第10話 無とあぶく
それは何よりもするどい、刃のような歯でした。がぶり、がぶり、と噛みちぎるたびにコバルト・ブルーの血しおが四方へ溢れ出して、コバルト・ブルーのアクアリウムをより深い青でそめていきます。蛍クジラさんの胴が大きく、びくびく、びくびくと跳ね、そのたびにアクアリウムに大きな波を起こします。
あまりに大きなゆらぎに、羽ごろも魚さんたちの何疋かは遠くへ流されてしまいます。木の枝につかまっていた糸あめクラゲさんたちも、あやまって木の枝でかさをつき破ってしまうものもありました。
がぶり、がぶり、ぺろり。
全身を蛍クジラさんのコバルト・ブルーでそめ、いっそう青くなったアズライトはみんなの方へふりかえりました。蛍クジラさんはもう、あとかたもなくなってしまっています。羽ごろも魚さんのうちの一疋がおそるおそる、言葉をかけました。
「アズライト……どうしたんだい?」
アズライトの背中にはやされた翅がいちど、にどと大きく羽ばたきます。ゆらり、ゆらりとお水はゆらされて、羽ごろも魚さんたちはただ、ただ流されないようにするのでせいいっぱいです。アズライトはふわり、と舞うように羽ごろも魚さんに近よりました。そのおそろしいほどに冷ややかなアズライトの宝石に、羽ごろも魚さんは震えあがります。
「アズライト……?」
するとアズライトの低い音が静かに鳴らしました。
「
羽ごろも魚さんはつぎの言葉を形にすることはありませんでした。アズライトが大きく口をあけて――がぶり、と羽ごろも魚さんに噛みついたのです。なかまの羽ごろも魚さんが飲みこまれたのを見て、ほかの羽ごろも魚さんや糸あめクラゲさんが声をしぼり出しました。
「に、にげろお!」
青のアクアリウムの中はにげまどう、コバルト・ブルーでいっぱいになりました。
がぶり、がぶり、ごっくん。
がぶり、がぶり、ごっくん。
それでも、つぎつぎと羽ごろも魚さんも糸あめクラゲさんも飲みこまれていきます。そしてつぎつぎとコバルト・ブルーの血しおがふきだして、コバルト・ブルーをよりコバルト・ブルーにそめていきます。それは青さが深くなり、もはや黒、とも言えるでしょう。
がぶり、がぶり、ごっくん。
がぶり、がぶり、ごっくん。
つんざくような悲鳴のなか、アズライトはお花も、木々も、小川も噛みちぎっては飲みこみました。ひとつ残らず、平らげていきます。アズライトはだんだんに気分がよくなって、にげまどう羽ごろも魚さんをつかまえると、大きく前足で引き裂きました。さいごにひびく音も、あたたかさも、ここちよいのです。コバルト・ブルーの胴の中を熱く気持ちのよい何かがかけめぐり、満たされた心もちになるのです。
気がつけば、にっこりと満面の笑みをそのコバルト・ブルーのお顔に浮かべています。前足にこびりついたコバルト・ブルーの血しおは甘く、アズライトは自分の指先をなめてはうっとりとします。
もっと、もっと。
すべてを無にきせ。
もっと、もっと。
すべてをおのれの腹のなかに。
アズライトは翅をあやつって、すべての生き物を追いました。動かないものは根こそぎはいで、口の中へほうります。
がぶり、がぶり、ごっくん。
がぶり、がぶり、ごっくん。
さいごに残されたお花を手に、一瞬だけアズライトは前足を止めました。そこにあったのは、スコルピオイデスでした。わたしを忘れないで。誰かが、そう、囁いた気がしました。アズライトはじっとそのお花を見つめます。誰かが、このお花の別のお名前を教えてくれました。けれどももう、アズライトはそのお名前も、教えてくれた誰かのことも知りません。みんな、みんな食べてしまいましたから。アズライトはやおらその手を持ち上げ――がぶり、がぶり、ごっくん。飲みこんでしまいました。
アズライトはようやく四足も、翅も止めました。あたりは静かで、コバルト・ブルーしかありません。あの楽しく駆けまわった――泳ぎまわった、が正しいですが――小川も、森も、お花畑ももうありません。世界に明るい光をともしてくれる、蛍クジラさんの姿もありません。羽ごろも魚さんも、糸あめクラゲさんたちも、かたちひとつ残していません。すべて、無になったのです。すべて、溶けてひとつになったのです。
いいえ。
「さあ、僕たちをほんとうの「核」にしておくれ」
「古い「世界」を無にして」
「新しい「有」の「世界」をここに」
甘く、やわらかな音をシアン・ブルーたちは奏でます。アズライト――いいえ。コバルト・ブルーの「種」は静かに、冷たい声を鳴らしました。
「新しい「有」のために、「無」になって――死んでおくれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます