第2話

 由に再び遇ったのは夏休みも中盤に入った頃である。

 私は本屋に向かうべく自転車を漕いでいた。自宅から本屋までのルートはいくつかあったがそのうち最もよく使うのが、総合公園内を通るルートだった。総合公園の敷地には森があり、ルートは森に沿っている。夏は木陰になっていて冷涼である。だから夏に私はこのルートをよく使った。総合公園に入り、森沿いの路を自転車で走っていると、ふと、木立の中に人影を見たような気がした。自転車を止めてよく見れば、それは由であった。

 由は屈んでなにやら地面を丹念に調べているようだった。話しかけようか話しかけまいか迷ったが、結局私は話しかけることに決めた。特段これといった理由があるわけではない。あの帰り道での会話以降、私は彼女に悪くはない印象を抱いていたというのもあるし、それに休みの間中ずっと本ばかり読んでいたので、誰かと会話したいという欲求もあった。ともかく私は「ねえ、由、なにやってるの」と路から声をかけた。

 私の突然の声掛けにも驚くことなく、彼女は泰然として振り返った。そうして眉を上げて微笑み、私の名前を呟いた。

「寧」

 名前で呼ばれたことは私を奇妙な気分にさせた。あの終業式の後の帰り道での会話が確かに現実のものであったことが実感できた。あの別れた時のまま、彼女は私の名前を呼んだ。以前に開かれた門扉が、時間が経っても開かれたままであったことを確認して安堵の感が胸に湧いた。

「神様を探してる」

 その言葉を聞いた時、私は開かれた門扉を通り抜けた先に、街や住居ではなくて、茫漠たる[[rb:廣野 > ひろの]]が開けていたかのような気分になった。

「探してどうするの」

「……別に、どうもしないけど。寧は会ってみたくないの、神様。だって神様が死んだらこの街は滅んじゃうんだよ」

「見れるんだったらね。でも神様って本当にいるの」

 由は笑んで言う。

「いるよ。私の住んでた村にもいたし、この街にもいる」

「神社に?」

「うん。総合公園の敷地に神社があるでしょ。ずっと昔からある神社。その神社は近代化の時と戦後とバブル景気の時と、何回か移転しててね、この森のあたりが一番初めに神社があったところ。ここにいるはずだよ」

「……いるって神様はどんな格好なの。神様ってあの神様? ほら日本神話に出てくる」

「わかんない。人みたいな形はしてるけど、たぶん寧が想像してるのとは違う。なんて言うんだろう。人型なんだけど、なんか宇宙人みたい」

「ふーん」

 由の言うことが本当だとは思わなかったが、しかし由の頭がおかしな妄念に捕らわれているとは思えないのも事実であった。私は彼女を怖いとも不気味だとも感じなかった。ただ得体の知れない奇怪な存在だと思った。そうして私が彼女に惹かれているというも事実であった。彼女の奇怪さは、彼女の魅力を何ら毀損しなかった。むしろ増幅させた。なんの気はなしに私は彼女に提案した。

「一緒に探すよ」

 言うと由は驚いた様子で私を見上げた。

「いいの?」

「うん」

 それから私と由は森の中を神社の跡地を探して回った。森は下草が刈られており、木々も間伐されている。総合公園によって管理されているようで、地面にも樹冠を透かして光がこぼれてきている。湿った腐葉土の上を歩きながら、由が周囲を見回す。木々の多くは広葉樹である。

 しばらく探索を続けるうちに、路からだいぶ外れた森の奥に穴を見つけた。地面が陥没しているのだ。覗いてみると、深さはそれほどでもない。二メートルもないだろう。穴の底には落葉が積もり、落下しても怪我はしないだろうと思われる。由が穴の底を指さす。隅を指さしている。そこには横穴が開いていた。

「ここだ」

 と由は言った。こんなところに神様がいるのかと私が横穴を眺めていると、突然に由が穴の底に飛び降りた。それから「寧は上で待ってて」と言って、止める間もなく、横穴に近づき、顔を突っ込んで内部を確認し始めた。

「広いよ、かなり」

 そう言って、穴から顔を出すと、穴の底に積もった落葉をかき分け始めた。横穴の辺りを重点的にどかしていく。どうやら横穴は堆積した落葉により、大部分が塞がれていたようで、落葉をどかすごとに、横穴がどんどんと広がり、ついには人ひとりが通れる大きさにまでなった。「よし」と由が頷く。ポケットに手を入れて、ヘッドライトを取り出して、装着する。私はここまでの成り行きを茫然と眺めていたが、彼女が軍手をつけ始めたあたりでようやく我にかえった。

