第四話――恩師



「ムヤミ……」


 静まり返る場に、ぽつりとこぼれたのはエーリッヒの声。ムヤミの名乗りを聞いて復唱。それは決して、気圧された故の呆然ではない。――決して忘れぬ為、己の魂にその名を刻み込むため。


「決して忘れないぞ、ムヤミ。憎き悪魔として、禁忌に刻まれることだろう」


 ムヤミを刺し貫くように言うエーリッヒ。剣を掲げ、声を上げる。


「――その悪魔を消して逃がすな! 殺さず捕らえろ!」


「うおおおおおおお!!」


 呼応するのは再びムヤミを取り囲む兵士達。声を荒げ、ムヤミに襲い掛かる。


「ひ……いやだ……もう、死ぬのは嫌だ……!」


 迫り来るそれらは確かな死。それにムヤミが連想するのは、この世界に来る要因となった死の記憶。

 蹲り、震える体が踏み荒らされ、壊れていく感触は思い出すだけでもその場から逃げ出したくなる。


「う、うわああああ!」


 ムヤミは一心不乱に駆け出した。

 結局これだ。ムヤミはこれまで一度として、立ち向かうことをしなかったのだから。


 目指すはエーリッヒと反対側。最も戦列の薄い部分。

 あまりに無様なその後ろ姿に、エーリッヒは強い怒りを覚えていた。


 どこまでも卑劣で哀れな存在だ。弟を手にかけ、体を乗っ取ったのがそんな奴だなんて。悔やみきれない事実だ。


「囲め! 奴は手負いだぞ!」


 兵士に向けて指示を飛ばしつつ、確実に仕留められる機会を伺う。せめて自分で葬らねば気が済まない。

 いつの間にか握り締めていた拳から血が滴っていることに気付く。


「……らしく、ないな」


 これほどまで怒りに身を焦がすことも無かった。悪魔と確信しておきながら、まだ弟がそこにいると信じてしまうほど、情を持ち合わせていたつもりも無かった。それが湧きたった。それだけ、失ってはならないものを失った。


 兵士に囲まれる悪魔がどうなっているかは分からない。卑劣な生き方をする彼らに戦闘能力は無いと聞く。捕らえることは容易いはずだ。


 悪魔の倒れる場へ歩く。首を落としたら、せめて弟の好きだったあの場所に弔って――。


 そんな思考に涙ぐむエーリッヒ。そのぼやけた視界の端に、黒い影が飛び出した。


「――っ!」


 咄嗟に火球を一つ、それへ向けて放つ。しかしその影は建物の壁面を蹴って火球を回避し、狭い路地裏へと隠れた。

 それが飛び出したのは目の前の兵士達の中からに思えた。駆け寄ると、一人の兵士が報告に寄って来た。


「悪魔は兵士三名を殺害後……逃走しました!」


「……は? 殺害、だと」


 集まる兵士をかき分けて進む。するとそこには、互いに兜の隙間を狙い、槍で串刺しになった二人の兵士が膝を付いて息絶えていた。


「あああああ!」


 叫び声のする方には、先端が赤く濡れた槍を放り出して頭を抱える兵士と、その足元で倒れ伏すもう一人の兵士。


「悪魔は、戦う力が無いはずだ」


 その状況に唖然とするエーリッヒ。側に寄る兵士が言う。


「悪魔は……戦ってなどおりませんでした。全ての刺突を避け、流し、それが運悪く彼らに……」


 ……ふざけるな。それで力が無いだと? ここの兵士は国内でも比肩出来るものは無いに等しい精鋭だ。それの同士討ちが運の悪さ? ふざけるな。


「あの悪魔を追うぞ。決して一人で挑むな。俺が到着するまで持ちこたえるんだ」


「……はっ!」


 エーリッヒの指示によってムヤミを追い始める兵士達。


「ムヤミ、貴様を逃しはしない」


 静かに、切っ先よりも鋭い言葉を差し向けた。



 * * *



「は、は、ひ……えぐ……いだい……いだいよぉ……!」


 世界が変わろうとも、自分の役回りは変わりなく。ムヤミはまたも、逃げ回る。


 望み通り、この世界における自分の立場を理解できるイベントを引き当てられたわけだが、それは同時に壮絶な恨みを買うものだった。

 エーリッヒ。彼の叫びはあまりに悲痛で、あまりに鋭くムヤミの心を貫く。身に覚えの恨みだとしても、ただ理不尽な転生を喰らっただけなのだとしても、ムヤミの中では彼の弟を奪った事実がとびっきりの棘となって突き刺さって、痛みとして訴える。顔の傷と変わらぬほどに。


 それと同時に、やはり、死にたくないなんて泣き叫ぶ自分はやはり、卑劣な悪魔と呼ばれるに足る薄情者だろうか。


 そこは建物と建物の間に出来た細い裏道。ムヤミにとっては馴染みのある光景で、生き心地のいい場所だ。

 逃げ込む時はいつもここ。恐怖に満たされるムヤミを見ると、誰もが恐怖を覚えるものだから、怖い時ほど一人になろうとする性質が、いつしかこんな形で染みついた。


 表の通りでは、がしゃがしゃと音を立てて走り回る兵士が見える。

 どうすればいい。地理が分からないこの場所で鬼ごっこなんて。それも、帰る場所も、終わる条件も無く、捕まれば財布じゃすまない、正真正銘命懸けの鬼ごっこ。


「う、うぅ……なんで……なんで僕は、こんなぁ……がっ、あぎぃぃぃぃ……!」


 嘆くだけ流れる涙だが、それさえ傷口に沁みて訴えて来る。


 卑劣な悪魔。

 弟殺し。

 臆病者。


 エーリッヒの声が頭の中で響いていた。それらからまた逃げようと裏路地を走っていたところ、背後から激烈な轟音。

 振り返るや否や、ムヤミは四肢を投げだし地面に伏した。


「私は常々、人を見る目が無い、などと言われます」


 ムヤミの耳に聞こえたて来たのは、実直な印象を受ける男の声。顔を上げた先。肩に大人一人はあろうかという大剣を乗せる巨人。ゴードン・マーティだ。


 周囲の建物はムヤミの膝辺りで綺麗さっぱり消えていた。


「ごー、どん、さん」


「ゴードン“さん”、ですか。先程感じた違和感……間違いではなかったのですな。ジルヴァート殿……いや、悪魔『ムヤミ』」


 彼もまた、エーリッヒのように涙を流していた。


「彼は、私の唯一の弟子でもありました。戦う才能がまるで無い彼を兵士長殿に任された時はどうしたものかと、頭を悩ませたものです」


「ゴードンさん、ま、まってください。ぼぼ、僕は本当に、悪魔じゃ――」


「黙れ下衆」


 想像もしたことの無い低く重い言葉に、ムヤミの言葉は攫われた。


「しかし彼は、肉体の鍛錬も、剣の鍛錬も、諦めることはありませんでした。そしてついには、なんとですよ! 魔獣を一匹、それも最下級ではありますが……お一人で討伐なされたのです! あの日は兵士長殿と共に酒を飲み、語り明かしたものです。ジルヴァート殿はすごいんだと、やればできるすごい奴なんだ、と」


 懐かしむようなその声音は震えていた。これを語る間、ゴードンは笑みを浮かべ、滂沱の涙を拭い、ムヤミを見ていなかった。なのにムヤミが動けないのは、彼に一つの隙も見られなかったから。彼が片手に握る大剣の切っ先が決して、ムヤミから外されることは無かったから。


「ジルヴァ―ド殿……これは師としての責もあります。悪魔の首を落としたらば、私も首を斬ります故、どうか、どうか愚かな私を、お許しくだされ」


 大剣を引きずり歩き出すゴードン。鉄と地面のすれる甲高い音が鳴り響く。

 迫り来るそれに後退るムヤミは、またもわらっている。


「まって、ひ、ひひ、ごーど、さ」


 有無を言わさず大剣を振りかぶり、振り下ろすゴードン。


「……ぐぶ、がはっ」


「な、んで……僕、そんな」


 大剣を躱しただけだった。

 相手の体に触れることなんて、攻撃を躱す上でいつもやることだった。


 それなのに、どうしてか今この時、ムヤミの触れたゴードンの右足と脇腹は、大きく抉り取られるように消失したのだ。

 黒い影が、ムヤミの両手を覆っている。それも束の間、すぐにぼやけて消え、ただの肌に戻った。

 剣を支えにして倒れまいとするゴードン。尋常でない精神力を持って、未だ尽きぬ憎しみの滾る瞳で、背後のムヤミを睨みつける。


「き、さまああああ……! 何をやっ、ぐ、ごはあ」


 憎悪の声も喉からこみ上げる血の濁流に流され、浅い呼吸でその場に倒れるゴードン。霞む視界で、逃げ去る悪魔を見つめていた。



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