雪の中
中且中
第1話
雪が降ってきた。正午を過ぎたあたりから降り始めた雪は、徐々に積もっていき、下校する時刻になると街は雪化粧を施されて真っ白になっていた。灰色の雪雲は重く空にのしかかり、粉雪が次から次へと空から落ちてくるのだ。空にいる神様が大きな雪の素のようなものをふるいにかけているのかもしれない。ふるいの網目からこぼれ出た細かな雪が、空から落ちてきて、地上は一面雪に埋もれる。
最寄り駅まで歩を進めながら、周囲を見れば、庭木や街路樹の上、地面が露出した部分ははや雪に覆われ、アスファルトの上にも薄っすらと積もり始めていた。それほど積りはしないだろうとの予報だったけれど、それは外れそうだった。視界は降り落ちる雪に白く染まり、キンと冷えた外気は、昔旅行で言ったスキー場の空気を思い出させた。コートを着ていないことが悔やまれる。
電車は幸い止まることはなさそうだったが、この降り具合を見る限り、いつ運行を停止してもおかしくはないだろう。駅に着き、いくらか遅延した車両に乗り込む。高架を走る電車の窓からは、学校のある街の景色が鳥瞰される。同じような高さをした二階建ての家々の屋根が地平線まで続く住宅街であったが、今やその屋根には雪が積もり、白く染まっている。雪に煙る中、車窓からの景色は雪原かのようにも見えた。電車がターミナル駅へと向かううち、住宅街にはマンションがぽつぽつと見え始める。マンションは雪原の中に佇む
ターミナル駅で乗り換える。構内を幾多の人々が行き交っている。車内の暖房に温められ、湿り気の多い暖かな空気を纏った人たちと、外から構内に入り、雪を肩や頭に積もらせ、厳寒な空気を身に纏った人たちが、ごたごたと入り混じる。人々は流れに乗って、駅構内を忙し気に移動する。私もその流れに逆らわずに加わって、ホームへエスカレータで降りて、ちょうど停車していた車両に乗り込んだ。
車内にはちらほらと人がいる。皆が間隔をあけて座っている。立っている人はいない。私は座敷の端に座った。ぼんやりと濡れた床と、そこについた足跡を眺めた。
やがて電車はゆっくりと動き出した。
がたんごとんと電車は揺れる。暖房で温められた座席は、熱いくらいで、臀部が燃えているかのように思えてしまう。車窓の景色は真っ白で、街灯の光や車のライトの光が、ぽつぽつと見えた。電車は揺れる。走って、駅に着く。停車、発進。走って駅に着く。停車、発進。停車、走行、停車、走行、停車、走行。電車は揺れる。私は暖かな車内の空気に溺れたようにぼんやりとして車窓を眺める。真っ白だ。私の脳内にも雪が積もっていくような気がする。精神の世界に雪が降り積もり、私の心は真っ白になる。真っ白。
はたと私は我に返った。
眠っていたわけではないのだが、意識が内面へと向いて、外面からの情報が遮断されていた。私は外面へと意識を向けて、ちょっと驚いた。乗客の数が随分と減っていた。見回すと、後ろの方に一人、制服を着た子が座っている。女の子だ。高校生。見たことのない制服。髪が綺麗。車窓を眺めている。車両の前方には誰もいない。
ぐるりを見て、私はあることに気づいて「あ」と声を出した。車両が一両しかなかったのだ。後方には扉がない。前方には運転室がある。私が乗っていたのは、何両だかは忘れたが、六ぐらいはあったはずだ。一両編成のわけがない。そうして、私はさらに電車の内装が異なっていることに気がついた。座席の色は紺色であったのが、臙脂色に。所々の意匠が異なっている。全体的に古色を帯びている。何十年も前の車両であるかのようだ。運転席には人がいる。運転手だ。この電車には、私ともう一人の少女と運転手の三人しか乗っていないのだ。