「まさか、穴に入るの?」

 私の質問に由は「当然」と言って頷く。「もしもなにかあったら言うから、そしたら助けてね」そうして穴の中に潜り込んでしまった。穴からは初め、地面をこするような音が聞こえてきたが、そのうち何も聞こえなくなった。私は穴の縁に立って、横穴の奥の闇をただ眺めていた。森の閑けさが途端に痛烈に意識された。私の胸の底にある不安が静寂によって増幅される感覚があった。私は由が穴に潜ったまま二度と戻らないという想像に取りつかれた。彼女にはそう思わせるような、ふとした時に消えてしまって二度と戻らないと思わせるような雰囲気があったのだ。

 実際にはそうたいした時間は経過していないのだろうが、何時間も経ったかのように感じる。彼女が穴の奥で何かトラブルに見舞われたのではないかと心配になってくる。

 だがその心配は杞憂であった。私が横穴の闇を見つめていると突然、由の声が聞こえてきたのだ。その声は反響しているのか、聞き取りにくかったが、「寧、こっち来て」と言っていた。私は何かあったのかと慌てて穴の底に降りて、横穴に「どうしたの」呼びかけた。すると「いいからはやく」と返ってくる。横穴の闇の奥にちらちらと光が見えた。それは段々とこちらに近づき大きくなってくる。やがて光の中に由の姿が浮かび上がってきた。顔が少し土に汚れている。

「はやく降りてきてよ」

「神様が見つかったの」

「まあ、いちおうね」

 意味ありげに言う。私は穴の奥の闇と、光に浮かぶ由の姿を見つめ、一度頭上の樹冠を仰いだ。木々の葉を透して夏の空が感じられた。空と、神様がいるという穴の奥が同じくらい遠いように感じられる。ここまで来て神様を見ないというのももったいない。私は意をけっして穴に潜り込んだ。

 穴の入口は落葉と土砂でほとんど塞がれているが、奥に行くほど堆積物は少なくなる。よって入口部分から奥にいくにつれ地面が滑り台のように下がっていき、穴は広がっていくのだ。堆積物の滑り台の終端に由は立っていて、私の足元をヘッドライトで照らした。

 流入した土砂の下には岩石があるようだ。岩石は平面で、凹凸はほとんどない。一枚岩だ。両側の壁と天井もどうやら一枚岩のようであった。自然の洞窟ではなくて明らかに人工の石窟である。古墳を思わせる。どうやらここは通路のようだった。

 私が横に立つと、由は「見つけたと言えば見つけたんだけど」と話し出した。「見れば早いかな」そう言い、歩き出す。由が私の手を掴んで引いた。手を引いて先導してくれるらしかった。最初は驚いたが、私は彼女の手を握り返した。

 通路はそう長くはなかった。すぐに小さな部屋に出る。地面を掘削し、壁面を漆喰かなにかで塗っている。天井は通路よりも高い。この小さな部屋の中心にさらに、地下へと続く階段がある。これを降りていく。一直線の緩やかな石段である。階段は地下へ地下へと降っていき、今度はさらに大きな部屋に出る。そこが行き止まりだった。まったく何もない人工の大きな地下室が眼前に在った。ここは何なのかという疑問はさておき、ここに神様がいないということだけは確かであった。地下室の中には闇だけが満ちていて、由のヘッドライトの光だけがぽつんと浮かんでいた。

「いないじゃん」

 と私が言うと、由は神妙に頷き、「逃げ出したんだ」と言った。「この街の神様は逃げたんだ。死体が無い。いなくなるだけでいいんだから、別に死ななくてもいいんだ。逃げちゃえばさ。逃げた先で死んだんだろうけど」

「どういうこと」

「神様はね、祠の外だと長くは生きられない。ずっと植物みたいに祠の中でじっとしてる。けれど突然、自死する神様もいるんだよ。私の村の神様も自分で死んじゃった。けど、死ぬのなら自死じゃなくてもいいんだ。例えばさ、祠から逃げ出して、外で死ぬっていうのもひとつの方法なんだ」

 由の言い分に従えば、この地下室には神様が居たのだが、逃げ出してしまったらしかった。そして逃げた神様はもう死んでいる。そう考えると、ふとある恐ろしい連想をしてしまう。信じているわけではない。ただそれでも考えてしまうことは避けられなかった。

「……それじゃあさ、神様が死んだってことは、廃村現象が起こるってこと? この街で」

 私はそう由に訊ねた。冗談のように軽い口調で言おうとしたのだが、声が震えている。由は私を見ずに、地下室の地面を凝然と見つめつつ「そうだね」と答えた。私は頬をぶたれたかのような気がした。サッと血の気が引いて、胸の奥の漠然とした恐怖と不安が急に立体感を持って浮かび上がってくるのがわかった。由の話は嘘だと、神様などいるわけないと私は頭では信じていたが、しかし恐怖と不安がお構いなしに増大した。地下室に充満する闇が私に迫ってくるような気がした。

「この街は滅びるよ。神様が死んじゃったから」

 由はそう言った。何故だか私はその言葉を笑い飛ばす気になれなかった。私は気がつけば彼女の手を強く握りしめていた。

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