第9話 種の羽化
何もない――……。
アズライトは無の中をひとり、何もない空間を漂っていました。気がつけば痛かったはずの手足の感覚もなくなっています。自分が空間で、空間が自分のような、すべての境界線もなくなってしまったような不思議な気分です。
「僕を忘れないで」
誰かがそう、アズライトにささやきます。それには音色もなく、そう感じるだけなのです。だから、いったい誰の声なのか、何の音なのかもわかりません。アズライトはしだいに、不思議に思う気持ちすらなくしていきました。何も感じないのです。痛みも、哀しみも、苦しみもなければ、楽しさも嬉しさもありません。ただ、
「僕を忘れないで」
また、誰かがささやきます。そしてそれにこたえるように、大きな波が無の空間を押し寄せます。ざぶざぶ、ざぶざぶ。ざあざあ、ざあざあ。なんども押し寄せては引いて、アズライトをゆさぶります。だんだん、だんだんそれは大きくなって、アズライトという感覚までもかき消していきます。アズライトは感じない手足を、無の空間ぜんたいを使ってもがいて、もがいて、あらがいます。そしてふつり、と波は止み――そこは
「ああ、この子が「種」。この子は新たな世界を作るみちびくものになるのですね」
蛍クジラはほんのりと目元を緩ませした。彼らの前には、ペール・ブルーの小さな、小さな球。他の子どもたちよりもずっとずっと小さな球です。「種」というにふさわしい大きさと言えるでしょう。ちいさな「種」を前に、羽ごろも魚さんと糸あめクラゲさんたちはうろたえています。他の宝石たちは蛍クジラさんと同じように、安らかなほほえみも浮かべています。蛍クジラさんは言い放ちました。
「みなさん。喜びなさい、たたえなさい。新たな「種」のたんじょうです」
ペール・ブルーの球が蛍クジラさんの光を集めて、まばゆく輝きはじめました。蛍クジラさんのその目は、うっとりとしています。そのまぶしさに他の宝石たちもうっとりとして、新たな春のおとずれを待ちのぞみます。
ペール・ブルーの「種」はしだいに青さを増し、ぐずぐずと溶けて、しおれた大きな翅が現れました。長く黒い四本の足が生やされ、ちいさなかぶりがごぼり、と生じます。つるつるのお顔は大きくゆがみ、波たち、穴がこぽこぽと沸き立ちます。とくに大きなふたつの穴がこぽり、と現れるときゅるり、と大きなアズライト・ブルーのくもった宝石が飛び出します。
するとしおれた翅は糸を引いて伸ばされ、長く伸びた四枚の翅になりました。きらきらと光を弾いてたそれは、向こうが透けて見えるほどに薄く、どこかもろさを感じさせます。一枚一枚がはっきりたしかになると、くもったふたつの宝石がぐるり、と回りました。そして小きざみに揺れはじめ、そのくもりはしだいに晴れていきます。あの四足もしだいに青を呼び戻して、それはシアン・ブルーよりも深いコバルト・ブルーになりまりました。
はじいていた蛍クジラさんの光の粒がすべて吸い込まれ、もとの明るさに戻りはじめると、アズライトはゆっくりとまばたきをして、
蛍クジラさんは変わらずうっとりとしたまなざしをして、アズライトを見つめています。蛍クジラさんは静かに、けれどもやっぱり明るさを隠しきれない声で言いました。
「おはよう、新しい「種」の子。ずっと待ちのぞんだ、新しい世界の子」
アズライトはその口元にうっすらと微笑みを浮かべました。怪しい、と言いましょうか。細められたアズライトの宝石には仄暗さがあります。ぞくり、とさせる怪しさに蛍クジラさんは喜びを隠せません。きみょうなほどに明るい声で、蛍クジラさんは言います。
「さあさあ、えらばれた子よ。わたしをおたべなさい。わたしを糧に、「核」を「世界」にするのです」
蛍クジラさんのことばに、羽ごろも魚さんも糸あめクラゲさんたちもおどろいて目をみはります。けれども蛍クジラさんは気に留めることはありません。さいごの歌をうたい、奏でます。きゅーいきゅーいと、たのしげに歌います。
アズライトはゆったりとコバルト・ブルーの細く長い手を伸ばしました。優しさのある指先です。その腕はまるでアズライトの宝石で、深く鮮やかな青がきらきらとまたたいています。アズライトはそっと蛍クジラさんの胴に手を添えると、コバルト・ブルーの舌で自分の口元をぺろり、となめます。アズライトのふたつの宝石がぎらり、と怪しい光を増しますと、アズライトはうっすらと小さく口を開き――他の宝石たちとは異なる、静かで低い、音を鳴らしました。
「うん。いただきます」
他の宝石たちや羽ごろも魚さんも糸あめクラゲさんたちの前で、アズライトは蛍クジラさんに歯を立てました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます