第4話
翌日、朝方、インターホンが鳴って、出ると由がいた。昨晩のうちに準備は整えていて、必要なものはすべてバックパックに入れていた。だから由が来ればすぐに出発することができた。昨日の夜、母に友人と明日出かけてくると言うと大層驚いていた。廃村現象が始まって以来私は家にこもり切りであったからだ。
自転車に乗って街路を進み、街の外れの県道に向かう。県道を西にまっすぐ進めば、由の住んでいた村につながる道路にぶつかる。道路は山中に入っていき、しばらく進めば村に着く。
午前中の未だ朝方と言ってよい時刻であったが、はやくもアスファルトは熱を放射し始めていた。太陽は照り、空気にかろうじて残っていた夜気の涼しさがあっという間に消失し、蒸し暑く、不快な空気が肌に張り付くようになる。道路には車など一台も走っていない。県道を西に向かった先にあった村や町はほとんど廃村現象によって滅びてしまったからだ。だから私と由は自転車で車道を悠々と走行した。田んぼの真ん中を通る県道は、畦道のように周囲よりも盛り上がっていて、ときおり吹く風が心地よかった。青々と茂る稲が、一面に広がっている。風が吹くと田んぼの稲がざあざあと靡いた。蛙が鳴いていて、青い空を鳶が旋回していた。蝉の鳴き声が遠くから聞こえる。田んぼの先には連なる山々が見え、空には低く積雲が漂っている。あの積雲はいずれ入道雲になるのだろうとふと思った。
だらだらとくだらない会話をしながら、私たちは県道を西に向かった。由は村に帰ることにテンションが上がっているのか、よく喋った。喋る内容は村での生活のことや、最近読んだ本や、好きな作家についての話だった。由が自分のことについて話しているのを初めて聞いたので、彼女が自分に心を開いてくれたのだと思って嬉しかった。由の話し方は上手で聞き入ってしまう。面白い話をしているわけではないのだが、由が愉快そうに話すのでなんだかとても面白いような気になってくる。私はけらけらと笑った。笑うのは不思議と心地よかった。
気温はぐんぐんと上昇し、太陽は南の空に高く昇っていく。陽は燦と降り注ぎ、路面のアスファルトがじりじりと熱を発し、陽炎が揺らいだ。風は時折吹いたが、暑さを取り除くほどではなかった。県道は山々の方へと向かっている。田んぼの海の中、孤島のように神社と鎮守の森が見える。三十分ほど自転車を走らせて、暑さからお互い無言になっていた頃、由が「あそこの神社で休憩しよう」と言った。県道から畦道に逸れて、神社の境内に自転車を止める。バックパックから水筒を取り出し、口に含む。喉を通った清涼な液体は、ほてった体を貫く。ゆだっていた頭が神社の木陰に入ったことで冷まされる。境内にはベンチがあって、それに座った。
神社は随分と古いもののようだった。茅葺の屋根には苔がむしている。塗装は剥げ、随分と社殿は劣化していた。あまり手入れが成されていないらしい。ふと由の姿が無いことに気がつく。探すと神社の裏にいた。神社の裏には石塚があり、頂点に小さな祠が建造されていた。賽銭箱と小さな赤い鳥居もある。だが、賽銭箱は朽ち、鳥居は地面に転がっている。石塚の横には枯れた泉らしき地面の陥没がある。由はこの石塚を見つめていた。私も横に立って石塚を眺めると「いるかもしれない」と由が言った。「なにが」「神様が」「この近くに村なんてないよ」「あるよ、いや、あった。随分前に、もう戦前だけど、急に滅んだんだ。この神社だけが残ってる。図書館で調べた」
そう言いながら枯れた泉の底に降りる。石塚の近く、泉の底に石板がある。石板の中央には小さな穴が開いている。開いているというか、無理矢理開けたのかもしれない。ドリルで開けたような穴だ。
「文化財に指定しようって動きが、何十年前にあったんだ。けどそれは立ち消えになった。なんでだと思う?」
「なにかが見つかったから?」
「そう。その何かはたぶんここにある」そう言って石板に空いた穴を指さした。背負ったままのバックパックから小さなライトを取り出し、紐にくくりつける。用意周到だ。ライトを穴に入れる。そうして由は穴の中を覗き込んだ。私はこの成り行きに呆然とするばかりで、ただ泉の縁に佇立していた。由と総合公園の森で神様を探した時もこのような感じであったことを思い出す。「居た?」と私は訊ねた。私は奇妙に落ち着いていた、こんな唐突に由の言葉の真偽を確かめる機会が訪れるとは思っていなかった。
「居たよ」と顔を上げて由は言った。その声は平坦でやけに感情を感じさせなかった。彼女の目はまっすぐで嘘をついているとは思えない。「見ないの?」と佇立する私に問うてくる。咄嗟に「見るよ」と答えた。
泉の底に降りて、屈んで穴を見下ろす。穴は直径四センチほどで、地面に顔をつけるようにしないと中を見ることができない。この穴の中に神がいてほしいのかいてほしくないのかいまだに私はわからなかった。どちらでもいいというのが本音だった。ただ私は由が嘘をついているとは思いたくないのだ。
ひとつ深呼吸してそれからゆっくりと右目を穴に押し当て、内部を覗き込んだ。
小さなライトは意外に強い光を放っている。穴の内部は幅一メートルほどの小さな空間であった。壁や床は、総合公園の森で見たものとは異なるが、石積みである。小さな石室だ。石室の隅になにかがあった。それは白く、滑らかで、生物的な造形をしていた。人だ、と私は悟った。裸の人が石室の隅に座っているのだ。体育座りである。
足を抱えて、顎を両の膝の上に載せている。顔がライトの光に当てられて陰影がくっきりと際立っていた。白い皮膚が薄暗い石室の中、光を反射して眩しい。その全体像を見た瞬間、全身がぞっと粟立った。背筋を恐怖で貫かれたような気がした。
綺麗な、宝石のような顔がまず見えた。女だ。若い。二十代くらいだろう。眠っているかのようだ。瞼を閉じている。濡羽色の長い髪が肩にかかっていた。肌には血色があり、今にも目を開きそうな気配がある。死んでいるとは到底思えない。
彼女を見つめていると恐怖がぞわぞわと湧き出てくる。それは彼女の造形が人間とは微妙に異なっているからだ。全てのバランスが少しだけずれている。歪んでいる。首が長い。腕は妙に太く、少し長い。丸まった背中には背骨が浮きでいているのだが、やけに大きい。それに胴が長いのだ。その変わり足は短い。足の指は手のように長い。四足の獣のような体の造形をしている。腕と脚の長さが同じで、背骨が長い。私は彼女が直立する姿を想像することができなかった。むしろ想像上の彼女は四足で歩いていた。異形だった。肌が粟立つような嫌悪感が否応なしに発生する。血の気が引くような感じがする。今すぐ目を離したいのに体が動かなかった。
「見えた?」と言いながら由が私の背中を軽く叩いた時、ようやく止まっていた体が活動を再開した。私はバッと体を起こした。振り向くと、驚いたように由が私を見ていた。「見えた」と答えた私の声は震えていた。
見てはいけないものを見てしまった気がした。あれが神なのかという思いと、全ては由の妄言ではなかったのだという安堵と、神の姿への畏怖から、様々な感情が胸裏に去来した。もう一度穴を覗けば、なにもかもが嘘で、石室の中にはなにもいないのではないかと思ったが、また穴を覗く勇気が出なかった。気づけば私は震えていた。得体の知れない、想像の埒外の世界を垣間見た気がした。穴の中にいた神が獣のように歩いている姿が脳裡をよぎる。周囲の風景が今までとはまったく異なったものに見える。あの神の姿を見たことをきっかけにして異界にでも迷い込んだような気がする。
「……あれが神様なの」ゆっくりと声の震えを抑えて私は訊ねた。由は頷き、「そうだよ」と言った。
「神様の姿は神様ごとに違うんだよ。人間に似た格好はしてるけど。私の村の神様はまた別の恰好をしてた」
ふと疑問が浮かぶ。なぜ彼女はこれほどまでに神について詳しいのだろう。神の実在がはっきりしてしまった以上、全て妄想ではないのだ。彼女の知識はどこから来たのだろう。突然、由が得体の知れない人間に思えてきた。彼女が穴の中にいる神と同様の存在ではないかと思ってしまう。私は怖くなって、彼女の話を遮るようにして訊ねた。
「あのさ、なんで由はそんなに詳しいの」
由はきょとんとして私を見た。「言ってなかったっけ」微笑む、そして言う。
「神様から聞いたんだよ。死ぬ前に」
彼女の瞳が深い吸い込まれるような黒であると、この時気がついた。私は彼女の二つの眼を
「神様はいろんなことを話してくれた。きっと最期に誰か話し相手が欲しかったんだと思う。ここの神社の神様の話もしてくれた。あのさ、寧は、たぶん小学校の時に地域学習でやったと思うんだけど、読み聞かせね。このあたりの民話の。ほら捨てられた子どもを育てた犬が、観音様に人間にしてもらったっていう話。あれねえ、逆なんだよ。本当は、犬を自分の子どもだと信じ込んだ人がいてね、その人がある日突然消えちゃったんだ。その話が本当の話」
「消えちゃったって、その人はさ」
私は石塚に目をやった。由は頷く。
「神様になった。その人が神様になったから、その後、ここに村ができた。それで、その神様が死んじゃったから、村は滅びたんだよ。そう神様は言ってたけどね。どこまで本当なのかはわからないよ」
「じゃあ、神様ってもとは人間なの」
「そうらしいね」
脳裡に穴の底にいる神の死体の姿が浮かんだ。あの神様はもとは人間だったのだ。犬を我が子と信じた人間。それがなぜ石室の中に入っているのかはわからない。ひょっとしたら自分で造ったのかもしれないし、もとある古墳を流用したのかもしれない。
こんなところで神の姿も、神の正体も判明してしまうとは思っていなかったので、私はあまりの成り行きに頭が混乱してきた。異形の神の姿は私に与えた衝撃は存外に大きく、未だに肌は総毛だっている。神がもと人間であったという事実が恐怖を得体の知れないものから、より卑近な現実的な恐怖に転じさせた。寒かった。気温が何度も下がったような気がした。
はたと私は手を握られていることに気がついた。温かい感触が手を包んだ。引っ張られる。振り返る。由だった。「そろそろ行こうよ。休憩も充分でしょ」微笑んでいる。彼女の黒い瞳が私を捕らえていた。「ほら、寧」と再度、手を引っ張る。立ち尽くしていた私は、彼女の顔を見た。彼女は微笑んでいる。魅力的な笑みだ。あの夏を思わせるような笑み。私は「うん」と頷いた。それから彼女に手を引かれて歩き出した。
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