一体全体これはどういうことなのだろう。電車を乗り換えた覚えなどない。この電車はなんなのだろう。そうしてどこを走っているんだろうか。車窓を見るも真っ白である。雪が降っているのだ。車内を見回すが、路線図がない。そういえば広告もない。液晶画面もない。私は急に不安を感じた。孤独を感じた。世界との関係性が瞬間に断絶され、茫漠たる世界の只中を死ぬまで孤独に彷徨しつづける定めにあるのだという予感、あるいは確信が胸を襲った。
私は立ち上がり、窓に顔を押し付けてなんとか外の様子を見ようとした。結露を手で拭う。白い。どこだろう。一面真っ白である。遠くに人家のものらしき燈火が見える。検討もつかない。顔を離す。外は薄暗い。夜ではないが夕方だろう。スマホで時刻を確認しようとしてぎょっとした。圏外である。圏外? そんなことがあり得るのか? 都心部であるのに。
ポケットにスマホを突っ込み、着座する。後方の少女に声をかけようと思ったのだが、得たいの知れない車両の中にいる彼女もまた得体の知れない存在のように感じられて、声をかけるのが躊躇われた。私は何をすることもできずに凝然として車窓の雪景色を眺めた。不安が風船のように膨らんで胸を圧迫する。息が苦しくなる。ここはどこなのだろう。とうとう耐えられなくなって、せめて後方の少女に話しかけてみようと立ち上がったその時、電車が減速を開始した。アナウンスが流れ、ざあざあと雑音混じりの声で、「次はS駅に停まります」と聞こえる。S駅? 聞いたこともない。だが、ともかく私はほっと安堵した。駅に降りられるのだ。そこで駅員さんにここがどこだか訊ねればよい。ともかくこの電車から離れたかった。幾ばくも経たずに電車は停止し、二つしかないドアが開いた。開くや否や私はホームに降りた。それで、絶句した。ホームはあまりに小さかったのだ。一両編成の電車が停まるのだから当たり前だ。待合室のような小屋がある。無人である。奇妙なのが、ホームの両側が線路に面しているのだが、ホームから降りる場所がないのだ。ホームにあるのは屋根と小屋だけだ。ホームの周囲にもかなり雪が積もっている。一面、雪原のようだ。あたりにはなにもない。人家の灯りは見えず、ホームと電車の照明のみが光源となっている。私は唖然としてこの衝撃的な光景を見つめた。ここはどこなのだ? まったく見覚えが無い。頼みにしていた駅員もいない。
途方に暮れていると、背後に足音がした。振り返ると運転手である。難しい顔をしている。「すいません。お客さん、どうもこれ以上進めないみたいでね。立往生ですよ。それに電気もさっき止まったんです。どうも架線が切れてしまったらしい。向こうの小屋に入ってください。助けがくるのを待ちましょう。私はもう一人の方を呼んできますから」
私は咄嗟にもう一度車内に戻ろうとする運転手の手をつかんで、尋ねた。
「待ってください。ここはどこなんですか、この電車はなんなんですか。わからないんです」
「ええ? ここはS駅で、この電車はT線ですよ。さあ、はやく小屋に入ってください、凍えてしまいますよ」
頭を殴られたかのような気分に私はなった。そうして呆然自失として小屋の中に入った。小屋の中は暗く、冷えている。しかし風を防げるだけまだましだった。入口のドアを閉める時に、電車を見ると確かに照明が消えていた。架線が切れたというのは本当なのだろう。ベンチがあって、私はそれに腰かけた。
ぞろぞろと運転手ともう一人の乗客である少女が小屋に入ってきて、会釈をする。このとき初めて私は少女の顔を見た。不思議な感慨の湧く顔をしていた。非常に整った顔立ちをしていて容姿端麗なのだけれど、どこか人間ではないような気がする。肌は真っ白で、雪のようだ。触れると冷たいだろうなと私は思った。怜悧そうな印象を受ける。彼女もまた会釈を返した。私の隣に彼女は腰かけた。近くで見るが、やはり知らない制服を着ている。運転手は小屋の中を忙し気に動き回って、ストーブを取り出したり、毛布を取り出したりしている。
「あのう、はじめまして。お名前はなんというんですか。高校生?」
