は悪い。彼女も盛大に滑り、後頭部を激しく強打した。



「ああっ、ユリ! 大丈夫!?」 


「ゴハァ……痛い……」


「しっかりしろ、気を確かに持つんだ!」



 リンタロウは素早く駆けつけた。そして目を回すユリを激しく揺さぶる。その流れは、先程の一件と酷似していた。



「痛ッ、やめて……。やめてったら!」


「何だよ。心配したのに、そこまで邪険に扱うなよ!」


「私、そこまで強くやってないし! アナタこそ殺すつもりだったんじゃないの!?」


「そんな言い方しなくても良いだろ!」



 お互いが立ち上がると、別々の方へ歩き、別れた。


 そして立ち止まる。今はとにかく冷静にならねばと、深呼吸を繰り返した。


 そうして思い返されるのは、数々の思い出だ。



(色々あったよ。平凡な人生の割に……)



 ユリとの出会いはスポーツイベント。キッカケは些細な会話。同席した食事で意気投合し、強く惹かれ合った。


 週末はたいてい2人で日帰り旅行。イベントは少し奮発して有名店。緊張しきりの親族顔合わせ。挙式は涙に濡れ、そして待ちに待ったハネムーン。



(お互い、眠い目を擦って、旅行プランを用意したんだよね。コタツで一緒に寝落ちした事もあったな)



 記憶の最後に浮かぶのは、流れ着いた缶詰。予期せぬ形で口にした黄桃。美味かった。順番を待つ間、堪えるのが辛い。1秒2秒すら苦痛だ。あのムニンとした魅惑の果実を、心ゆくままに貪る事が出来たなら、どれだけ幸せだろう。シロップの濃密さと言ったら、もう悪魔的だ。魂を売り渡してしまいそうな程に蕩ける、甘露の如き聖水だと思う。



(そう。色々あったんだよ……)



 この頃リンタロウは、冷静さを取り戻した。振り返ると、ユリも既にこちら側を向いて、立ち尽くしている事に気づく。そうしてお互いに向き合った。何も語らず、ロクな表情も無しに。


 するとユリが先手を打った。前傾姿勢になって駆け出したのだ。リンタロウも合わせて走り出す。振り上げた右手を強く握り、指先にまで力を込める。それはユリも同じだ。まるで2人はあわせ鏡のようである。



「僕はこれまで、ずっと幸せだった!」


「私も、夢を見てるかのように、幸せな毎日だった!」



 接近した両者は、既に間合いに入った。強く踏み込み、全体重を攻撃に乗せる。やはり最後には拳が物を言うのだ。



「君だけでも生き延びてくれ、ユリーーッ!」


「私の分まで幸せになって、リンタロウーーッ!」



 同時に放たれる右の主砲(ストレート)。行き交う拳。そして、お互いの頬が激しく撃ち抜かれた。



「グハッ! 何て威力だ……!」



 リンタロウは、錐揉み回転を強いられつつ吹き飛ばされ、岩盤に突き刺さった。しかし、致命傷には至らない。深手を負ったものの、自力で立ち上がる事が出来た。



「うう。これは、僕の負けかもしれないな……」



 そこでユリの姿を探すのだが、見当たらない。正確に言えば、立ってはいない。岩場の上で両手足を投げ出しながら、倒れ込んでいた。



「ユリ……。まさか気を喪ってるとか」



 近くまで歩み寄って、ようやく気づく。ユリの首は、あらぬ方へと曲がっており、もはや回復不能である事。たとえここが緊急手術室だったとしても、蘇生させるのは不可能だろう。


 そう思わせる程に損傷は激しかった。



「僕は、何て事を! よりにもよって、君を手にかけてしまうだなんて!」



 リンタロウは泣いた。その場で突っ伏して、岩盤を叩いてまで泣いた。極限状態だったにせよ、なぜ彼女を守ろうとしなかったのか、いやむしろ率先して殴りかかったのは、なぜか。自問する声は尽きない。


 その時だ。ふと、かつてない怖気に襲われた。全身に粟が生じ、震えが止まらなくなる。



「この気配はいったい……」


「うふ、うふふふ。さすがリンタロウ、私が見込んだ男ね」


「ユリ……嘘だろ!?」



 愛する者は再び立ち上がった。だが、あまりにも異様な姿で、とても同一人物とは思えない。


 その頭は、肩から零れ落ちそうな程に垂れ下がる。どう見ても致命傷であるのに、軽快な笑い声を響かせ続ける。そして瞳は真っ赤に染まり、頬にも血涙が走るような文様まで浮かんでいた。これで生きている、と呼べるかは甚だ疑問だった。





ー5ー



 ユリは立ち上がった。語り口調も柔和なままで、立ち振る舞いすら自然である。


 しかし首が捻じ曲がる様は、生者の姿ではない。いやそもそも、今となっては人間であったかすら疑わしい。



「ユリ、君は一体何者なんだ!」


「私の事よりさ、リンタロウ。アナタこそ自分の事を知らなすぎよ」


「どういう事だ」


「さっきの右ストレートは悪くなかった、でも正直言って期待外れね。せっかく無人島まで連れてきて、ここまで追い込んであげたのに。ヒメノリンの末裔って、案外大した事ないのね」


「意味が分からない! 悪夢なら早く醒めてくれ!」


「現実逃避してる場合かしら? その現実がお終いになっちゃうわよ」



 その時、ユリの背後で何かが爆ぜた。初めは野太い触覚に見えたが違う。真っ赤な触手だ。彼女の背中から、無数の触手が出現すると、うち1本が勢いよく伸びてきた。


 それはアッサリとリンタロウを捉えた。そして腹に巻き付いては、激しく締め上げる。



「こ、この感触は、どこかで……!」


「察しが悪いから教えてあげるわ。全部私が仕組んだこと。アナタを船から突き落としたのも、海中に引きずり込んで気絶させたのも。そして、絶海の岩礁まで連れてきたのもね!」


「一体、何のために! グフッ」


「もちろん殺し合うためよ。史上最強の男が、どれほど強いのか。私をどこまで楽しませてくれるか。知りたくて仕方なかったのよ」


「僕は、平凡なサラリーマンだよ……ゴホッゴホ!」


「そうみたいね、つまらない人。だけど、さっきの拳に免じて、楽に殺してあげるわ」



 その時、締め上げる触手が大きく動いた。同時にリンタロウの耳には、何かが弾ける音が響く。


 あとは為すがままだ。岩場の方へ放り投げられ、投げ出した手足を整える事も出来ず、口からは血が溢れるに任せた。そうまでされても痛みは感じられない。ただ、凍えるような寒気に苛まれるだけだ。



(僕は騙されたのか。なぜ疑わなかったのだろう。最愛の人が、実は触手のバケモノである可能性を……!)



 普通はそうだ。疑う方がどうかしている。しかしリンタロウに関して言えば、言葉にする権利がある。彼は今こうして、妄想レベルの不運に見舞われたのだから。



(許せない。悔しい。こんな暴挙、許せない)



 命が消えゆく間際であるのに、リンタロウの闘争心は冷めやらず。いや、むしろ燃え上がるかのように、一層猛々しい。


 その純粋な想いが、ささやかな奇跡を呼び込んだ。忘れかけていた記憶を手繰り寄せたのである。


 リンタロウは薄れゆく意識の中、曽祖父を思い出した。老齢ながらも威厳を損なわない、精悍な姿を。



◆ ◆ ◆


「聞きなさいリンタロウ。まずワシは、お前に謝らねばならん」



 幼きリンタロウは、板張りの道場で曽祖父と向き合っていた。冷たい床板の上で正座、かつ2人きり。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるが、一度として成功した試しはない。



