第三話――ムヤミです
「――目を覚ませ、ジルヴァート!」
そんな叫びが通りに響いていた。
ジルヴァート。そう呼ばれたムヤミは、目の前で息を荒くする美青年を愕然と見ていた。
もちろんその名前に聞き覚えは無く、自分がそう呼ばれたことなんて一度も無い。しかしこの状況から鑑みるに、自分はこの世界で、この体で、ジルヴァートとして生きていたということだろう。
ようやくみつけた手がかりだった。それを握るのは目の前の男――エーリッヒ。しかし、彼の様子は先ほどまでの凛とした表情とは打って変わってこちらを心配している様子だった。
一歩一歩、言いながら歩み寄るエーリッヒ。ムヤミはそれに合わせて後退る。
「どうしたんだ、その、髪の毛と、瞳。兄ちゃんあまりそういうのわからないけど、イメチェンってやつか?」
「あ、あの、えと」
「なんでそれほど不安気に俺を見るんだ? 兄ちゃん、何かやっちゃったか?」
「その、ぼく、は」
「どうしてそんな……安い服に着替えて、一人で出ていたんだ? 誰にも言わないで、どうしていなくなった?」
次々と投げられるその問いに、答えを返す暇は無い。というより、答えを出させないような矢継ぎ早の言葉にすら思えた。
後ろへ下がるムヤミと、それ以上に前へ出るエーリッヒ。二人の距離は少しずつ詰められる。そこに周囲から兵士が二人、馬を降りて駆け寄る。
「兵士長! 危険です!」
「お下がりください! ジルヴァート様は既に……!」
どうしてか鬼気迫る様子の二人を見て、ムヤミは気付いた。
囲まれているのだ。先程までいた貴族然とした人々の群れは既にずっと向こうの方で、それよりも手前に仰々しく立ち並ぶのは、長く太ましい槍と大きな盾を構えた戦列だ。それが今、ムヤミとエーリッヒの二人を中心として円を描いていた。
悲痛な叫びがムヤミの耳朶を打った。
「俺の弟の何が危険だ! あいつは……不器用だが、虫も殺せないほど……優しいんだぞ!」
「ぐああ!」
辺りを見回している間にエーリッヒは二人の兵士を振り払い、だんと踏みしめた地面を割る勢いでムヤミに詰め寄る。それに気圧されたムヤミは足をもつれさせ、後ろへ転ぶ。
「お前が……お前がまだジルヴァートだと言うなら……! 頼むから、証明してくれ。頼むから」
端正な顔立ちを酷く崩したエーリッヒは膝を付き、ムヤミの怯える表情を見据えていた。顎を滴ってぼたぼたと垂れる涙が鎧を濡らしていた。
エーリッヒは籠手を外し、右手を差し出した。
「この手を、握ってくれ」
ムヤミはそれを見ていた。
振り払われた二人の兵士が腰から抜いた剣をこちらへ向けて構えていた。
手のひらが震えている。差し出されたそれは汗ばみ、震えていたのだ。ムヤミと変わらない程に恐怖を帯びて見えるそれは、どうしてかムヤミの怯えを解いた。
――この手を取らないと。
そんな想いがムヤミの胸中を満たす。
ゆっくりと伸ばす手。やはり慣れないそれはおっかなびっくりと。
手と手が合わさり、ムヤミようやくはその手を――。
「ああジル、やはりまだそこに――」
――振り払った。
「……どうしてだ、ジル」
「あ、ええ!? な……なんで!」
それはムヤミ自身望まなかったこと。どうしてか、その手は一瞬制御を失い、エーリッヒとの決裂を選んだ。
「ちが、違うんです! あの、僕は!!」
狼狽するムヤミに、エーリッヒは唖然としていた。払われた自分の手を見つめ、その胸中も探れない。
「ぼ、僕! 記憶が無くって、それで」
周囲の兵士が槍を深く構えた。エーリッヒの側に控える二人の兵士がムヤミへ向けて剣を振り下ろした。
「ひう……!!」
「――待てお前達」
そう、凛とした声音が響く。それは目の前の青年からだった。
いつの間にか立ち上がっていた彼は、いつの間にか抜いた宝剣をその手に握り、静かに鋭い瞳で、ムヤミを貫いていた。
「我が弟の罪だ。せめて俺にやらせて欲しい」
毅然とした立ち姿は美しかった。それが自身に向けられる脅威でなければ、ムヤミとて見惚れていただろう。
エーリッヒはムヤミに宝剣の切っ先を向けて言う。
「忌むべき存在の伝承だ」
切っ先の行く末を予測出来ない。
ムヤミはその語りを聞いていた。
「――彼ら露呈を恐れ、矮小なる心の臓で闇に潜む」
心臓がとくんと、強く鼓動した。
「――彼ら蒙昧に嘲り、狡猾を持って卑劣に蠢く」
震え泳ぐ目が、必死に逃げ道を探っていた。
「――彼ら穢れを嫌い、異種を穢れと呼び嗤う」
心を満たす未曽有の恐怖に、歪んだ笑みを浮かべていた。
「――彼の者、世の平穏を乱す悪しき魔の者なりて、以下の通りに呼び記す」
一歩、後退った。それに深く腰を落とし宝剣を構えるエーリッヒ。
「矮小で卑しい潔癖の屑共――悪魔ああああ!」