私は恐る恐る少女に話しかけた。少女は首肯する。
「[[rb:真 > まこと]]です。高校は一年生」
「あ、じゃあ、同い年だね。私も一年生だから。私は[[rb:寧 > ねい]]ね、名前。高校はどこ?」
「[[rb:甲 > きのえ]]のB高校」
「……ごめん、聞いたことないや。私は楓南高校。聞いたことある?」
真は首を振って否定した。
「そうか。あのね、大変だね。今日、こんなに雪が降って、私始めてだよ、こんな雪降ったの見るの」
「そうなの? これくらいならよくあることだけど。引っ越してきた人?」
「いや、生まれた頃からここに住んでるけど。……ねえ、あのさ、ここ、どこなの? 私、電車でぼうっとしてたら、気がつくとこの電車に乗ってたの。私が乗ってたのは一両編成じゃなくて、何両もあったし、人もそこそこ乗ってたし。なにかわかる?」
きょとんとして真は「知らない」と言った。
「じゃあ、この駅はどこが終点なの? どの地方を走っているの? それだけでも教えてくれない?」
「終点はSマイナス19駅とS19駅で地方はTH県の第2地区」
「……ありがと」
全然知らない地名だ。異界にでも迷い込んだのではないかと思えてくる。あるいは夢でも見ているのだろうか。
運転手がやってきて、毛布を私と真に渡して、ストーブをつけた。灯油ストーブだ。赤赤と赤熱する。小屋の中が次第次第に温まってくる。どこからかかカップ麺や菓子を持ち出して、私たちに食べるように勧めた。運転手は中年の男で、優し気な顔つきをしていた。
「電車が止まるのはよくあるんですよ。この前もねえ、車両のトラブルで一時間くらい立往生しちゃったりね。わたしが直したんですけどもね。雪で立往生というのは、何年かに一回あるかないかってとこかなあ、先輩がなったことがあったって言うしね、もしもの時のために駅ごとに小屋と非常食やら毛布やらが置かれているから、起こるかもしれないなあと思ってたけど、まさか自分が運転する電車で立往生するとはねえ。二人は学生さん? 高校生? 友達かな」
「あ、違います。さっき会ったばかりで」
「そうなのかあ。まあ雪がやむまでの辛抱だね。うん、わたしは無線で本部と連絡をとったりしているからね、外の雪かきもしないといけないし、だからまあここでゆっくりするといい。食べ物も飲み物あるし、燃料も十分ある。そこまで心配することはないんだから」
そう言った後、運転手はまた立ち上がり、小屋の奥へと引っ込んだ。物音と話し声が聞こえる。ストーブは熱と光を発している。温かい。貰った菓子の袋を観察する。知らないパッケージのデザインに、知らない会社の名前。食べるとクッキーらしく、おいしかった。真に「食べないの?」と訊くと「いらない」と答える。
それから私たちはぽつぽつと話をした。不安を紛らわすために私は普段より饒舌になって、学校の友人のことや家族のことや読んでいる小説の話などをした。真は見た目に反して笑い上戸らしく、くすくすと話を聞いて笑ってくれた。私はなんだか得意になって、身振り手振りを交えながらくだらない愉快なエピソードを披露して、滑稽に道化を演じ、彼女を笑わせようと努めた。大笑する質ではなかったが、真は手で口を隠して、にこにこと笑って私の話を聞いてくれた。時折、いいタイミングで相槌や質問、リアクションをしてくれるものだから、私は一層、話に熱が入った。
ちょうど話がひと段落したところで、運転手が微笑みながらやってきて、私たちの向かいの椅子に腰を下ろした。「仲良くなったようですねえ」と呟く。私はなんだか照れ臭くなって、真の顔を見た。真は私の目を見て、いたずらの成功したいたずらっ子のように笑った。なにが愉快なのだかわからなかったが、私たちは無性に面白い気分になって笑いあった。運転手はきょとんとして笑い合う私たちを見ていたけれどやがてつられて笑い出した。三人でひとしきり笑う。どこにいるのだかわからないために生じていた不安はいつのまにか霧消していた。