「リンタロウ。お前は傑物なのだ。魔法少女ヒメノリンの才気を、最も色濃く引き継いだ天才児だ。当代一どころか、歴代一の勇士となる事も夢ではない」



 これは褒められたのか、とリンタロウは思う。しかし、その割に曽祖父の顔が暗い。なぜ瞳が沈んだ色であるのか、幼年の彼には理解できなかった。



「しかし本家の長老共が、全く耳を貸そうともせぬ。男子では魔法少女のスカートを履けぬという、実にくだらぬ理由でな。奴らの目は節穴か。魔法男子っ娘にも十分魅力があるだろうに」



 曽祖父の話は難しい。そして長い。リンタロウはアクビを噛み殺す事に集中した。



「ともかく、ワシの指導はこれまでとなる。だが鍛錬は続けよ、己の身を守るためにもな。いつの日か、お前の命を目当てに、魑魅魍魎なるバケモノが押し寄せて来るだろう。願わくば、自己練達の情熱を絶やさん事を」



 曽祖父は厳(いかめ)しさを保ったままで、頭を下げた。それに合わせてリンタロウもお辞儀するのだが、内心ではこう思う。


 支離滅裂な言葉ばかり、きっとボケたんだろう。早いうちに施設へブチ込まなくては、と。



◆ ◆ ◆


 

 そこまで振り返ると、リンタロウは現実に引き戻された。視力はほぼ無い。耳に微か、波の打ち付ける音と、ユリの哄笑が聞こえてくる。



「ごめんよ、曾祖父ちゃん。信じてあげなくて。陰でこっそりボケ老人なんて悪口言って。全部、本当の話だったんだね」



 その懺悔が、リンタロウの歪めるものを拭い去り、運命が正された。


 類まれな才気を持つにも関わらず、開花する機会を奪われた幼少期。であるのに、成人したのちに、眠れる才気を理由にバケモノから狙われるという矛盾。


 その強烈なズレが、リンタロウに未曾有のパワーをもたらしたのだ。



「うおおおーー! 僕は伝説の力に目覚めたぞーー!」


「何ぃ!?」


「行くぞユリ、いやバケモノめ! 魔法少女パンチ!」



 亜音速の拳打が、触手の1本を撃ち抜く。確実に怯ませはしたのだが、それだけだった。



「グッ。中々だが、そんな技は織り込み済みよ。立ち技の拳など、ヒメノリンは百万発ほど披露したと聞く。対抗技だって既に知れ渡っている――」


「だったらこれはどうだ! 魔法少女ソバット!」


「なっ、その技は! グワァァーー!?」



 ユリだった体に痛烈な蹴りを浴びせた。今度は効果テキメン。怪物の体は、絶叫するとともに悶絶した。



「どうだバケモノめ。思い知ったか!」


「魔法少女の技に、足技など無かったハズ……。それがなぜ!」


「単純な答えだよ。スカート姿の女子が、蹴りを好む訳もない。だが僕はジーンズを履いている!」



 リンタロウは誇らしげに告げた。何がどう優れているのかは、理解に苦しむが。



「ふふ、うふふふ。なるほどね、確かに強い。でも底が知れるわ」


「何ぃ!?」


「やはり紛い物よ。いかに技名を連呼しようとも、アナタは魔法少女ではない」


「うっ、それは……!」



 正論である。今のリンタロウは魔法少女を自称するだけで、見た目は単なる三十路男だった。そのズレが恥辱の念に通じ、技本来の威力を引き出せずにいた。


 ここが限界か。リンタロウは静かに冷や汗を流した。その気配はユリに、怯えとして伝わってしまう。



「どんでん返しまでは至らないかしら。やっぱりツマらない。この程度ではね」


「くっ……くそう!」


「もう茶番はお終いにしましょう。一気に終わらせてあげるわ」



 ユリは、触手をバネのように扱い、天高く飛翔。そして滞空すると、両手を突き上げて構えた。


 その手元には、みるみる内に魔力が貯まっていく。今のリンタロウですら恐怖を覚えるほどの莫大なエネルギーが、急速に集まりだす。



「さぁリンタロウ。太平洋ごと消し飛びたくなかったら、打ち返してみなさい」


「うぅ……一体どうしろと……!」



 リンタロウは狼狽えるばかりだ。しかし、脳裏に曽祖父の言葉が、最後の助言とばかりに蘇る。



――良いかリンタロウ。この技は強力だ。おいそれと使ってはならぬ。しかし、ここぞという場面になれば、躊躇わずに撃て。



 それを機に、リンタロウは構えを変えた。両手を、さながら天秤の受け皿の如く左右に浮かべ、力を込めていく。


 魔力が集約される度に、岩礁だけでなく、付近の海面も激しく揺れた。



「また付け焼き刃の技かしら? 良いわ、最後の悪あがきを見ててあげる!」



 ユリが掲げた両手を振り下ろした。今、彼女の全力が発動する。



「愚昧な地球人どもめ、まとめて燃え尽きろ! デッドエンド・フレアーーッ!」



 発動した魔法は、巨大な火球だ。それがリンタロウに向かって一直線に落下してくる。さながら彗星、あるいは太陽が降ってくるような錯覚すらあった。


 しかしリンタロウに焦りはない。万全な力が溜まるまで微動だにしなかった。



「ユリ。君と過ごした日々は、それこそ昨日までは、幸せそのものだったよ」



 満ちた。構えは変わり、両手をユリに向けて突き出す。後は力を振り絞るだけだ。



「さよならだ! スターライト・クルセイド!」


「そんな、私の最大最凶魔法が、いとも容易く! グワァァァーー!! アァァァーーーッ!!」



 リンタロウの放つ金色の波動は、火球もろともユリの体を飲み込んだ。そして、魔法が消えると、何もない青空だけが見えた。完全勝利である。



「終わったんだ、何もかも……」



 そこでリンタロウは、膝を折って倒れ伏した。全身から力が異様な速さで抜けていく。


 それは「死」という言葉を連想させるほど、凄まじいものだった。






ー6ー



 激戦を土壇場で切り抜けたリンタロウ。しかしその反動は、筆舌に尽くしがたいものがあった。


 全身にみなぎった力は霞となって消え、今は名残すらも無い。出来る事と言えば、ただうつ伏せになり、死体も同然に倒れ伏すのみだ。



「もしかして、命を代償にしたのかな……」



 するとそこへ、何かがフワリ、フワリと舞い降りた。それは綿毛の如き軽やかさで、リンタロウの眼前に落ちる。



「ユリ……」


「リンタロウ。凄かったわね。まさか、これほどとは……」