瞬間、ムヤミは後方に跳んだ。
見えたのはエーリッヒの切り上げる剣線。本能が読んだ太刀筋を躱さんと跳んだムヤミだった。それは切っ先が確実に届かない距離だった。しかし、避けることは叶わなかった。現状が紛うこと無き異世界ファンタジーだということを、ムヤミは忘れていたから。
「い、ぎいいいいいいいい!!」
ムヤミの視界が一部、赤に染まる。
顎の脇から額へかけて刻まれた一直線の傷だった。顔面を抑え、地面に蹲るムヤミ。痛みと恐怖で震えていた。
確かに避けた刃だった。それが伸びたのだ。
倒れつつもムヤミが視界の端で捉えたエーリッヒの宝剣。それはオーラのような眩い光を纏いっていた。
某SF超大作のライトセイバーが思い出される光景だった。こんな命懸けの状況でなければ。
どうして忘れていたんだ。最初にだって大きな杖を背負う人をたくさん見たじゃないか。この世界には確かに存在するんだ。
――魔法というものが。
この時、周囲の兵士達は身の毛もよだつ光景を目の当たりにしていた。
この国きっての実力者であるエーリッヒの本気の剣線を、戦いの才能がは無かったはずのジルヴァートが致命傷を避けたのだ。これだけでも悪魔と呼ばれる存在を確信出来るほどに信じがたい事実であったが、それ以上に彼らを震わせたのは、蹲るムヤミだった。
傷口を抑え、血と涙が混ざるその表情は、まるで楽しむように、口の端で嗤っているのだ。
しかし、エーリッヒだけは違った。その表情を見て、さらなる怒りを露わにした。
「弟の顔で、卑しい笑みを浮かべるな」
冷たい声の直後、蹲るムヤミに向けて宝剣が突き立てられた。それは固く舗装された地面を容易く砕き、突き刺さる。しかしそこが赤く染まることは無い。
「ジル……やはり、悪魔に体を乗っ取られてしまったんだな。あれだけ禁忌には手を出すなと言ったのに……」
悲しみ憂うエーリッヒが再び見据える先には、姿勢を下げた純然たる逃走態勢のムヤミ。
「ひぐ、えぐ、やめて、ください……。僕は、悪魔じゃない!」
「悪魔に乗っ取られた者は皆、頭髪と瞳が黒に変わる。元から黒なら判別は付かなかったが……ジルは紺碧の瞳に綺麗な金色の髪の毛だった」
それでも自分は悪魔じゃない。
そう訴えるのも無駄らしいことを、顔の焼けるような傷がじくじくと伝えていた。
迫るエーリッヒ。握る宝剣が灼熱に包まれ、その背後に浮かび上がるのは七つの火球。
ムヤミの背後ではさらに増えた兵士たちが逃げ道を固く塞いでいる。
異世界に来たというのに、また、この光景か。
「悪魔よ、葬る前に名を聞かせてくれ。名も無き者に敗れたとあっては、ジルが哀れでならない……」
ムヤミはただ、立ち尽くしていた。
なぜだか震えは止まっていた。
またこれだ。
慣れ親しんだ状況だ。
ついさっき、転生の直前にだって、こうやって囲まれていたんだ。
どうしていつも、僕はこうなんだ。
「……」
エーリッヒはムヤミの答えを待つように、何も言わずただ宝剣を構える。
背後では増える応援が二重三重に列を為し、逃走を阻む壁を構築している。
「僕、は、『ムヤミ』と、言いま――」
言い切る直前だった。エーリッヒは灼熱の宝剣を、ムヤミの胴目掛けて振り抜いていた。
兵士達には目にも留まらぬ攻撃であった為、エーリッヒの剣が消えたようにすら思えた。
だから勘違いした。同時に消えたムヤミの体も、それによって消し飛んだものと――。
「――僕の親って変な人で」
そんな声が聞こえたのは、戦列の最後端にて野次馬となんら変わらない心構えだった兵士の背後。
「ひ、ひあああ!」
彼の悲鳴に、戦列は乱れ、割れ、エーリッヒとムヤミは距離を開けて再び向かい合った。
「光に照らされる人生を願って、ムヤミって名前を付けたらしいんです。おかしいでしょう? 本当はそんな、前向きな言葉じゃないのに」
ムヤミの傷口からとくとくと流れる血が、彼の表情を陰惨に染めていた。滴るそれが、足元でぼたぼたとはねて散る。
「だけど僕のムヤミは、本来よりも暗いものだと、思うんです」
そういえば、あの人も言っていたな。
“顔に闇を落とせば、心に闇が落ち、その人までも闇に落ちてしまうものです。だから少年。怖くとも光を見て生きなさい”
ついさっきかけられた、太陽みたいな言葉。それが酷く痛く、ムヤミの心を焼いている。
「ごめん、なさい。僕のムヤミは、きっと――」
ゴードンさん。やっぱり光は怖いです。
こんな僕が照らされてしまえば、影が落ちてしまえば、何も残る訳ないでしょう?
だって僕は。
「――“無限の闇”で、無闇です」
ムヤミは
血染めの恐怖を張り付けて。
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