それから私は運転手に、ここがどこだかとか、この駅はなんなのだかとかについて質問した。私が気がついたらこの電車に乗っていたことや、S駅やT線などについてまったく聞いたこともないことも伝えた。話し終えた後、運転手は首を捻って「不思議なこともあるものですねえ」と言った。
「でもですね。そんなことが起きてもまあいいでしょう。わたしはそれを不思議と思うけれど、それはわたしがその因果がわからないだとか知らないからそう思うんであって、でも実際起こったのだから、わたしが受け止めるべきは、その事象が起こったという事実だけであるんです。なんらかの原因があって結果として起こった。でもその原因はわからない。ただそれだけだから。それを受け止めるしかないんじゃないかなあと思うんです」
「はあ」
よくわかるようなわからないようなことを運転手は言う。
「でも気づけば、この電車に乗っていたのなら、またふとした時に、気づいたらあなたのよく知っている場所に戻っているかもしれませんよ」
「そうですか」
私はそう言って、肯いた。思うに、畢竟、そのような態度をもって状況に相対するのがよいのだろう。あれこれ悩んでも騒いでも、わからないものはわからない。そのうちわかる機会もあるだろう。私はそう思って欠伸をした。なんだか眠くなってきた。運転手は寝ないでいるというから、私は横になった。真は起きていると言う。眼を閉じるとすぐに眠りに落ちた。
ごおごおと巨大な獣の咆哮のような音がする。それが夢の中の出来事なのか、現実で起きていることなのか、判然とせずにぼんやりとしていると、いきなり視界に真の顔が現れて、「目を覚ました?」と訊いてくる。「うん」と頷いて体を起こす。意識が覚醒しても獣の咆哮は依然聞こえるので、この音は外の風の音なのだなと私は納得した。周囲を見て、私は「あっ」と驚きの声を発した。ストーブは稼働していて小屋内は春のように暖かい。ストーブの前に誰かが倒れている。制服を着ている。運転手だ。私が驚いたのはそれだけが理由ではない。彼の右腕と胸、腹がない。右半身がない。体の下には水たまりができている。体の断面は真っ白だった。雪だ、と私は思った。体も顔もぐにゃぐにゃと変形している。断面のあたりが、ぼろっと崩れて、水たまりに落ちて、ぐしゃりと潰れた。私は近寄って触ってみた。シャーベット状の雪である。運転手の体に触ると、ぼろぼろと崩れていく。全て雪だ。彼は雪で出来ていたのだ。彼の目は閉じていて、熱でゆがんだ顔はやすらかに眠っているかのようだ。
「こ、これ」
私は手が震えているのを感じながら、運転手の死体? を指さした。真は肯いて「融けちゃった」と言った。
「融けた? 融けたって、そんなことある?」
「さあ、でも、他にも融けてるよ」
真は天井を指さした。仰いでみれば、なんだか天井がてらてらと光っている。ドーム状に変形してもいる。ぴちょんと音がする。よく見れば、天井から水滴が落ちているのだ。てらてらと光っていたのは水であった。私は小屋もまた融けているのだと気づいた。それから、小屋の中のものが随分と減っているのにも気がついた。小屋の隅には雪の塊がある。あれが棚であったのだろうか。私が寝ていたベンチも融けかけていた。ドアの周囲だけが原形をとどめている。外の冷気が入ってくるからだろうか。突然、手を握られた。振り返ると真が私の手を握っている。その手は暖かくて、私は真が幽鬼ではないことが証明されたような気がして、なんだかうれしくなった。「なに?」と尋ねると「外に出ない?」と言う。
「外は吹雪だよ」
「違うよ。もうやんでる」