 ユリは、愛用のカーディガンを吹き飛ばされ、ワンピース1枚のみの姿だ。背中の触手も全てが焼け落ちており、ごく普通の女性に見える。


 今、愛を誓い合った者同士が、再び顔を合わせた。どちらも満身創痍。うつ伏せで見つめ合うという、極めて稀有な状況である。



「トドメを刺してよ、リンタロウ。このまま衰弱なんて嫌」


「君こそ、僕を殺してくれ。もう体が動かない」


「気合か根性で、頑張って」


「その根性すら使い果たしたよ」


「頼りがいの無い人」


「うるさいな」



 つい先程まで殺し合いをした仲とは思えぬ、親しげな口ぶりだ。


 腹に包み隠すべき事は何もない。お互いが心を丸裸にし、誰にも邪魔されない孤島で、本気になって殴り合った。


 思惑を隠すといった小細工は、もはや企む気にもならないのだ。



「ユリ。最期に1つだけ」


「何、恨み言?」


「愛してるよ、今でさえ」


「騙されてたのに?」


「騙されてても」


「私だって愛してる」


「それは嘘だね」


「信じてくれないの?」


「この島へ拉致するために、愛を騙ったんだろ」


「愛してるからこそ戦いたいの。分かる?」


「分からないね。バケモノの理屈は」


「ひどい。泣いちゃうかも」


「良いんだよ、泣いたって」


「愛してるから」


「それは嘘だよ」


「信じなくても良い。愛してる」


「もう騙す意味なんて無いよ」


「それでも愛してるから」



 会話は淀みなく続く。死に際とは思えないほどに、言葉も明瞭だ。



「リンタロウ、少しは元気出た? トドメを刺して」


「無理だね」


「私が居なければ、桃缶を独り占め出来るよ」


「要らないよ。君こそ僕を殺して、全部食べたら良い」


「私だって無理」


「力が入らないから?」


「それは秘密」


「この期に及んで?」


「秘密は魅力のエッセンスなのです」


「じゃあ僕も秘密を作る。絶対に明かさないヤツを」


「ずるい。それは後出しジャンケンだよ」


「ズルは大人の嗜みだから」



 そんな会話を重ねるうち、2人は耳慣れぬ音を聞いた。空だ。けたたましい音が響いたかと思うと、今度は激しい風が打ち付けてきた。それは軍用ヘリだった。


 リンタロウ達が繰り広げた激戦は、たちまち周辺国を騒がせた。その為、付近の軍事施設より偵察機がやって来たのである。


 結果、リンタロウ達は岩礁からの生還を果たした。


 それから2人はどうなったか。公的な記録では「行方不明」として処理されている。


 一説によると、生還直後、どちらも緊急病棟に運ばれた。リンタロウは大きな問題もなく、精密検査と治療が施された。


 しかしユリの担当医はパニックになった。その肉体構造が、人類の物とは明らかにかけ離れていたからだ。そこで生還者達は釈明したらしい。バケモノであると自白したとも、生魚の寄生虫に当たったと説明したとも。あるいは、人知を超えた力で逃走したとも伝えられる。


 この衝撃的な珍事は、一時期メディアを騒然とさせた。しかしその鮮度も一ヶ月と保たず。世間は、この不可思議なカップルの事など、すっかり忘れ去ってしまった。



 

――そんな事件から2年後。埼玉県の某市にて。




「それじゃ、会社に行ってくるよ」



 スーツ姿の亭主が玄関口で告げた。すると台所から小走りで、彼の妻が駆け寄ってきた。スリッパ履きなので、どこかヒヨコめいた足さばきである。



「気をつけてね。今日は遅くなる?」


「どうだろ。繁忙期直前だから、急な業務が入るかも。どうかした?」


「ホラ、今日は記念日じゃない。缶詰を買っておいたから」


「言われてみれば、もうそんな時期か」



 この夫婦には変わった習慣がある。毎年決まった日の夕食は、桃缶を食すというものだ。しかも1缶を2等分。果実はもちろんの事、シロップまでも均等に分けるのだ。


 まだ連れ添って年月が浅いものの、欠かさず続けようと約束していた事である。



「おっと電車に遅れる。ともかく行ってきます!」


「はぁい。今日も頑張ってね、旦那様!」



 亭主は妻の声援を浴びては、小走りになって通勤路を行く。燦々と降り注ぐ朝日も、まるで前途を照らすかのように思えて、彼は小さく綻んだ。


 余談だが、ここ最近はとある夫婦喧嘩が問題となっている。人智を超えた争いぶりは、さながら神話の如く。ささいな余波だけで、街が1つ消し飛ぶとも噂された。


 しかしそんな話は、この夫妻には関係ないだろう。平凡そうな三十路男と、それとは不釣り合いに美しい妻というだけで、一般的なオシドリ夫婦である。



「よぉし、今日は仕事をササッと片付けて、午後休でも貰おうかな!」



 亭主は軽い足取りで駆けていった。柔らかい日差しが明るく照らす、アスファルトの道の上を。

 




ー完ー

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編】無人島ハネムーンで殴り合え おもちさん @Omotty

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る