そんな馬鹿なと思ったが、真に手を引かれてドアを開け、外に出てみれば確かに嵐はやみ、そとは快晴だった。空は雲一つない。背後にある深遠な宇宙の色を感じさせるような紺碧をしていた。私は唖然として空を見上げた。それから地上に目をやった。雪が積もっている。地上は一面真っ白だった。地平線の先までまったくなにもない。ネットで見た南極の映像が確か、このような感じだった。
駅のホームも電車も線路もまったくなにもかもが姿を無くしていた。雪の下に埋まってしまったのだろうか。私たちが出てきた小屋の扉と、かつて小屋であったかまくらのような雪のドームが、背後にあった。それ以外はまったくなにも雪以外存在しない。
気温は低いのだろうが、日差しがあるためにそこまで寒くはなかった。
ごおごおと私が嵐の音だと勘違いした音が、時折響いてきた。「この音は?」と言うと、真が左の方を指さした。そちらを見て私は息を飲んだ。
地平線の果てになにか巨大な、山のような、生き物が居るのだ。直立した肥満の鯨のようなシルエットをしている。その方向からごおごおと風の唸るような音が聞こえる。「なにあれ」「さあ」
それから唐突に真は歩き始めた。慌てて後を追う。
「ちょ、ちょっと、どこ行くの?」
「どこだと思う? 家かなあ」
「家? 待って私もついてく。ついてっていい?」
見捨てられるのではないか、おいていかれるのではないかという恐怖から咄嗟に私は言った。ここがどこだとか、なにがどうなっているのかについて考えるだけの心の余裕が今は無かった。私は真がなにかを知っているような気がして、彼女の後を歩きながら「ねえ、これ、どうなってるの。わかる、真は」と尋ねた。真は振り返らずに言う。
「たまになるの。雪がすごいたくさん降ったり、雨がたくさんふって洪水になったり、火山が噴火したり、隕石が落ちたり、津波がきたり、地震になったり、戦争が起きたりして、私以外の世界がなにもかも滅んでしまって、私はたった一人になる。他のひとたちはみんな死んでしまうし、消えてしまう。建物も植物も動物もなにもかも消えてしまう。私はその滅んだ世界をあそこのむこう、地平線にいる獣の方向へ向かって何日も何日も歩く。そうして歩いていくと、段々と緑が見えて、水が見えて、雲が見えるようになる。虫や獣の姿が見えるようになる。建物がちらほらと見えだして、街に着く。人間がそこには暮らしている。私はその街に着くと、街の人々に歓迎されて、住民となる。それから長い長い月日が経って、街はどんどん拡大して、人々はたくさん増えて、世界中に街や国をつくって発展していく。そうしてある時、またなにか大きな出来事があって、世界が滅ぶ」
ごおごおと獣の声が聞こえる。そんな馬鹿な話があってたまるかという思いと、現に目の前の光景が真の話を立証しているではないかという思いが脳内で拮抗する。
「じゃ、じゃあ、私は? なんで私は滅びなかったの? 私以外のなにもかもが運転手さんみたいに雪みたいに融けたのなら、なんで私は融けなかったの?」
「それは、きっと、寧も私と同じだからじゃないかなあ。私も一番初めの時に、歩いていたら知らない場所にいて、そこはちょうど戦争が起きていた。空から爆弾が嵐のようにふってくるんだけれど、私だけには当たらずに、気がついたらあたりは焦土になって、遠くに獣が見えた。私は獣を目指して歩いて、街があって、歓迎されて、やがて何千年も経って、世界が滅んで、今度は大嵐でね、それで世界は水浸しになったけれど、それでも水平線の先に獣がいた。私は獣を目指した。これを何度も何度も繰り返している。けれど、たまに、私と同じような人と会うことがある。私と同じようにどこか別の世界から迷い込んできた人。その人たちとは本当にたまにあうだけで、一緒に行動することは少ない。みんな本当に変わった人たちだから」
あまりに壮大なスケールの話なものだから、私は頭がくらくらとしてきた。つまるところ、何だか知らないが私は、生滅を繰り返す奇妙な世界に迷い込んでしまったらしい。なんでなのだ? しかし、わからない。不安と得体の知れない焦燥感からパニックに陥ってしまいそうになったが、ふと融けて死んでしまった運転手の言葉が思い出された。おそらく、私にはわからないだけで、なにか理由があるのだろう。原因があるのだろう。ならばわからないのだからどうしようもないし、目の前のことを受け止めるしかないのだ。いずれ分かるときがくるかもしれない。
私は両親や友人や学校やこれから経験したであろう様々なことや、かつて経験した様々なこと、そうして私が過ごしていた街や国や世界のことについて考えた。真の話が正しいなら、私のいた世界は別に滅びていないだろう。滅びたのは私が迷い込んだ別の世界なのだ。私は私がいた世界に戻ることができるのだろうか。
「もといた世界に戻れるかなあ」
私がそうつぶやくと、真は立ち止まって言った。
「……たまに会う私と同じ境遇の人たちの中で、あるとき姿を見せなくなる人がいる。自殺したんじゃないかって話と、元の世界に帰ったんじゃないかって話の両方の説がある。私たちは老いることは無いし、すごく死ににくい。寧もきっとそうなってる筈だよ。でも死のうと思えば死ぬこともできるから自殺もできる。でも、到底自殺しそうにない人が消えることがあって、それを私たちは元の世界に帰ったんだと言ってる。突然迷い込んだんだから、突然抜け出してもおかしくはないっていう話でね。だから、きっと帰れるよ」
「うん」
私は肯いた。いつかきっと帰れるのだと思うと希望が持てた。
けれど、私は目の前の出来事を受け入れるしかないと思ったが、なかなかそうするのは難しかった。長い長い間、私は友人や家族にも会えないのだし、以前まで送っていた生活はもう送れないのだし、そうして私の眼前にあった未来とそれに付随する将来への希望だとか不安だとか焦燥だとか、ともかく漠然と想像していた人生が、まるきり実現不可能なものになってしまったというのは、異常なほどの喪失感を私に与えた。心身の大部分が失われてしまった気がした。私と言うものを私たらしめていた要素が失われてしまって、それなのに私が存在し続けていることがなんだか気持ちが悪いことのように思えた。
同時にこれから先、真の言うように私は不老不死みたいな存在になって、永遠と彷徨い続けなければならないのだという確信があって、私は無明の闇の中に囚われた罪人のような気分にもなった。それに、私の手を握り続ける真が、無限とも等しい時間を孤独にさすらってたのだということへの同情心というものが湧いてきた。私はなんだか感情がごちゃごちゃになって、涙が出てきた。ぼろぼろと目から温かな液体が流れ出て、嗚咽がして、鼻水やら涎やらがこぼれるのを押さえようと顔に手を当てるのだけれど、どうしたってこぼれ出てしまうのだ。
そのうち、私は誰かに抱きしめられていることに気がついた。真が私のことを抱きしめていたのだ。だんだんと涙はひいていき、私は真の体温を感じながら、真のことについて考えた。真はずっと一人でいたのだ。彼女は孤独で、それを寂しいと感じていたのだろうか。だとしたら、彼女が私の手をひいて獣の方向を目指したのは、私に旅の道連れになってほしいからなのだろうか。私は小屋の中で見た彼女の笑顔を思い出した。私はぽつりと言った。
「あのさあ」
「なに?」
「もとの世界に帰れるまで、一緒にいようよ。いいかなあ」
真は私を抱きしめるのをやめて、私たちはお互いに見つめ合った。私の提案に真は微笑んで「いいよ」と言った。
それから私たちは立ち上がり、今度は真に先導されるのではなく、お互いに手を握り合って歩き出した。獣の啼く方向へ、二人で。
雪の中 中且中 @kw2sit6
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